Lee Ufan

「幻触」との出会い

60年代のことは、古い話ですので記憶違いもあるし微妙など点もあります。当時のことは、前回の虹の美術館でやった中原佑介さんとの対談でだいぶ話をしたのですが、私がアルバイトをしていた60年代の記憶をたどると、かなり明瞭になってきたことがあるんですね。僕は、1963年頃から新宿の朝鮮奨学会でアルバイトをしていたんです。1966年の後半に、その建物の階下にギャラリー新宿というものを朝鮮奨学会がつくるんですね。僕が言いだしてつくった訳ではないのですが、かなり僕の考えも反映されていて、1967年の秋に「幻触展」があったと記憶しています。その時に「幻触」のメンバーや石子順造さんに会っているんですね。当時の僕は、まったくの無名で、しかも面と向かってのめり込んで喋るような余裕もなかった。当時は、使い走りや画廊の展示などを僕がほとんどやっていたんです。僕は、石子さんを知るよりも早くその時に出入りしていたヨシダヨシエさんを知っていたんです。それから、韓国人の郭仁植さんもギャラリー新宿に少し関わっていたんです。また、新制作協会の深田さんもよくギヤラリーに出入りしていまして、批評家のヨシダヨシエさんや、その後、石子さんもいたと思います。多分、ヨシダヨシエさんから石子さんを紹介してもらったような記憶があります。僕は、その建物の上の階でアルバイトをしていたので、ギャラリーに行ったり来たりしていました。しかし、当時は、だれがだれだか分からなかった。今回、鎌倉画廊の「幻触展」で見た「グループ『幻触』による( )展」の当時のポスターを見て、ギャラリー新宿で開催された「幻触展」をはっきりと思い出しました。

石子さんと知り合うようになったのは67年で、もしかするともう少し遡るかもしれません。石子さんは、ギャラリー新宿の「幻触展」に初めて来たのではなくて、ヨシダヨシエさんと以前から頻繁に来ていたのかもしれません。ヨシダヨシエさんが、僕に石子さんを紹介してくれたのを覚えているかは、あまりに時間が経ったので微妙です。とにかく石子さんは、間違いなく67年のギャラリー新宿で開催された「幻触展」前後に、頻繁に出入りしていたし僕と会っていたはずです。当時、僕はまったく無名で名乗るほどではなかったので、石子さんも気にしなかっただろうし、僕も積極的ではなかったということがあったんですね。僕は、当時の「幻触展」のことをよく覚えています。石子さんのことやほかのことよりも、「幻触展」が非常に印象深かった記憶があります。

「幻触展」より前に、当然、高松次郎さんの仕事を見ていましたから、高松さんの作品によく似てるものがあるんだなという印象がありました。「幻触」の作品は、高松さんの考えに似ているなと思ったんです。当時、僕は、分析するほどの強い関心もなかったし、現代美術そのものにコミットできるような位置にいなかったんですね。68年頃から急激に現代美術の作品づくりをしていくわけですが、それ以前は、現代美術的な作品も作っていたし、いわゆる具象風の作品も作ったり、はちゃめちゃだった。当時は、絵描きになるつもりがなかったですね。当時の僕は、在留資格もあやふやの状態で、学校に入り直してもう一度勉強をやり直そうと考えたりで、何をしていいかわからなかった時期で、政治運動にも関わっていました。自分は、何にむいているのか分からない状態でしたし、そういう中にあって、美術を本格的にやるのではなくて少し斜めに構えていたのが、当時の僕でした。しかし、そういいながらも、少しずつ作品づくりをやっていた時期です。

