このところ、日本の美術界では、60年代に活況を呈した「現代美術」が見直されている。20年を経て、その活動の時代的意味が明らかになってきたからであろう。ところで「現代美術」とは、いつの時代にも通用する絶対の概念ではなさそうだ。時に「現代美術」の中で、美術の終焉が語られたりするが、一向に美術は消滅しないし、脱絵画・脱彫刻の結果がなお美術であり続けることが可能なのは、「現代美術」の概念が流動的で、時代による解釈の違いが許されているからであろうか。

60年代の終わり、大きな転換を迫られていた日本の美術界を象徴するように、上野の東京都美術館は老朽化が著しく解体・改築の声が高まっていた。そのような状況を「現代美術のフロンティア」たちの実験舞台としたのは、1969年5月の第9回「現代日本美術展」であった。美術館の正面の広い石段を登り、入回のロビーの先の左右に分かれた階段を下ると、立体作品を展示する吹き抜けのフロアとなっていた。その中央部分に、高さ1メートルの赤錆びた鉄製の直方体の罐を、縦横5本ずつ25本を置き、それぞれの罐にブロック状の氷を詰め、氷の溶ける様態を見せようというのが、前田守一の「RHEOLOGY」(流動学)であった。

ある美術誌は、「固体の氷は溶けて液体になり蒸発して気体になる。雲となって空に、船を浮かべて川や海に、また飲料水は人の胃袋に、水は在るように在りつづける。そしてある水がある日ある時、ある男の〈限定)を受けて〈作品)になる。」(『芸術生活』1969年7月号―批評家の眼―より)と評した。当初、前田は、むき出しの氷を並べたのだが、氷が溶けて滑って移動し、床を水浸しにする始末の悪さに手を焼いた美術館側からの厳しい苦情を受けて罐が用意された。これをある批評家が「錆」を見せていると解説したが、「あるがまま」の物質が作品化されることによって別の意味を生ずるのは、作者の本意ではなかったろう。

同じ「幻想の物体」のセクションの「TRANSMIGRATION」、あるいは「生々流転」と題された飯田昭二も様々に誤解され物議をよんだ。12メートルほどのヒノキの生木を、枝や葉をつけたまま根の部分から縦割にして立て、その横に、横に切断した生木の6メートルほどの上半分を宙づりにして並べたもので、それぞれの半分は、富士山麓、大渕村の山中に植えられているという。天然の場と展覧会という人工の場の距離は、人間と自然や人間と歴史の距離でもあるが、いずれ、一つの世界内で距離は消えると解釈された。しかし、美術評論家の坂崎乙郎は「現代芸術と想像力」の中で「反自然を標榜する現代芸術のなかには、傲慢にも自然を創造主にしたてて、それでそれでなくても〈自然〉は死に瀕しつつあるのに、生きた樹木を殺す行為によって〈芸術〉をきわ立たせようとする一派がある……」と激しく非難した。飯田もその仲間も反自然を標榜してはいなかった。

「複製とオリジナル」のセクションに招待された鈴木慶則の「SEE SAW SEEN」は「物質の世界」に対する観念の自立性を獲得するための「虚の世界」を描いたもので、セクションの意向からはみ出し、虚像性と想像上の空間の実在性を相互に転換させ、固定した形を否定していたようだ。縦5メートル、横3メートルほどのキャンヾス5枚を、少しずつ縮小させて左から右へならべる。遠近法に従えば、右に移動するにつれて遠ざかるように見せてはいるのだが、それぞれのキャンヾスに描かれているキャンバスの裏側の布目やマーク、描き残しの余白の大きさは、逆に少しずつ拡大されている。端の方の切り裂いた部分は同じ大きさに描かれ、中央の一枚は本物の裏といった具合に、視覚の約束事を二転三転させるトロンプ・ルイユ(だまし絵)の手法の開示だ。

