Kamakura Gallery

 

今回、鎌倉画廊で開催された展覧会は、ふたつの展覧会を下敷きにしている。ひとつは、2001年に「虹の美術館」(当時は清水市)で開催された「石子順造とその仲間たち〈グループ幻触を中心に〉」展、もうひとつは、2002年に静岡文化芸術大学ギャラリーで開催された「幻触1968年」展である。老舗の鎌倉画廊がどうして静岡の美術家たちに関心を寄せたのか、いぶかしがる方も多いと思うが、「幻触」と「もの派」の愛憎半ばする関係を考えれば、多少なりとも理解できるのではないだろうか。周知のとおり、鎌倉画廊は、「もの派」に深い関心をもちつづけてきた画廊である。そして、「幻触」は、望んだわけではないにせよ、「もの派」を生み落とすひとつの母体となった。

ここには、5人の美術家が勢ぞろいしている。50音順にいえば、飯田昭二、小池一誠、鈴木慶則、丹羽勝次、前田守一の諸氏である。「幻触」にかぎらず、美術運動におけるメンバ―の入れ替わりは日常茶飯事だが、この5人が中心的なメンバ―であることは間違いない。現在の作品にもあてはまるわけではないが、「幻触」の一員として活躍していたときには、全員が、いわゆるトリッキーな作品を制作していた。トリッキーという言葉は今も昔もネガティブな響きをもっているが、換言すれば、視覚を問い直すために、ある種の知的操作を試みたということである。そうした傾向の作品を集大成したのが、周知のとおり、1968年に東京画廊と村松画廊で開催された伝説的な展覧会「トリックス・アンド・ヴィジョン」展であった。

1968年という年は、日本だけではなく、世界的に見ても激動の年といわれている。その証拠に、1968年だけに焦点を当てた書籍が刊行され、また展覧会も開催されたと聞く。「幻触」が最も輝いたのも、まさに1968年のことなのである。どうしてこの時期に、このようなトリッキーな作品が続出したのか、今なお不明な点が多いが、おそらく、当時スーパースターであった高松次郎の影響が大きいのではないだろうか。高松はすでに1964年から「影」のシリーズに取りかかっており、美術評論家の石子順造をとおして「幻触」のメンバ―と接触をもっていたが、この点に関しては、何度確認しても、「幻触」の美術家たちの記憶はあいまいである。作り手の常として、特定の美術家の影響を受けたと言いづらいのかもしれないが、李のインタビューにもあるとおり、作品を制作するにあたって他の誰かの影響を受けたとしても、それは恥ずかしいことではない。むしろ、自らの出自を明らかにしないことの方がより多くの問題を残すと、私には思われる。

「幻触」という名称のとおり、彼らの作品は、絵画であれオブジェであれ、幻に触れようと試みたわけだが、皮肉なことに、作り手の志よりも仕掛け(トリック)の方が際立ってしまった。一部のメンバ―の意見に従えばトリックではなく、ヴィジョンの方を見るべきだということになるのだが、誰もがそうした深読みをできるわけではない。ただ、当時は、ハイデガーの存在論、サルトルの実存主義、メルロ=ポンティの現象学などが熱っぽく語られた時期であり、美術家たちも例外ではなかった。在ること、見ることを問い直す試みが、美術のもとでも繰り返されたのである。宮川淳という希有の批評家の言説や、「もの派」の生みの親となった李禹煥の言説がそうした傾向に拍車をかけたが、「幻触」のメンバーも、展覧会だけではなく、頻繁に勉強会を開いていた。彼らもまた、同じ病に感染していたのである。

在ること、見ることを問い直すと言葉で言い切ることはできても、それを作品で証すことは容易ではないだろう。「幻触」の場合、絵画にあっては、だまし絵(トロンプ=ルイユ)という古典的な仕掛けを、そして、オブジェにあっては、遠近法の裏をかくようなさまざまな仕掛けを駆使したが、近年、哲学だけではなく、様々な分野から、見ることの仕組みが追究されている。たとえば、大脳生理学の最新の研究によれば、「ものを見るとは、ものを歪める行為であり、一種の偏見」である(『進化しすぎた脳』、池谷裕二、朝日出版社、2005年)という報告がある。仕掛けを駆使して証すまでもなく、見ることは、はじめから無垢ではなかったというわけだ。同じように、眼差しのもとで対象化することなく、あるがままの世界に出会うという「もの派」の言説を理解したとしても、実際にそうした体験を重ねることは容易ではないだろう。たとえ、「ここでいうあるがままはその実、直観における世界の現象であって、単なる対象としての事実の輪郭を指すものではない」(『出会いを求めて』、李禹煥、田畑書店、1982年)といわれても、である。

