Kamakura Gallery
1964年、版画家の伊藤勉黄さんにつれられて石子さんに会いました。確か作品を見せた覚えがあります。
印象に残るということではありませんが、それまで現代美術ということばも知らなかった僕には、石子順造という人物が僕の前に現れたという事実が最も大きな驚きでした。その石子さんが、病気を抱えて痩身であったこと、語ることばに、元気でいる僕達より、よほど迫力があったこと、世界を言語として読み取ろうとする意思の強さなどに惹かれました。
石子さんの所へ集まったから「幻触」という訳ではありません。ギャラリー創苑でのグループ展をやるについて名づけたと思います。明らかな動機は僕にはありませんでした。面白がってやった、という群集心理のようなものでした。
壁に掛けられた鏡に、向かいの壁に掛けられた鏡が写り、その鏡が又写るという連鎖を作品にしました。
「HALF AND HALF」鳥かごにハイヒール
「HALF AND HALF」鳥かごにピンポン
「HALF AND HALF」鳥かごにコップ・歯ブラシ
「トランスマイグレーション(流転)」。杉の木を2本、1本は縦に半分にカットし、もう1本は横にカットして、半分ずつ美術館へ、残りは山へ。
「トリックス・アンド・ヴィジョン」展では、「見る」を限定的に扱うことを試行しました。事物を「見る」ということが、「そこに世界を自己投影するものだ」とする、つまり、そこに見られるのは、自己自身であるというパラドックスを作品化したものです。1969年の「現代日本美術展」との違いについては、主に西洋文化の美術の歴史を形作っていた、特に近代に於ける人間中心主義のもとで行われてきた美術の歴史、つまり概念やメジューム・スタイルから「トリックス・アンド・ヴィジョン」展を通じて自由になったとき、石子さんから「第9回現代展には何を出品するの」と言われたので「富士山に登り、手ごろな形の木を見つけ縦に半分にカットし、半分を美術館へ、半分を山に残します」と言うと、石子さんは、目をつぶりしばらく黙っていたが「それはすごい」と一言いってくれました。実のところ、自分の答えは慎重に考えたあげくではなく、突然そう答えただけでした。つまり、「トランスマイグレーション」は、僕の意識過程の中で充分に計画されたのではなく、「何気」ないものでした。しかし、作品ができるのは、だれでもそんなものでしょう。ただ最小限の手立てで成り立つ、つまり「作らない」ことを前提としました。何かを予定しそれに調和していくというような「作る」原理から自由でありたい。「何気ない」行為をする。その中に意味のすべてが込められている。そのことを信じたい。
石子さんからの情報というよりも、李さん、高松さん、寺山修司さん等が静岡に来られ、語り合いの中で、前田君、小池君、僕などが問題を共有し合ったのであって、そのような意味で作品そのものから影響ということではありません。それは李さんも関根君も同意見ではないでしょうか。
1967年代後半には、パリの五月革命、アメリカのベトナム戦争やその厭戦気分、ヒッピーのドロップアウト現象、安保闘争、学園紛争など、ともかく我々の生の基盤がゆらいだ(と感じた)。言い換えれば、自己の生の基盤とその価値とは何か、その「間」が脅迫観念となった時代でした。「幻触」が置かれたのは、そんな時代でした。今にして思えば、美術の運動上にあらわれた多様な形式や、その質にことよせて、この美術形式をだれがいち早く手をつけたか、あるいは、だれの影響であったかと、取り沙汰するのは分かるが、前述の時代状況では、美術家や美術評論や、他の思想家や知識人は皆、同一の線上に置かれていました。確かに知的存在者、例えば美術評論家の「美術家は猿だ」、という言い方もあります。しかし、これは美術評論家の「美術家は馬だ」、と言い直した方がいいと思います。美術評論家を乗せて走る馬という意味です。ところが、馬は、美術評論家の向こう方には走らないで、評論家は落馬する憂き目にあいます。落馬した地点が、大学であるならばまだしも、不毛な原野だったりすると、見る影もありません(死をも招きます)。美術家というのは、ことほどさように勝手なものです。したがって、だれの影響を受けたか?というのは、なかなか難しくて、だれかに影響されたとしても、そのだれかが、だれかの影響下にあることが見えてくるのです。つまり僕達の置かれているのは「引用の系譜」という歴史的事実の中に置かれているということです。しかしながら、だからといって影響がなかった訳ではありません。1960年代を、自己の死を前提として生きたひとりの男の生き様に、ある存在者の凝縮した姿を見ないわけにはいきません。やはり僕に影響を与えたのは石子順造さんでしょう。
もともと僕は「群れる」ことが嫌いでいたので、石子さんがなくなったのをきっかけに又単独に戻ったのであって、「幻触」が解散したのではなく、僕がいなくなっただけです。
1962年4月、清水東高校へ美術教師として赴任し、その後まもなく鈴木慶則氏のアトリエにて出会った記憶から1962–63年頃と思います。
最初に出会った時、石子さんから「小池君はどんな絵を描いているのか?」と聞かれ、説明にこまり、雨の降る中、下宿先まで作品をとりに行ったこと。石子さんが上京してからも、静岡の自宅に帰った時は連絡があり、魚釣りをしたり夜は話し合ったり、そんな中でもサルトルの「無」と鈴木大拙の「無」について朝まで話し合った事が印象に残っています。
当時、グループの結成がいくつかありましたが、新しいグループのあり方として、個がぶつかり合うことで新しい空間を模索してみたいと思い参加。
作品タイトル「円(平面)から球」。トリック?
