Sekine Nobuo

石子順造や「幻触」との出会い

僕が石子さんに初めて会ったのは、多分、ギャラリー新宿の「幻触展」(’67.9)前後だと思います。その時に「幻触」を知ったのだと思いますが、その時に鈴木慶則さんにお会いした記憶があります。そのほか「幻触」のメンバーにもお会いしたと思います。しかし、「第11回シエル美術賞展」(’67.8)では、幻触のメンバーと会話をした記憶はありません。

石子さんとは、その後、いろいろなところで会うことになるんです。石子さんには、各種イベントに引っ張り出されて、赤瀬川原平さんと一緒の時に行きあったり、その後、李禹煥さんとも会うことになるんですが。谷川晃一さんや漫画のつげ義春さんや小池一誠さんといっしょだとか、そういう場面が走馬灯のように思い出されます。石子さんと最も深い関係になるのは、青山デザインスクールで学外教授のようなことをやるんですね。その学校に僕が石子さんに推薦されたのです。石子さんとは、学校が閉校になるまで何度も会っていました。

李さんと初めて会ったのは、李さんが「関根伸夫論」で書いているように「長岡現代美術展」(’68.11)で僕が大賞をとった前後ということはほぼ確かですね。「長岡賞展」の前に会ったかは定かでないですが、李さんが「長岡賞展」に来ていたのは聞いたことがあります。「長岡賞展」に行ったことや審査のプロセスなどを李さんがその後証言していますからね。また、李さんとは、新宿の「トップ」という喫茶店で68年の後半から勉強会を始めたということも確かです。

ギヤラリー新宿は、「トップ」という喫茶店の10メートルか20メートル先にあったギャラリーなんですね。確か、本屋さんが経営するギャラリーで、その後、閉店してしまいました。「幻触」の全てを知ったのは、そのころです。

僕が高松次郎さんのアシスタントをやったのは67年だったと思います。それは、何故かというと、斉藤義重さんから「高松さんがアシスタントを探しているので君いけば」と言われたんです。それで、櫛下町順子を誘って高松さんのところに行ったんです。約半年間、高松さんの68年の「ベネチア・ビエンナーレ」の作品づくりをアシストする制作助手をしたんです。「ベネチア・ビエンナーレ」が68年9月ころなので、その半年か1年前のことなんです。大学院に席を置きながら67年の春から秋にかけてだったと思いますね。当時、67年ころに、「トリックス・アンド・ヴィジョン」の原型が出た時期です。僕が、なぜ高松さんのところに行ったかというと、美術というものは、言ってみれば空間の認識ではないかということを斉藤義重さんとの対話で納得したからです。新しい空間の認識をひもといていったり、いろいろな勉強をしたんです。一般科学も含めて勉強した中で、位相幾何学にぶつかったんです。だけど、高松さんのアシスタントをしている時は、あんまり、位相幾何学には関心がなかった。だから、67年の前半のころに、高松さんと相当議論したということを覚えています。高松さんは、非常に議論が好きで、当時プロのアーテイストだったから、周囲にあんまり議論する人がいないんですね。たまたま僕がアシスタントになったので、すごく話が合ったんだと思うのです。僕は、作業が終わると奥さんの手料理の夕食をいただいて帰るんだけども、その最中ひっきりなしに高松さんは喋っているんです。ですから、話が終わらないんですね。その間お酒がでてきたり、結局泊まることになったりしてね。そして、夜中じゅう、喋ったりしていた記憶がずいぶんありますね。

その当時、高松さんは、逆遠近法のみならず、いろいろな平面と立体の中間的な領域の仕事をしていたような気がします。僕らは、新しい感覚、空間の認識では話が合った気がしますね。僕は、徹底的に高松さんと話をしましたから…。67年の「シエル美術賞展」の僕の作品は、どちらかいうと、ポップアートに近い作品でした。この当時は、まだ高松さんの影響を僕は受けていたが、その後、位相の考え方に出会ってプッツリと高松さんの影響が切れるんです。多分、位相という言葉を使ったのは、僕が最初だったと思います。位相とは、形の変換、変形ですよね。「現代日本美術展」(’68.5)の作品は、真正面から見ると円筒に見えるわけです。しかし、脇から見ると歪んでくる。円筒ではありながら非常に歪んでくる。ビジュアル的には正面から見ると円筒に見えて、それを側面から見ると変形する。それが一種の柔軟な位相の空間性なんですよ。

