20年も昔のことなどあまり気にしていなかったが、あらためてグループ〈幻触〉の当時について、などと問われるとどうも後ろめたくて気が重い。語る今が20年を自己合理化するだろうし、又自分自身のオプティミスティックな恥部を人前に晒すのをためらうからだ。その上、20年はかなり長い時間であるにもかかわらず、その時間を埋めるべき実りある事柄が、何と希薄であったかと気付くとき、二重にとまどう。

1966年前後して、僕がコンテンポラリーな美術状況に深くコミットしていったのは、静岡で丹羽勝次君等と共に活動していた〈グループ触〉との出会いからだった。そんな時期、清水を中心に活動していた〈グループ白〉という、石子順造、前田守一、鈴木慶則、小池一誠という面々が関与した運動があって、この二つのものが集まってグループ〈幻触〉が出来た。二つの組織が合同して一つになった経過については忘れた。なんとなくだったような気がする。当初、グループ〈幻触〉といっても、あまり力んだ集まりではなく、いつも河原に出掛け魚釣りをしたり、夜通し芸術について、というより芸術論について語り合った。当時だれ一人として酒を好んで呑む者がいなかったらしく、夕方から朝まで酒無しの集会だった。このことは今考えると希有な出来事といわざるをえない。仲間の杉山邦彦君などという大酒呑みにとってはとても堪えられなかった、と今でもぼやいている。しかしなんでもそうだが、一つの過程をくぐり抜けようするとき、重い心と高揚を伴った気分というのはあるものだ。当時の〈幻触〉のメンバーは皆そうだった。ことに「ことば」が大切に扱われ、言語の明確さということに答えるために、僕などは大変苦しんだことをを思い出す。そして、そんな空間の中心にいつも石子順造さんがいた。これは不幸だったのか幸だったのか未だに解らぬが、僕達を単なる美術スノッブであることを許さない、そこは厳しい空間であったことだけは確かなことだった。

そんな中で取り交わされる会話というのか議論というのか、常に近代世界が成立している歴史的な根拠についてであり、又それは近代美術が包括している様々な問題点についてであった。とりわけ「見ること」が制度化される過程に対する文明批判から、「見ること」と「在ること」が不可避的にもつ矛盾についての問題の自覚へと、熱のこもった8年間であった。思い起こせば、そんな熱い思いは間の姿勢の徹底を計ったからに他ならず、そのことをもって人間とその社会に関心を寄せた、ということであった。

文明がある種の方向に向けて機能しようとするとき、言語は動員され一定のコンベンションのもとで時代のシステムは完成する。又、同じ件で時代が動くとき、ことばの陰謀のもとでそれはとり行なわれる。僕達がことばについて厳格でありたいと願ったのも、時代という敵に対して果敢であるべきだと思ったからだった。〈幻触〉が主催した芸術の現代的意味についての講演会(1969年静岡県民会館)も、石子順造氏(美術評論家)、寺山修司氏(劇作家)を通じて、このことを確かなものにしたかったからに他ならない。もちろん僕達は美術家の集まりだから、むやみにおしゃべりばかりしているわけではない。たまには美術展もやった。それはむしろやってのけた、というべきだろう。なぜならば僕達の思慮の産物である作品が、一般的な水準に照らしてみて、それが良いのか悪いのかがさっぱり解らなく、一生懸命やったらこのようになりました、という無謀な試みだったからだ。そういうことで東京は銀座、ギャラリー創苑や、新宿のギャラリー新宿でのグループ「幻触」展の旗揚げだった。なにごとによらず旗揚げというのは、外側から見た場合、滑稽なくらい一生懸命だし、まして僕達の場合は全くの虚業だから何の得もない。何の得もないことを懸命にやるのは、実に馬鹿げているかといえばそうでもない。少なくとも何の得もないのに、何か意気込んでやっているな、と他人がそう思ったら、それはそのままある表現となる、ということはある。そうであればあるほど、今まで見えなかったその者達の内実が見えて来たときの価値は高い。つまり現実との我慢比べということになろう。

トリッキー、こんなどことなく椰楡を込めた世評の中で僕達の作品は注目を集めたようだ。鈴木慶則君の「絵を描く」ということそのものを描く、トロンプルイユの逆説性、丹羽勝次君の逆遠近の箱の絵、前田守一君の遠近法でできた「ものさし」、小池一誠君の空間の現象学的解釈、僕の鏡による作品、確かにそれら作品は見る目をはぐらかし、現実を規定している「見る」という部分にある衝撃を与えたことは確かだ。東京画廊、村松画廊で行なわれた「トリックス・アンド・ビジョン」展(1968年)はそのような展覧会だった。〈幻触〉のもっとも苦しかった時期というのは、「トリックス・アンド・ビジョン」展も終わり、そこで取られた方法意識に対する、自己批評のために費やされた日々であった。批判の対象はいうまでもなく、近代を「見る」にだけ限定し、「在る」と「見る」との間にある、「不分明」なるものに思い至らなかった不明さについてであり、又コンテンポラリーな画廊空間というのが、その不明さを徹底して暴き出してしまう、その厳しさについての自省であった。そんなことで僕達の作品群に共通する、一見モダンでトリッキーな仕掛けは、近代を裸にするどころか、逆に近代によって僕達の不明が吊るしものになった、というお粗末な結末になったのだった。

「関係」というキーワードは、その頃の僕達にとって重要な主題だった。問題の、中間項の不分明な領域に手を入れる作業にかかっていたからだ。それは命名をおこたった、名も無い場や空間に対する試みでり、「間」という領域からの、中心部を形作っている制度に対する問題提起であった。「間」は人間が生きる空間であり、その空間は濃密な意味を発生させつつ、秩序が自己形成されるべき可能性を持つ場である。したがって当の場所は、常に間断なく内と外に向かって、流体のように開かれた場でなければならない。僕達のシンボライズされた作品も、そのような意味で関係項である「間」に力点を置くべく心がけた。又、予定調和としての「作る」ということをも可能な限り排した。これは制作過程における恣意性を近代のカテゴリーの内側に閉じ込めておきたかったからに他ならない。小池一誠の石を半分?に切断した作品「石」、石を半分とはおかしな話だが。前田守一君の氷柱群、これは会期中に溶けてしまった。彼にいわせると、そのことも含む作品なのだそうだ。鈴木慶則君の「SEESAWSEEN」はキャンヾスの裏側に記号を描くことによって、裏表のない曖味な領域にしてしまったという傑作だった。もっとも、今描いたと言ったが、かかれたのは文字だから書いたというべきだろう。それから僕の、富士山の杉の木「8m」を縦に真半分にカットし、半分は山に半分は美術館に立てる「TRANSMIGRATION」、そのような作品?である。以上のように、作らないことを作る。そんな逆説めいた指向性が僕達の方法意識だった。

これらの作品群によって1969年度の「毎日現代美術展」は、著しく活気を帯びたことは確かなことだったし、又このことを通じ我が国の、コンテンポラリーな美術状況も、大いに変ったことは特筆すべき事柄だった。

尚、仲間の一人だった中森五三九さんの作品、これは空気の彫刻というべきものだが、この時期他に類を見ない優れた傑作である。今はもう他界されたが、御遺族にお願いして、時を選び展示したいと思っている。

(『耕作だより』no.8 1990年より転載)

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