作品タイトル「鏡」。鏡に写されたエッシャーの相対性」(Relativity 1953)を筆にして描写。コンセプトは、複製技術の時代の表現とは。
作品タイトル「鏡」、100号、油絵の具。鏡に写された北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」。ポップ的絵画、油絵。コンセプトは、複製技術の時代の表現。
記憶が定かではありません。重なり合った10個の円から球形が弧を描いて移動する状態を表現。汽車(電車)の窓枠に映った自画像(「自画像展」出品作品)。
作品タイトル「石NO.1」。当時は、制作過程では、ミニマル・アート、行為(ポロック)、自然などを常に意識していたように思う。同時にメルロ=ポンティの世界は、視座(点)・ヴィジョンを考える上で影響を受けたと思う。
当時、サルトルの『想像力の問題』、メルロ=ポンティの『眼と精神』、その前にハイデガーの『存在と時間』等が話題になり、小生もそんな中で表現の問題を思考する。「トリックス・アンド・ヴィジョン」からヴィジョンヘの意味が強くなって行ったと思う。
関根伸夫氏の「位相」については、大変興味を持ち、私の中でも「位相」の概念を再確認した記憶があり、又、「位相―大地」の視座にも大いに興味を持った。
影響を受けた作家は、中西夏之、赤瀬川原平、高松次郎、関根伸夫、李禹煥。批評家は、中原佑介、石子順造、針生一郎、東野芳明。
私にとってのグループ「幻触」は、もともと個の集団としての意識が強く有り、発足は1966年頃よりとしても、解散の年月は問題にあらず、今日でも当時と違ったかたちで持続しているという捉え方もできる。
多摩美大4年生時の夏休みと記憶します。昭和32年の夏です。
特異なその反(非)近代主義です。あらゆるジャンルにわたり、近代性を呪っておりました。憎悪に近かったです。
石子氏の結成したグループ「白」から、自然の流れとしていつのまにか「幻触」同人となっていました。前田氏、小池氏と共に、参加したと思います。もっとも70年代中期に「幻触」は首になっておりますが…。
「本」というのがタイトルです。岸田劉生の絵画刷印前の白紙本(貴重本)に各ページ、挟まれた虫とか区切り用カードとか、紅茶のシミ等を描きました。現在、静岡文化芸術大学が買ってくれまして、そのコレクションになっております。
「作られた自然一非在のタブローー青空」と記憶します。その他、今ではなくなりましたが、100号のカンバスに鏡2枚(それにも青空が映って蝶が一匹舞っている…)を出品したと思います。
「非在のタブロー(アルチンボルディーによる)」その他と記憶しています。
鏡と「キリコによる非在のタブロー」です。トリッキーな作品でした。このキリコは、今秋、国立国際美術館の「もの派―再考」展に出品いたします。
4点の作品からなる「See Saw Seen」です。
表現における石子順造の呪縛…いまだとけずにいました。氏の死後、J.ラブ氏、林芳丈氏、郭仁植氏等と知り合い、今日のWater-Drawingとの苦闘が始まりました。
影響などというレヴェルを超えていました。あまりに異色な作品と出会ったので(今日ではまったくそう思っておりませんが)、作家活動ができなくなった程でした。ただ、作品が時代の流れに抗して名作の位を保持するのは至難の業と思います。
表現における石子順造の呪縛です。その一言につきます。
「幻触」の解散については、その前に僕は「幻触」を首になっておりますので感知出来ません。「現代美術を語る会」は前田氏が行った活動で、僕は一度出席しました。
石子さんが、藁科川沿いの産女(うぶめ)で借家住まいをしていたとき。
飯田さんの誘いで産女の石子さんの借家を何回か訪れた。いつも、口角泡を飛ばす語り口という表現がぴったりのしゃべりが、強い印象として記憶に残っている。アンチタブローを起点にして、「表現とは何か」を熱く語った。絵画を「見ることの制度」として捉える視点がその時の僕には、とても新鮮であった。
グループ「幻触」への参加によって、それまで10年間続けていた「新制作」への出品をやめた。石子さんや飯田さんの強いアプローチによってできた作品に「触」がある。それは、自分の今までの表現から如何に遠く離れることができるか、という自らの仮説によって「描かないこと」を描いたものであった。
記憶が定かではない。
2点。切り抜きによる箱形にロープを掛けたものと、切り抜いた矢印型の方向指示柱(四角柱)。
この年「シエル美術賞展」に2点出品しているが、それと同じ切り抜きによる「箱」シリーズの作品5点である。作品は、いずれも等角投影図法によって切り抜かれた箱形の変形カンバス(合板)である。タイトルはすべて「切り抜きによる「箱」シリーズNo…」である。
基本的なコンセプトに変わりはないが、より錯視効果を高めるための手立てとして、ロープによって箱形を梱包する。2点。
梱包された箱形を高所から吊り下ろす。箱形を下から見上げる目線に移すことによって、錯視効果と臨場感をより高めるようにした。
特に無し。
特に無し。
批評家として石子さんはもちろんだが、『美術批評』から出た針生一郎、中原佑介、東野芳明の各氏。作家としてのハイレッドセンターやネオ・ダダ、具体などの動向は僕にとって常に刺激的な存在だった。身近な作家として飯田昭二さんには、学生時代からずっといい意味での情報とサジェッションを受けてきた。
特に無し。
(『石子順造シリーズ第3弾 グループ幻触の記録』(2005年10月虹の美術館 発行)及び『幻触』(2006年1月鎌倉画廊 発行)より転載)