厳密にいえば、「幻触」がグループとして存続したのは、わずか2、3年のことである。「幻触」以降の活動にも目を向けてほしいというメンバーの発言からも分かるとおり、当事者にとっても、「幻触」の位置づけは微妙であった。「幻触」以降、自然物を使用して「もの派」に接近した者もいるし、コンセプチュアル・アートにまで達した者や、さらには、政治的な闘争に関わった者までいる。当事者にとっても(そしてまた、「幻触」の生みの親ともいえる石子にとっても)、「幻触」とは、早々に乗り越えられるべきひとつの動向に過ぎなかったのかもしれない。とはいえ、見ることの恣意性(見るという制度)を暴くことで、つくることを疑った「幻触」の成果は見直される必要がある。つくることへの疑いは、やがて、つくることの放棄(「もの派」)へと連なり、つくらない美術(厳密にいえば、つくらないという手法による制作)の系譜をもたらすことになったからである。

この記録集に収録されている美術家たちの貴重な発言を通読して興味深いのは、たとえば、李と石子の関係、高松と「幻触」の関係、そして、「幻触」と「もの派」の関係を巡って交わされる、小説『薮の中』を思わせるような食い違いである。高松と「幻触」の関係については先に少し触れたので、李の言説と石子の言説の関係について考えてみよう。古今のサブカルチャーを再評価しようという新たな大波が押し寄せている近年にあって、石子の言説は再評価されつつあるが、李のインタビューは、ふたりの言説の関係を再考するひとつの契機となるかもしれない。そこで李が石子について回想しているのは、世に出してくれた恩義は感じているが、言説については逆で、自らの言説が石子のそれに影響を及ぼした、ということである。おそらく、「幻触」のメンヾ―は、李のこの発言に素直にうなずくことはできないだろう。椹木野衣は、『戦争と万博』(美術出版社、2005年)のなかで、両者の断絶(あるいは、どちらが先駆していたか)ではなく、相関を問うべきときだと述べたが、両者の言説の関係については、まだまだ検証の余地があるように思われる。

「幻触」と「もの派」の関係についても、当事者の発言は食い違っている。というより、「幻触」のメンバ―の煮え切らない発言に対して、李は、「幻触」に敬意を払いつつ、石子の(そして、「幻触」の)限界を適格に指摘している。生みの親に敬意を払いながらも、親孝行な子供は親を乗り越えたが、親子の進路を分かつ重要な分岐点となったのは、近代(美術)を超克できたか否かである。李によれば、石子の言説も「幻触」の作品も、対象から逃れることはできなかったが、この点については、飯田も、「…僕達の作品群に共通する、一見モダンでトリッキーな仕掛けは、近代を裸にするどころか、逆に近代によって僕達の不明が吊るしものになった…」(『(幻触〉後記』)と自省している。自覚がなかったわけではないのである。

と同時に、グループとしての活動は、最初はインパクトをそなえていても、最終的には個としての活動がグループの命運を決めるという、李の指摘も興味深い。「幻触」以降の個としての活動にもっと注目してほしいという、「幻触」の一部のメンヾ―の不満を解消できるのは、作り手の言説(繰り言)ではなく、制作された(あるいは、されつつある)作品ということになるが、この点については、「…個性という名の独自性を強めることで、より普遍的価値を生むと考えるようになると、集団の意味を失う…」(前田守一、『グループ〈幻触〉ノート』)という見方もある。いずれにせよ、「幻触」とは、グループとしてしか語れないような作り手であったのかどうか、今後さらに検討が加えられる必要がある。

最後になったが、この記録集の刊行にあたり、さまざまな資料を提供していただいた本阿弥清氏にお礼を申し上げたい。ただ、今回集められた資料には誤字や脱字が多く、また、意味不明の箇所も多かったので、原文の文脈を損なわない範囲で、削除や加筆を行った。責任はすべて編集者にある。

おのまさはる/静岡文化芸術大学教授

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