「幻触」には、ギャラリー新宿で初めて出会ったと思います。非常にトリッキーで「今はこのような作品が流行っているのか」ということが分かってきました。

僕は、当時、「幻触展」でまとまりのある展覧会を見て、すごくさわやかだった記憶があります。まとまりのある面白い展覧会だった印象がありますね。その時の初めの印象は、非常に策士的な一種のイリュージョンということをいろいろな人が話題にしていて、イリュージョンに対する疑い、つまり現実に対する疑いからイリュージョンというものが問題となって美術表現として出てきたんだと記憶しています。真正面から取り組んでいたのが、「幻触」の人たちの作品だと感じていました。そして、大半が、平面の仕事で立体的に見えるようにするということ、前田守一さんのものさしの逆遠近法の作品などがありましたね。その当時の僕は、その作品を見てびっくりしたり面白いということが主で、それを批判するとか違う考えが生まれるなどの気持ちはなかった時期ですね。

その後、68年の関根伸夫さんの「位相―大地」を見るまでは、似たようなものを自分も作っていました。これは、「幻触」の影響を受けてすぐに似たような作品をつくったわけではなくて、68年の秋になって、メビウスの輸のようなものを、つまり68年11月の終わりころに「国際青年美術家展」の応募がありまして、そこに出品したんですね。その応募の締め切りが確か11月末か12月で、10月頃から作品を制作していたはずです。展覧会は、次の年の3月からで、西武デパートで開催したと記憶しています。

僕にとってギャラリー新宿の「幻触展」は、非常にまとまりのある面白いグループの展覧会で、平面なのに立体的に見える作品など、さまざまな方法を使って表現していた。右から見ると白で左から見ると青に見える飯田昭二さんの作品などは、いわゆるどんでん返しというか、非常にトリッキーな、従来の美術で信じられていたものと違う。鈴木慶則さんの作品は、一種のトロンプ・ルイユ(だまし絵)、見るということをだますズレがある方法を出していた。「幻触」の作品は、全体の作品がひとりかふたりの考えでできているように見えた。それは非常に強烈でしたね。

「幻触」とオルガナイザー

「幻触展」を見ると、特定のリーダーかオルガナイザーがいて、その考えが、作品に投影されているのかなと、そんな感じがしましたね。これは、グループがどのように形成されて成り立っているのかということとも関係があるんですね。自然発生的に形成された場合には、方法が似ていてごく似たものが出てくることがある。しかし、中にひとりのリーダーや理論家がいたりすると、方法が違っていても似たような作品ができることが往々にしてある。67年のギャラリー新宿での「幻触展」は、非常に大きな意思と理念が枠組みされていて、その枠内でそれぞれの個性が発揮されていたという感じがしますね。

僕自身も含めて多くの作家たちは、特定の考えの下で作品づくりをするのはいやだと思う。しかし、これは余裕のない態度なんですね。だれかの影響を受けるとか、あるいはだれかの理念の上で展開するということは、悪いことでもないし恥ずかしいことでもないんです。高松次郎は、僕と年が同じなんです。しかし、当時の彼は、雲の上の人で、とても近づける存在ではなかったんですね。それから、関根伸夫は、僕より7–8歳年下なんですが、すごい位置にいた。僕は、高松からも関根からも影響を受けているんです。しかしながら「これで本当にいいんだろうか」といろんな疑問もあるわけですが、とりあえずは「今はこのような問題があったのか」など、具体的に作品をつくる時の心情というか、当時の流行というか空気を目いっぱい自分も受けとめたいと思いましたね。

68年の5月だったか「トリックス・アンド・ヴィジョン展」が東京画廊と村松画廊で開催されましたが、それを見ました。「トリックス・アンド・ヴィジョン展」は、「幻触展」よりももう少し幅があって、「幻触展」のように「幻に触れる」というようなことがなくて、かなり認識論的に知的操作に触れられた作品もあったと思います。中西夏之や高松次郎などのさまざまな傾向の作品があり、一種のトリッキーには違いないんだけれども、ひとりの考えによってなされているという感じはなかったです。だけれども、全体的には、非常にまとまりがあり造形的な表現ということなんですね。まとまった完結された造形的な表現。そういうものに、いわゆるオブジェ、対象に捕われているという限界があると思われました。

