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Lee Ufan

ジャム・セッション
石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策
写真と絵画−セザンヌより
柴田敏雄と鈴木理策
2022年4月29日[金] - 7月10日[日]

アーティゾン美術館

 

Lee Ufan

場所の彫刻
峯村敏明
いろんな時代のいろんな種類の彫刻から、付加的・偶有的な要素をつぎつぎと剝ぎ取ってゆくと、何が残るだろうか。「存在」への問いだろうと、私は思う。「存在」への痺れの感覚、と言ってもいい。
物が在り、人が在り、世界が在り、仮象の底にやっぱり何かが在る、ということの不思議。そして、それらすべてが無いかも知れぬことの衝撃。物質的知覚的実在と観想的空無との間の、身震いを催す虚無の充溢から、しかし、やはり、何かが立ち現われる。その「出現」をも含めた「存在」の呻きを発するのは、あらゆる芸術のなかで、ただ彫刻だけなのである…

Iida Shoji

「幻触」や「もの派」をも超えて
椹木野衣
1960年代半ばすぎから70年代初頭に静岡を拠点に活動した前衛美術のグループ「幻触」は、長い間美術界で語られることがほとんどなかった。しかし近年、いくつかの角度から光が当てられ、にわかに評価が高まっている。
忘れられていたのには、いくつかの理由が考えられる。中でも、彼らを支えた美術批評家・石子順造が早々に亡くなったのは大きかった。石子はサブカルチャーと美術との接続や、文化人類学的視点をいち早く取り入れるなど、先駆的な仕事を残した。美術批評家としては例外的にマンガ家・つげ義春や宗教学者・中沢新一との交流も早くからあった。石子の再評価と相前後して幻触に注目が集まるのは自然なことだ…

Genshoku

「現代美術」の一つの到達点としての「幻触」(試論)
川谷承子
雑誌『美術批評』誌上で、針生一郎、東野芳明、中原佑介ら“御三家”と呼ばれた美術評論家が活躍をしはじめた頃、東京大学の大学院に籍を置く石子順造が、美術へのほとばしるような情熱を秘めて、転地療養のため静岡の清水に移り住んだのは、「幻触」誕生から10年前にさかのぼる1956年の事だった。石子が、先に清水で立ち上げたグループ「白」の経験を反省材料にして改めて組織した「幻触」は、石子の理想を具現化したような前衛集団だった。当時30歳代後半の石子は、死と隣り合わせの身体で、命を削るように批評の言葉を紡ぎだし、静岡の若い美術家たちをたきつけて制作に向かわせた。「幻触」のメンバーは、多摩美術大学出身の鈴木慶則や小池一誠のほか…

Vialla

無限またはクロード・ヴィアラ
李 禹煥
無限――。スピノザの言葉が想い浮かぶ。
このテーブルこの壁、あの樹木やそこの空気、人々家々、都市と空と星々のすベてが無限を呼吸している。世界が在るのではない、無限が広がっているのだ。無限、それはイメージではない、ここの空間がそのまま宇宙であることだ。そして空間の充満感こそが無限を換起する。まさに無限とは、生の感覚でありよろこびの泉である。私は、ベニス・ビエンナーレ(1988・夏)で、クロード・ヴィアラの作品在陳列しているフランス・パビリオンをうろつきながら、ふとこんなことを思った…

Ichihara Hiroko

イチハラヒロコ さん インタビュー
今年は活動30周年にあたり作品集の第三弾も出版されますね。そのあたりもいろいろとお話をお伺いしたいと思います。ところで、インタビューは久しぶりだとお聞きしましたが、、、
はい、ここ数年は雑誌などのインタビューを実施してこなかったんです。言葉の作品だから説明的になってしまったり蛇足になってしまったりとか。説明するとつまらなくなってしまう気がして。意地悪な言い方をすると、4つしか聞かれることが なくて。この作品を作ったきっかけはなんですか?苦労する点は?どこを見て欲しいですか?将来どうなりたいですか?その4つしか…

Ichihara Hiroko

Rika Syounen no Yume
私は理科少年だった。その頃に読んだのだろうか。「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅人である。地図は探求の結果として、できるのである。」という湯川秀樹博士の自伝の一節が今も心に残っている。科学者の眼差しとは少し違うが、絵描きもやはり“何か”を探求したいという想いは同じだ。“何か”を追いかけているあいだに、いつの間にか時は過ぎてゆく。
花と向き合いはじめて15年目を迎える。思えばこの旅もずいぶん長くなった。初めは遠く、そして少しずつ身近に感じてきた花たちだが、近頃その距離感がとても曖昧になってきた。距離が縮まったのではなく、やはり曖昧という言葉がしっくりと馴染む。これは花と向き合っている時ばかりではない…