私が始めて韓国を訪れたのは70年代の半ば近くである。1968年に東京国立近代美術館で開催された「韓国現代絵画展Jが、韓国の現代美術をわが国に紹介する最初の機会だったが、それがひとつのきっかけになったのか、70年代になると韓国の美術家が東京で個展を催すようになった。画家の朴栖甫、徐承元、彫刻家の沈文燮らと並んで、河鍾賢ももっとも早く個展を開いたひとりだったと思う。

2年後、再び渡韓したが、この2回の韓国訪間によつて、多くの美術家の作品を見る機会を得た。もっとも多くといつても、私の知った美術家たちの大半は1975年に組織された「エコール・ド・ソウル」展に招待された顔ぶれだった。評論家の李逸はかつてこれらの美術家を「70年代の作家たち」と呼んだことがあるが、李逸のいい方によるなら、私の会った美術家は「70年代の作家たち」が主だったということになる。

河鍾賢もそうした美術家のひとりだった。「70年代の作家たち」の作品は、むろん画―的であるわけではなく巾と拡がりをもっていたが、絵画については、私にはその巾と拡がりを貫通して共通するある顕著な性格が感知された。それは画面に平行して拡がる空間ヘ固執し、画面に対する垂直方向にはきわめて抑制的な態度である。そして色彩については単色と映るものが多く、白あるいは黒を特徴とする作品が多いのも際立った性格のように思われた。

しかし、私の見た作品のなかで、こうした性格からはみだしていて、ちょっと違うなと感じさせる作品があった。色彩は茶系統の単色なのだが、その作品はこの画家は画面に対する垂直方向に関心を抱いているのではあるまいかと思わせるものがあったからである。それが河鍾賢の絵画だった。河鍾賢の絵画は油絵具を固く張られた麻布の裏から指の圧力によつて表へ押出すという技法によってつくられていた。当然、画面には絵具による独特なテクスチャーが形成されるが、そのテクスチヤーは画面に対する垂直方向への動勢を秘めている。私はそのとき、組まれた竹に土を押込んだだけの土壁を連想した記憶がある。

多分、河鍾賢は色彩としての絵具ではなく、物質としての絵具に関心を寄せ、物質としての絵具が示す形状を重視したのである。それはまた絵具に対して「描く」ということとは別種の、指によるより直接的な行為を要請するものだった。こうした絵具の物質性に対する河鍾賢の関心は、現在もなお軽減していない。しかし、80年代に入って、河鍾賢の絵画には大きな変化が見られるようになった。それは画面に平行する方向への関心が生じたことによる。といって、画面のテクスチヤーに示された垂直方向への動勢が、完全に消去されてしまったわけではない。逆に、垂直方向への動勢を保存しつつ、画面に平行する方向への動勢を加えたことによって、河鍾賢の80年代に入っての絵画は独自のスタイルを形成することになった。

水平、垂直両方向への動勢の加算は、画面のテクスチヤーから感知できる。画面の絵具は、これも指によって刻印された帯状、あるいは線状の動きのある痕跡によっておおわれているが、その痕跡が重層しているのが特徴である。痕跡は画面に沿つているが、痕跡の重層はテクスチャーの立体性を印象づけずにいない。こうした作品においても、河鍾賢は油絵具の物質としての形状を絵画の根底に置いていることが知られる。つまり、それはどのような意味でも描かれたものではない。

河鍾賢の絵具と指の関係は、あるいは陶芸家の土と指の関係に近いといえるかもしれない。絵具は視覚よりも触覚によつて美術家と関連づけられる。河鍾賢は作品のタイトルを一貫して「接合」(Conjunction)としているが、私にはその「接合」は絵具と指の合体という意味合いではあるまいかと想像される。人間と物質のもっとも素朴で根源的な関係への欲求が、河鍾賢の絵画の原動力となっているのであろう。それが韓国の伝統的な自然観に由来するものかどうかについて、私は語る能力をもたない。しかし、河鍾賢の絵画にはわれわれの感性と異質なものが含まれていることを感じずにはいない。そこに惹きつける力が潜んでいるのである。

(なかはら ゆうすけ)

河 鍾賢 「接合90-07」 1990 194x260cm 麻布+oil
河 鍾賢 「接合90-07」 1990 194x260cm 麻布+oil

Top » 河 鍾賢展 1990年6月11日-7月4日