ここに取り上げた三人は、60年代に静岡を拠点にラジカルな活動をしていたグループ「幻触」のメンバ―で、いずれも「見ること」を除した美術の存在はありえないとしながら、「見ること」とは何かと問い続けていた。最近、この「幻触」のことがしきりに話題になり、美術館や美術関係の出版社が資料の蒐集にかかっていたり、美術系大学の卒業論文のテーマになっていたりするらしい。

発足当時の「幻触」のコンセプトを要約すれば次のようになろう。「表現」と「造形」、あるいは「主観」と「客観」のあいまいな関係に焦点をあて、その虚像性を浮かび上がらせる。虚像化した世界を自己の観念や行為によってつきやぶり、イリュージョンとしての美術を現実に転化させる幻覚の光景をさぐる。自然改造のテクノロジーも自然の一部に過ぎないとの仮説の上に立って現実を直視しようとしていたが、それは、自然主義的感性によるものではない。「芸術」の枠組みを崩し、「物質」と「行為」との対話を通して「原自然」がつきとめられると信じていた。かれらの表現は、自然と断絶した幾何学的観念としての抽象的傾向は薄く、ある面では、極めて具体的であったといえる。ありふれた素材で、できるだけ加工しないまま、ひとつの状態・位置・関係において、物質と人間との原初的「出会い」をたしかめようとしていた。

テクノロジー信仰の上になりたっていた近代芸術は、行為の痕跡を重視してきたが、行為そのものを捉えることで、人間と世界の関係について存在論的探究が成ると考え、ハプニング、パフォーマンス、インスタレーションを試みるようになった。「作品」の質を高めその完成度を問うのではなく、存在はもののある状態にすぎないと自覚し、「造形」よりも「提示」を重視したコンセプチュアル・アートの傾向が濃い。以上はメンバ―の合議による結論ではなく、すべてが未解決のままの見切り発車で、記録への意識を欠いた試行錯誤の足跡は、資料不足をまねき、ここにいたって単発的な評価しか得られないでいるのは残念である。あらためてグループ「幻触」の動きを検証し、存在の今日的意味を考えてみたい。

グループ「幻触」にとって、その活動を理論的に支えた美術評論家・石子順造の存在は大きい。石子のグループとの関わりは、1956年11月8日、清水の戸田書店画廊での早川実、前田守一版画二人展にはじまる。会場に居合わせた前田とは、初対面にもかかわらず、結核で片肺を失った東京ぐらしの中で、美術にかかわる多くの作家や批評家たちと交流を深めていたことを、現代の美術のありようへの怒りを込めながら、一方的にまくしたてたという。もっとも当時、石子は本名の木村泰典として、清水のある商社の人事部に配属されて入社試験の問題作成などを担当しはじめたサラリーマンであった。以来石子は、1977年に病没するまでの20年間、いうところの「現代美術」にまみれて、静岡と東京を行き来し、激しくも気迫に満ちた評論活動を展開することになる。

1958年、木村泰典の音頭で、新しい美術を模索するグループ「白」が結成された。「白」の仲間は、メンバーの中の伊藤隆史(自由美術や日本美術会でユニークな油絵を発表していた)の仕事場にひんぱんに集り、夜を徹して観念的議論を重ねていた。仲間の作品を持ちよっての合評はもとより、池田龍雄を招いての講座を開いたり、小山田二郎の作品鑑賞をするうちに、アン,ルヾンダン展の開催企画がもちあがった。第二次大戦後の日本の美術界は、欧米に追いつこうとの気運からアンデバンダン形式の展覧会がしきりに行われていた。地方の作家たちもバスに乗り遅れまいと無鑑査の展覧会を考えるようになってきた。木村にとっても、自分の芸術論をたしかめるための臨床実験の場が必要だった。

