doll house ドール ハウス シリーズ

2001–2004

例えば、扉、バスタブ、ソファー、カーテン、階段、シャワー、柱など日常のサブジェクトを一つずつ選んでドールハウスによく使われる十分の一程のスケールで室内模型を作り、それらを写真撮影する。

身の回りのものから記憶のコードを呼び起こして、模型空間の光を再構築するのは、個人的な記憶の再制作ではなく、普遍的なイメージの制作ができると考えているからだ。光の階調はすべて自然光により、光を彫刻するつもりでイメージをつくる。

2001年に始めたこのシリーズが、写真をメディアに「不在という存在」の表現を試みた最初である。時間は記憶を熟成させるものでもあると思う。

 


choosing scenery 風景の選択シリーズ

2004–2008

ドールハウスシリーズでは、窓の向こう側は何もない光源だった。それが窓の向こう側へも意識が向いて、雨をつくってみたくなった。雨が叙情的に心理や感情に作用するのは何故だろう。雨の無数の粒に、反射し透過する光のせいだろうか。雨の深度を変えながらイメージをつくっているうちに、どうして雨の向こう側に風景が見えないのだろうかと思い、窓の外に風景を見るイメージをつくり始めた。雨は閉ざされた室内のイメージから風景が見えるイメージへの境にあり、視野を広げたくなった心理の境にある。それは不在という存在から解放されたということだろうか。

風景を選択して、海、雲、樹などを一つずつ、窓の向こうに置いてみる。木漏れ日の小道、満開の桜、冬の枯れ木など、記憶の風景と実在する風景をすりあわせながら風景を探してみた。風や雨、木々に縁取られた光の明暗に宿っている記憶を所有したいという欲望が生まれた。

どのような出来事も記憶に身をおいて限りある時間に刻まれていく。刻々と過ぎてゆくすべての時が愛おしい。

 


invisible boundary 見えない涯(はて)シリーズ

2008–2011

海の彼方を眺めて安堵するのは、終わりが見えないからだろうか。空を眺めて移ろう空模様に魅入るのは、止まることのない時間を見るからだろうか。海の涯、空の涯への視線は、終末への慰めに向けられたものかもしれない。悲しみや苦悩に焦点を合わせない視線かもしれない。いずれにしても、涯際が見えないことの抽象性に救われる。

涯の風景について考える一方で、「空が生まれたところ」と名付けられた地がある。ここから空が生まれたと想像させたのは、その地の清らかさと透明さの力のせいだろうか。空や海を眺めながら、生まれ来る光景と死に逝く光景がつながっていると想像させられる。

あるいは風景はすでに終末を宿していて、不在の輪郭を少しずつ描きながら見ているのかもしれない。

 


green house temperature / humidity 温湿シリーズ

2012–2015

このシリーズタイトルには、「視る眼差しx看る眼差し」という副題が続く。ベッドの上に横たわっている人には同じ光景も違って見えているのではないだろうか。焦点の合わない瞳に映るのは、優しくて淡い風景なのではないだろうか。椰子の木がどのように見えていただろうか。芙蓉は何色に見えていただろう。そんな思いから白黒のイメージとカラーのイメージがある。

病床の様子は、温室の植物と似ていると思う。チューブで栄養が送られ、温度や湿度に守られている。生と死のグラデションの中で、透明化していく命を見ながら、温度や湿度のイメージを捉えたいと思った。

看取ることで様々な感情に動かされるが、不在の空白から免れるかもしれないと思う。

 


another angle 天視シリーズ

2019–2020

真の美とは何だろう? 本当に大切なものとは何だろう? 込み入った社会の中で、移ろう時代の中で見失いそうになる。稀にではあるが、規範やたてまえに準じることなく、権力や富に屈することもなく、真に美しいものを本当に大切なものを明言できる人に出会うことがある。彼らを天視人と呼びたい。常に理不尽と対峙しているようで、真価を見据えようとする視角は他とは違う。意視というレンズの焦点はとても深度が深い。厳しくも優しい天視人の心象風景を想像してみたい。

人が不在することで、本当に大切なものが現れ、遺してくれることがある。

 

寺田真由美 2020年9月

 

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