それは、僕が勉強したハイデガーとつながる面があって、ひとつの対象の中に作品が収敏されてしまう。ひとつの考えでまとまって閉じてしまうことは、ちょっとおかしいのではないか。そういう疑間がずっと自分の中にあったけれども、それ以外にどういう手があるのかもわからなかった。また、当時は、いろいろな作品があったけれども、自分の視野の中には入ってこなかった。それが、ある時、68年10月の須磨離宮の「野外彫刻展」ですが、展覧会のオープン前に関根さんから電話をもらって作品の様子を聞いていました。実際に地面を掘って土を地上に置く作品は、すぐに驚いた訳ではなくて、じわじわと僕の中に大きな変化が起きてきたんですね。関根さんの作品を見て興奮したのか、自分の考えがその時に展開できるということが分かって興奮したのかは分かりませんが、かなり興奮しました。もし、「位相―大地」の作品が無かったら、その後もずっと自分の作品を変えられなかったかもしれませんね。

「位相―大地」を見ると、完結的なものとか特別な作品上のことではなくて、現実の空間として展開しているものだということが分かったんです。僕は、それが分かった時にすごく興奮したんです。それから、関根さんにいろいろ会って話を聞くと、彼は言葉を形にした訳でもないし、その辺をうまく言葉にしていないような気がしたんです。その後も関根さんに会って話をしたら、僕の意見に全面的に賛成してくれた。これは、トリックなんだけれども、トリックを越えて現実的で、宇宙というのはこういうものではないだろうか。これは、再提示であって現象というものをもう一回やり直してみせる。それがトリッキーじゃないかと僕は考えた。そういうように僕には解けたんです。だから、塊としての作品上の問題ではなくて、そういうトリックというものは、作品を作る方法ということであって、そこから芸術を抜け出すことができる。そして、徐々に、あまリトリックを方法以上に美学的に追求するとまずいと思ったんです。これは、現実の方へ具体的な場面として展開する。たぶんこれが、後に「もの派」といわれるシーンだと思う。「幻触」の人たちの作品は、目に見えるもののトリッキーな造形だと言えます。これは、芸術を疑って、表現行為も現実も疑わしいものなんだということを教えてくれたんだと思いますね。これを作品としてまとまりのあるものにして、視覚におけるトリックの存在理由を作り出したということ。関根さんは、その後もトリックそのものの作品に帰っていくんですが、「位相一大地」の場合は現実にすう―と抜けたんですね。現実とのつながりでいえば、僕が見た当時の「幻触」の作品にはそれがなかったですね。

「位相―大地」以降の作品と石子順造

後に「幻触」の小池一誠さんが、石を割った作品を作った。飯田昭二さんが山に立っている木をそのまま半分残して、半分を美術館に移し立てたりしますが、多分「位相―大地」が発表された後に作った作品でしょうね。それ以前に見た作品には、その傾向の作品はなかったはずです。小池さんや飯田さんの仕事は、おそらくは、その後のいろいろな論議によって作品ができたと僕は推察します。小池さんの石の作品は、現実と非常につながりがある仕事です。小池さんは、1970年の「東京ビエンナーレ」に招待されて石を細かく砕いた作品を発表しています。すでにその時には「もの派」のことや僕もいろいろ文章を発表していたし、1969年頃にはすでに意味が広まっていたはずです。

当時は、実際に僕も、トリッキーな作品を作りながら、現実的なものと結びつくようなものがごちゃごちゃになっていた。僕の頭の中では、1968年の秋に関根伸夫の「位相―大地」を見てから、かなり現象というか現実的なことにかかわりたいという思いに関心が移ったんですね。だから、「幻触」の場合には、見るという仕組みにトリック自体があるという立場で、作品がトリッキーになっていったという論理なんですね。石子さんは、そこの部分にじれったさを感じて、いろいろやっているうちに、民俗学などの分野に関心が移っていくのですが、現代美術の出口がなかなかつかめない状態になってしまった。「幻触」のみなさんは、僕が石子さんの影響を受けていると思っているようですが、それは逆で、石子さんが僕の考えの刺激で方向転換せざるを得ず病気を悪化させたといえるかも知れません。それで石子さんは現代美術から手を引くんですね。僕がトリックと現実の両義性を言ったために、石子さんはショックを受けて進めなくなったと思うんです。

