モダニズムを超えようとするいくつかの試みも、つまるところは社会的な現代性モダニティに吸収されている。

モダニズムは社会的なモダニティのなかから、あるいはそれとともに生起しながら、ときにそのモダニティに反発し、文化的なモダニティという特殊に見える領域を作り出した。そして、その特殊性が社会的なモダニティの顕著な分化という錯覚を与えてきたが、高度の次元においてその錯覚はとかれていたのであり、その中軸にあったのが絵画にほかならない。

この経緯のなかで、ある種の容認すべきアヴァンギャルドは、絵画によりながら認識論的な表現をとり、かつそれと同時に社会的なモダニティに対峠することでそれを感化したのだが、文化的なモダニティの絵画への単なる抵抗こそがあの社会的、文化的なモダニティの分化を決定的にして今日の後者の前者への隷属を促したのである。それはまるで、教条的な意味での下部構造の上部構造の規定という図式を絵に描いたような現実肯定に赴いている。

ポストモダニズムの一部が、未来主義に関心を寄せた理由が理解できる所以でもある。ポストモダニズムという語は、いま発せられるだけでもわれわれを恥じらわせるが、それは未来主義の現実肯定を意識的、無意識的に映し出している。ポストモダニズムは、レーガノミックスが生み出した社会的なモダニティの文化的なミメーシスであり、それを可能にしたのが、肯定的対象としてであれ、否定的対象としてであれ、その前にあった展開不能のものを有効と見なした誤れる反モダニズム的な背景である。

ボードレールのモデルニテの概念から永遠性の局面が消えて現在だけが残る。よろしい、しかしこの現在は、現在を夢見る現在として旧きヒップ的な流動性と戯れているにすぎない。だからこそ、パウンド(「新らしくせよ」)を拒む一方で儚いユートピア的な理念を隠しもちながら――ここに絵画の現実などあり得ない――まるで夢遊病者のように過去と未来を物理的にさまようのである。趣味とイデオロギーの合体。批評(家)のカメレオンがあるとすれば、芸術(家)のカメレオンがあり、共犯関係を結んでいる。

ポストモダニズムが愛用したステレオタイプがステレオタイプになっている(アンディ・グランドバーグ)、ということは当初から自明だったはずである。このステレオタイプの大前提たるミィディウムが写真である。ノスタルジアとしてのテクノロジィ、それが否定的な偽装の元で絵画というノスタルジアと関係している。絵画を否定するのではなく、否定せざるを得ないところでのみ自己を証明しょうとする者がオブジェ/インスタレーションに向ったように、新たな代替として写真が取り上げられる。グランドバーグによれば、美術の現況には霊的、精神的な志向と政治批判的な志向がある。そこでカメラの霊的、精神的な可能性を疑う写真が作られることになるが、それとても相も変らぬ一つの枠組のなかでの認識論的な懐疑であり、われわれが倦み、不要としているものである。

政治批判的な志向は、表明目標のためにその自己言及性とは異なるコンセプチュアルな手法を用いるが、それが何かを欠いているのは政治批判のせいではなく程度の差こそあれ依然として芸術性のせいである。しかし、これらの志向は分離できない。絵画はその本来的な意味での抽象的な性格において霊的、精神的な志向に関わることで、公共性ではなく社会性をもつことができる。ところが「最後の出口」と言われて以来、それが示してきたのは絵画制作の恐るべき楽天性と悲劇性ではなかったか。

白く平らな面を前にして知覚と手は非マラルメ的に作動せず、擬絵画的な貧しい知が潜在する本能と体験のみをともなって平らな面に投げ入れられるだけだ。このことはいまもなお絵画について談じられている陳腐なジャンル論をはじめとする形式主義を想起すれば事足りる。

モダニズムを批判しながら、そのミィディウムの論理の外部だけをひきずり、他のミィディウムに乗り移り、現在主義によって絵画というミィディウムに帰るという循環。何よりも知覚的な要素を開陳せざるを得ないこの領域において、絵を描いていると言明する者の力が暴露され続けてきた。社会的、文化的なモダニティの二極性を排除して相関的に再考すること、これに関連して絵画における発見への異質な地平を開くこと、これが本展をも含むわれわれの主眼である。

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