「位相―大地」は、位相空間を示そうとした訳です。僕は残念ながら彫刻というものを1回も作ったことがなくて初めての経験だったものですから、彫刻の作り方があんまりわからなかった。正直なところ、金もないし、あるのは体力と仲間たちで、この「位相―大地」の考え方に出会ったと。これを実際に、思考実験としてやったんだけど、完成した結果を見て非常にショックを受けたんです。なぜかというと、土が固まって陰陽になると物的強さがあったんです。そこで、物質感を引き出すこういうやり方もあるんじゃないかと、みんなに喋ったことがあるのです。それは、吉田克朗であり小清水漸であった。それで彼らもしばらくは作品づくりができなかった時期があったと証言していますけれども、ものに対するこだわりが強くなるのは「位相―大地」かなと。「位相―大地」によって、彼らも経験したのかなと思います。

当時、石子さんと喋ると、「と」の理論、何々と何々の「と」が重要なんだというんです。陰と陽というか、結局「間」が問題だと盛んにいうんです。石子さんという人は、非常に理屈っぽい人で、全部言葉に置き換えないと気がすまない人で承知しない人なんだよね。僕らは、どちらかというと感性の人だったけれど、石子さんは、こまかく物事をボーリングして検証しようとしているんです。

李禹煥らとの勉強会

当時、新宿の喫茶店「トップ」で李さんと頻繁に勉強会をしたわけだけども、僕が李さんと会って一番ショックだったのは、「位相―大地」の解釈が進んでいるんですよ。それ以前の評論家というものは、「位相―大地」に対して、ネガとポジだとか、ないとあるだとか、もう本当に情けないような言葉をいっているわけです。つまり当時の評論家のほぼ全員が、非常に印象批評に近い形しか出せなかったんですね。それに対して李さんは、非常に踏み込んでいるわけです。「存在と無を越えて」にも書いているけども、ハイデガーをベースにしながら、世界のありようみたいものを伝えている。いわゆる近代を越える思考を盛んにいっているんですね。そのへんは僕自身も分からないこともあったし、李さんと話をしなければと思ってね。僕らの仲間がいっぱいいたんだけれど、みんな論理不足なんだよね。彼らに多少とも論理を身につけさせなければと考えた。僕は、そのころ先生じゃないんだけれど、仲間内では親分のような存在だったので、その連中をとにかく李禹煥と共闘させようと、仲間に引き込んでその論理や言語が必要だと直感したもんだから、仲間を引きずりこんでは李さんと会わせて「トップ」で議論したわけです。石子さんの論理というのは、今まである論理の着せ替えなんですね。だから、根本的思想は、進んでいるわけではないんです。それを今の現象に合わせて、いろいろ手を変え品を変えて言葉として追いつこうとしているわけなんです。それに対して、李さんの言うことは違うわけですよ。李さんは、哲学的な世界観を持って話すから石子さんと差異もでるだろうし、結局、李さんにしても、具体的言葉、直感としての言葉がないわけですね。僕らと喋ることで、そういう言葉を強化していったというプロセスであったと思うんです。

川端康成のコップの話は、石子さんと李さんの議論の中で出てきたものだと思いますよ。だれが言い出したかわからないけれども、たまたま出てきた言葉で、太陽光線でコップが光ってすばらしいシーンを見た。一期一会の世界だということを力説したいわけです。石子さんは、むしろ、李さんに対して「お前は何をいいたいんだ」と聞き出す感じだったです。それが、反間として整理されないまま悩んでいるという感じですよね。