石子さんからは、多大な恩恵を受けたり、刺激を与えてもらったり、いろいろな場面につれていってもらったり、人を紹介してもらったりしました。しかし、「考え」においては逆ですね。僕の影響があったことは、当時の石子さんの発表した文章を見れば、どの時期に思考がどう変化していったかを検証すれば必ずわかることです。いない人のことをいうのは辛いけれども確信を持っていえます。実は、当時、石子さんが何人かで本を出す時に、僕の言ったことも入れるんですね。石子さんが僕に「こういう文章でいいですか」というんで「やめたほうがいいですよ」とか言ったりしていろいろありました。

石子さんは、徐々に近代というものを批判したんだけれども、結局は批判しきれなかった。そして、『表現における近代の呪縛』という非常に面白いタイトルをつけた本を出したりする訳ですね。石子さんという人は、ものすごく正直な人で、自分でうまくいかないと、うまくいかないままにこれはしようがないと。石子さんは、正直であるとともに気が小さい人でした。全共闘のさまざまな場面で心情的には大賛成なんでしょうが、デモには行けないんですね。デモに行こうと誘っても行けない人でした。政治に直接触れるということは、表現者としてはつまらないことだと、別な方法があるはずだと思っていたみたい。僕は、そのためにだいぶ助かったことがありました。石子さんの助言で、政治的な場面にはあんまり出ないほうがいいといわれました。ある時、僕より年下の人が僕のことを批判した時も、反論しないほうがいいと、石子さんは極力その方面のことに関わらないようにしてくれましたね。ものすごく配慮の人でした。僕にとっては初めてのことでした。

石子さんは、民俗学だとか丸石の方に行く少し前に、69年頃か、すでに、『SD』(スペース・デザイン)にガルブレイス(アメリカの経済学者)のものの考え方について、文章を書いたりしている。石子さんは、美術じゃなくてもっと別な方法で何かできないだろうかと、ずっと頭にあったけれども、うまく伝わらなかった気がします。そして、「幻触」に関わってみると、初めは面白がったけれども、段々うまくいかないと思ったのでしようね。なぜうまくいかなかったのかは僕にはよくわかりませんが、石子さんは、思想的な面で、表現というものと思想というものがどこで絡んでくるのか、苦悩していたと思います。そこからの脱出というか、出口がうまく見つからなかったんじゃないでしようか。初めの問題提起は良かったのだけれども、ほかの人や僕からもいろいろ言われたりで、いわゆるオブジェクトですね。どうしても対象に収斂されてしまい、近代批判にはならないということに気がついたのだと思う。しかし、石子さんが、見ることへの疑いや疑間、問題提起をしてくれたということは、大きな功績でしたね。

戦後美術史の中の「幻触」

日本の戦後美術史の中で「幻触」がどの位置にあるのか。戦後美術がどのような流れの中で、何を問題視してきたのかが、いまだに整理されていないのが残念です。そういう意味でも鎌倉画廊での「幻触展」は、ある意味で忘れかけていた非常に重要なシーンを拾い上げて、それに目を向けさせてくれた。僕は、以前から「幻触」の大切さを言ってきたんです。なによりも世間では「幻触」のことを知らない人が多いです。それにもうひとつは、「幻触」そのものは解散したかもしれませんが、「幻触」のメンバ―のその後の積極的な活動があれば、再評価の機運がもっと早く起こったかもしれません。

いわゆる「もの派」というものもそうなんですが、現在進行形で活動する作家が少なくなると、過去の話にばっかりなりどうしても弱いんです。「具体」の場合には、それでも当時の考えを引きずって仕事をしている人たちがかなり残った。「もの派」は急に何人かがいなくなったり、残っている人でも仕事が相当変わっていったりで、当初、60年代の後半にやりだした仕事を続けている人は少なくなってしまった。そうすると弱いんですね。「幻触」だけではなくて、「北美」だとか「九州派」だとか、みんな同じ運命をたどっています。「個」としての積極的な活動が見えないと、グループとしての存在を失ってしまうと思う。しかし、それにしても、60年代後半の一種の政治の季節、60年半ばに国連に加盟したり、70年万博を開いたりですね。戦後世界でも重要な立場を発揮した全共闘時代の3~4年に、かなりの高度経済成長をとげるとともに、日本の知がどうなっていったのか、日本人や「私」がはたしてどのような構造を持ってどのようなことをしていたのかを問うようになったといえますね。右では三島由紀夫、左では高橋和己などですね。二人とも死んでしまいますが、うまくいかなくて解体してしまったのです。そういう疑間の時代、アートの世界でどう表現するかが問われる時期に、一方では「ネオ・ダダ」、そして、「ネオ・ダダ」のある部分で「幻触」のような活動が出てきた。「ネオ・ダダ」の理念は明確ではないですね。一種のぶち壊しとか、なんでもいいから面白いアイデアでつくることよりも、何か強いインパクトのある表現をしたんですね。でも、そのような行為では歴史は語れない。一種の方法意識が芽生えて、方法意識に則って表現方法を捉え直そうと、従来の自分を反省する。存在理由を問い直す時に、各地方から、いろいろな方法論で登場してくる。その最も鋭い方法意識を持っていたのが、まさに「幻触」だったんだと思う。「幻触」だけではないですが、このような状況下で出てきたことに意味がある。しかも、東京だけではなくて、各地域から中央の制度に対する疑いや批判などが始まった。従来の制度に対する一種の抵抗というか、そういうものが爆発した時代であったんですね。

「幻触」や「もの派」の問題点

「幻触」の作品が、69年以降大きく変化していく理由のひとつに、石子さんを介して僕の理論の影響があったのかもしれないという本阿弥さんの指摘については、なんともいえません。僕も若かったし確信があってものを話していたのではなくて、ただ思うところがあって一生懸命に話をしていたんだろうと思います。少なくとも、石子さんの影響で自分の考えが形成されたということは、それは石子さんのためにもならないし、それはないなと思う。

石子さんには、むしろ僕とぶつかって僕をいろいろな面で押し出してくれたことでものすごく世話になったし、石子さんが「共同幻想論」やいろんなものを解釈してくれたことは、ものすごく勉強になったけれども、具体的に現実との関わりについては、僕は関根さんの「位相―大地」を見て、これはまさしく現象というか、現実ともつながるきっかけを持っているものだと。トリックというのは、例えば海を見る時、高い山に登って見ると地平線が丸くなって見えることがわかるけれども、普通、平地で身近に見るとまっすぐに見えるんですね。これは、両方とも正しいんですね。芸術感覚で、丸く描くとそれはトリックなんですね。でも、実際は、宇宙的観点に立つと、それがあたりまえ。それをもういっぺんわかるように提示するのが作品なんだと。そういう考えに行けるように、関根さんの「位相―大地」の仕事を見て感じた。それは大きなことでしたね。もちろん、それがわかった後でも、関根さんも僕もトリックに収まるような仕事もしていますよ。しかし、「位相一大地」がきっかけとなって、段々と現実の方に出るように僕自身の意識も変わっていったといえます。関根さんは、僕の解釈がすごく面白いと賛成してくれたんだけれども、トリックそのものを面白いと感じて、トリックに帰っていくんですね。

その後の僕は、トリックから影響を受けて、そこから抜け出るような歩み方をするのに対して、関根さんは、一旦外に出てみるんだけれども、トリックの面白さに大きくリターンしていくということもあるわけです。大半の「もの派」といわれる人たちは、なぜ途中で別の仕事になるかというと、これは難しい問題であると同時に、非常に面白いことでもあるわけです。