当時、李さんを正統に評価したのは、石子さんです。ほかの人はいなかったですよ。みんなは文句をいっても、それを担ぐ人はいなかったと思います。石子さんだけですよ。李さんがよく言うのは、石子さんが引っ張りあげてくれたんだという言い方をしてますね。石子さんからは、「李さんが僕のことに興味を持っていた」と引っ張り出されて聞かされたり、彼流の言葉でいうと「これであっているのか」といつも言っていました。

「トリックス・アンド・ヴィジョン展」という展覧会は、ひとつのビジュアル的な表現ですけれども、それ以前の「シェル賞」や「毎日現代展」でそのような機運が生まれているんです。特に「幻触」グループが、その辺を深めた部分があるといえます。例えば、丹羽勝次さんの平面をヒモだけで表現する作品だとかは、ほかにはなかったですよ。だから我々も関心を持ったことは事実だし、そういう考え方があって、今までのやり方にない空間が柔軟に解釈される点に関心があった。鈴木慶則さんの作品もです。あの当時1967~68年のシーンとしては、非常に新しかったです。それから書いている人もいるけども、アメリカン・アートなどにない日本的シーンだといえるんです。当時、アメリカでは、ヘンドリックスなどしか表立って視覚のトロンプルイユ的な作品を作っていなかった。日本特有の傾向といえる。東京画廊で展覧会をやったヘンドリックスが、当時、日本ではモテたんです。次の空間をつかむのに、当時は、マグリットやヘンドリックスが重要な外来の美術だったのでしょうね。日本での受け方は、ヘンドリックスに救われたこともあるんですが、河口龍夫にしてもみんなある時期やったんですね。高松さんもそうだろうし、「幻触」もそうだろうし、李さんもやったんですね。

「位相―大地」ショック

68年までは、むしろ「幻触」がリードしていたわけです。事物が事物であるべきとする考え方が生まれるのは、「位相―大地」以降のことだといえますね。小池一誠さんの仕事は、僕ら「もの派」の仕事と同じですね。だれが仲立ちになったかというと、石子さんであり李さんであると思いますね。ただ、そういう動きも一方ではあったということは分かりますよ。69年に加工しない作品を発表している「幻触」の作品は当然だと思いますよ。68年10月の「位相―大地」ショックというのはあったわけです。「幻触」がそれまでのトリッキーな部分での仕事がしづらくなったんだと思いますよ。だから、全部の素材とかの検証が行われたんです。瞬時にそれぞれが行ったんですね。当時、「位相―大地」だけに影響されたかはわかりませんが、特に、小池さんの仕事は、トリッキーのその先に変化していったといえますね。当時、僕は、小池さんと相当話をしていました。「位相―大地」は、位相空間を表現しようとした位相シリーズの流れの中で、野外彫刻としてどうしたら位相的な空間ができるかを考えて誕生したといえますね。土を使った理由としては、当時ランドアートなどが出てきた時期でもあり、確か「長岡現代美術館賞展」でバリー・フラナガンが、袋をつくって砂を詰めた作品がありました。僕は、そのことも知っていました。また、アメリカのオルデンヾ―クが四角い穴を掘ったランドアートの作品などの情報も知っていました。

「位相―大地」で土を使った理由の中には、自分が彫刻に対する素人であったこともあると思うんだけれども、持ってきた材料をどう加工するかよりも、もっと差し迫った問題として「材料をどうしよう」、「お金も無い」、「彫刻の技術もない」があったですね。正直にいいますとね。当時は、海外のランドアートの情報もそれなりに入っていたことが、土という材料を選定するきっかけになっていたと思います。

僕は「位相―大地」をつくるまでには、斉藤義重さんの影響などとともに老荘思想なども傍らで読んでいましたからね。老荘思想は、相としてモノを見るわけですよね。例えば、水が変化していくさまを観察して人生訓に持っていくということ。それを端的にいえば相、それを科学的にヨーロッパ的に論理として確立させるのが位相幾何学なんですね。僕の中では、東洋思想と科学がつながっているんですね。位相幾何学と老荘思想が同じだなと直感的に感じているんですね。

インタビュアー: 本阿弥清

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