亡くなった成田克彦という人の作品には、炭を焼いたものがあります。炭を焼くということは太古の時代からあった。炭を一般的に目的を持って使用するのではなくて、ただ炭を焼くわけです。木を長方形に切って炭で焼いておくと、これは物なのか炭という言葉なのか、奇妙なものなんですね。それが展覧会場にあると「これは何だろう」ということになる。普通、炭屋に行って炭を見たり、炭を燃やしているところを見るのと違って、長方形の炭になったものがただそこにある。それは、まだ存在していない半端なものなんです。炭を1個ではなくて何個も並べる。これは、明らかに事物ではない。事物からズレたものなんです。だからといって、それは完全な観念だけでもない。ある物質の微妙な部分を出しているんですね。これが「もの派」なんです。これは、よっぽど用心しないと、どこにいくのか、その後に物の方に行くわけにもいかないし、観念の方に行くわけにはいかない。そこで非常に迷いが出てくる。大半の人はそうですね。それで、結局は、普通の面白いレリーフ状のものだとかの方向に行くわけですけれども、うまく行かなくなる。みんなそうなる。自分が初め気がついてやってみるんですが、確信を持ってやっているのではない。絶えず揺れているんですね。ブレるわけですね。その揺れが段々幅を広げながら大きく進めばいいんだけれども、揺れているうちに何で揺れているのか分からなくなる。

「幻触」の人たちも、先ほど本阿弥さんが言った石子さんと「幻触」の勉強会で「こういう考えもあるんだけれどもどうなんだ」と対話をしながら、「これは面白いね」という考え方の関わりの中から、「幻触」のみなさんの作品ができていく。あるところまでは行くんだけれども、このような石子さんらとの勉強会から、個の自分に帰った時に、自分としてはどうすればいいのかとどんどん考えていくと、自分の考えが非常に近い場合にはいいんだけれど、違っていると途中でやめざるを得ないんですね。それはいつまでも続くものではない。

石子順造との関係

僕は祖師谷大蔵に住んでいましたので、68年の早い時期から、石子さんの住まいは近かったんです。バスに乗ってすぐに行ける距離だったので、石子さんから電話で「遊びにこないか」と連絡があり、行くといつもつげ義春がいたり、たまに「幻触」の鈴木慶則さんや赤瀬川原平さんがいたりしましたね。いろいろ話をしました。68年にはすでに石子さんとは頻繁に会っていました。石子さんは、「美術出版社の公募があるから、李さんが言ってることを書いて出さないか」と言われた。しかし、石子さんから何べん言われても、僕は日本語に自信がないし、それでも随分催促されるんです。石子さんと話をしていると「今話していることを書けばいいんだよ」とよく言われました。締め切り日ぎりぎりに出版社に持っていった記憶がありますね。僕の書いたものがどのような経緯で美術出版社に届いたかの記憶は、今はあいまいです。もしかすると、石子さんのところにいろいろな人が出入りしていたので、だれかに持っていってもらったのかもしれません。それから、『美術手帖』に書いた「出会いを求めて」の図版に「幻触」のメンバ―の小池一誠さんの「石」と、飯田昭二さんの「トランスマイグレイション」と「river」の図版を選んだのは僕です。僕は、当時、哲学を学んでいたこともあり、それらを展開するとあのような文章になったのです。あれらは、まったく僕の独自の考えとは思ってなくて、大きな世界、オープンな世界にしなければいけないとの考えがあって、そういうものを僕なりにまとめたということです。また、当時の僕は、在日韓国人という政治運動で現実とのつながりがあり、両面性を持っているところに立っていました。僕は、政治の関係では辛いことが何べんもあったので、政治を積極的にやる自信もないし、それにあんまり関わると日本から追い出されるという危険も大きく感じていたこともありました。本当は、学問で身を立てたいと思った時期もありましたが、僕には学問をする自信もなかったので、自分を活かすことを考えた結果が美術の方に進んでいったのかなと思います。僕は、日本人ではないし、外から入ってきた人間として、外の世界と内の世界にまたがっているという意識があらゆる面でありましたね。

再度強調しますが、現実というものは信用できるものではない。視覚の限界というか、視覚そのものの持っているねじれ、さまざまな視覚の仕組みの要素として、絶えずどんでん返しを持っている。目の前に映っているものが信用できるものとは言い切れない。絶えず疑ってかからなければならないということで、「トリックス・アンド・ヴィジョン」というものを引き出して表現の場で発表するということは大きなことですね。確かに、高松は天才的なさまざまな展開をしていたんですけれども、ひとりのアーテイストではなく、ひとつのグループとして、そういう考え方を出すということは、すごく強いことなんです。説得力もあるし、強いものであるといえる。その時代を象徴するものとして重要な役割となるといえます。

中原佑介さんと石子さんが企画した「トリックス・アンド・ヴィジョン展」は非常によかったですよ。トリッキーな仕事を通過することがなかったとしたら、おそらく「もの派」というものはなかったと間違いなく言えます。その後は、表現の両義性、造形言語から非造形言語に出る出口が関根さんの「位相一大地」を通して体験できたし、自分の方向がどんどん決まっていった。現実のねじれというものは、一瞬一瞬に幻想化するものであって、ズバリそのものではないことがあります。その錯覚性というようなものを錯覚として提示する。そこに表現の面白さがあるんだと。それを教えてくれたことは大きかったと思いますね。

「幻触」からの影響

知らないうちに「幻触」で見た作品が、脳裏やバックグラウンドの意識の中に残っていなくても支えになったかもしれません。僕に、「表現は、このような面も持っているんだ」と早い時期に確信を与えてくれたひとつが、「幻触」の作品だったといえます。「幻触」というグループがあって、その多くのメンバ―が「トリックス・アンド・ヴィジョン展」に参加していたことを知ることで、僕にとっても「幻触」の考え方が充分に信頼できる安心感を持ったものとなりましたね。その後は、「幻触」の前田守一さんらとも非常に親しくなりましたし、その当時は、すでに彼らも名前が売れているし、僕と同じような考えが広まっていったんだと思う。

僕は、69年の「毎日現代展」には紙の作品を出している。紙を3枚並べる仕事をしたり、その時から時代がどんどん現実との関わりの中で、表現を見せて強まっていく。そういう点では、飯田昭二さんの木を切った「トランスマイグレイション」はいい。半分は山に植えて、半分は美術館に置くという作品で、山と美術館の間の開かれた空間や幅自身が作品といえるんです。そういう作品は、従来はあんまりなかった。パフォーマンス的な要素も入っているし、具体的な行為とか物質でありながら、物質を越えてさまざまな要素がある作品。人間がタッチしない外部性に重点を置く仕事に入っていくことが、後に起こってくるんですね。作ることと作らないことの両方が絡んでくるんです。僕の知っている60年代後半までの「幻触」の作品は、まだまだ外の空間が問題ではなかったということだった。後につくらない外部性が反映されてくるんです。それは、後から出てくる。近代美術史の中で一番大事なことは、自分の内側だけでなくて、外の世界を容認することから現実が始まるということです。外の物や空間を容認するということは、たとえば、外の空気は形にならないので、どこからどこまでが作品かわからなくなってしまう。飯田さんの作品は、山に立っている木の半分と美術館にある木の半分は、その間を越えて宇宙までもが作品といえる。もし、批判を受けるとしたら「こういうものは作品とはいえない」となるんです。作品とは、作家がつくったものを作品というんではなくて、僕は、つくらない部分、作家がタッチできない部分があっていいと思うんです。

このようなことは、美術の長い歴史の中にもあったことで、近代美術だけがコンポジションという作家が作ったものだけが作品だといっているんですね。近代美術だけが、外のことをシャットアウトしてきた。自分の考えたものだけを作品化することや、外のものが入ってはいけないことが純粋アートといわれてきた。これが近代美術なんですね。この近代美術から再び、外部性というか、外のものを相互交換的にきちんとさせないといけないんです。それをもっと積極的に行うこと、交流を図ろうということが「出会い」なんです。

インタビュアー: 本阿弥清

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