1958年9月1日-14日、清水市青少年会館で行われた「アンデパンダン静岡」の運営には、伊藤(隆)、木村、鈴木、早川、前田の他に、井出孝、太田清、久保田文吉、小林幹於、白鳥泰彦、田代正夫、富田精穂、平井俊男、深沢貞男、望月清作、山口忠があたった。展覧会のために発行した冊子に、木村は、「木村卓」のベンネームで「アンデパンダン展開催の発意に寄せて」とした文を書いている。「作家が発表の場に積極的な関心をいだくのは、当然過ぎる程の事である。しかし既成の団体展には、殆ど全てに一般的な、そして個々に特有な、自由にして民主的な発表に制約の幾多があるように考えられる。―略―アンデパンダン展は、既成秩序の動揺と崩壊と言う混乱と灰塵の中にあって何人かの有能な作家を育ててゆく土壌となった。―略―タブロー主義が限られた人たちの高級な趣味となり終るかとも考えられ、そしてまた専門家と享受大衆の現代絵画に関する意識・感覚のずれが、一層深化していく傾向にある時、両者の有機的つながリ―(対話)―の回復を計ろうとする努力が、自慰的・独占的な至上主義作家態度の排除を自明の前提となる限り無意味であろう筈が無い一略一」29歳の観念的で短絡的論調ではあるが、その後の「幻触」の歩みを方向づける評論姿勢の一端をうかがうことができる。

実作者たちも、権威主義への抵抗をテーマにすることで制作のエネルギーをわかせ、自分たちの手で芸術を動かしていると思い込んでいる。この冊子の出品者の言葉の中には、美術大学を卒業したばかりの鈴木慶則の若々しい考えが記されている。「①今や、タブローそれ自体アカデミックな形式。これは地球が自転すると同じくらいの事実であるらしい。②マンガ・映画それは未来への無限なる可能性③サラリーマンはサラリーマンという階級を常に意識し批判しなければならないと同様、画家も同じ眼が必要④日本の多くの人々の内容は、流行歌の何とも形容しがたいセンチメンタリズムに支えられる。⑤テレビ・ラジオの90%は、だじゃれ。⑥日本の空気の臭いは多くの場合人糞の臭いに染っている。農村はもとより都会までも。⑦日本の色、濁った灰茶色80%あとはペンキの原色。⑧日本人は奇怪にも有色人種なることを忘れる。白色優先映画を見てゲラグラ笑う。⑨日本の批評家。今まで全て作家の尻追い。社会革命家に似た人も出なかった。純粋美術批評家なら必要ない。一略―」支離滅裂ではあるが、鈴木の活動を支えている思想の一端をかいまみることができる。

1960年に石子順造・伊藤隆史・鈴木慶則で『フェニックス』なる冊子が発行された。2号まで出され、そのどちらにも「評画」あるいは「記録漫画」の提唱として、その前書きに「今や再び新しい表現の季節だ。状況は変貌し、発展し、条件は熟しつつある。そして言い古されているごとく、新しい革袋にもらねばなるまい」と記されている。石子順造としての文筆活動のデビューであった。漫画、タブロー、イメージ……と、その時点での石子の思いのたけを精一杯に盛り込んで、作家・ジャーナリスト・学者・新聞社・出版社と手当たり次第に送り込んだ。そしてその反響をも情報として提供していった。すでに、四角張った言葉の積み重ねがうかがえ、ページのあちこちに、やがて、現代美術論・漫画論・キッチュ論・俗信論へと展開していく素地が置かれていた。

芥川賞作家でもある尾辻克彦(赤瀬川原平)をして「文学とはほど遠いものだと思う。それがもし万一文学となっていたら、石子順造のエネルギーは美しいリズムの安定の中にそっくり解消していたかもしれない。だけどそんなリズムの美学をつくるより、思考の先にあらわれてくる枝葉を直進して人類の思考力の根源にあるモーメントに触れることが、その第一の欲求としてあったのだ。」といわしめた硬派の文体は石子の体質として終生変わらなかった。ことによれば、「幻触」は石子順造の理論に支えられていたというよりも、その気質、あるいは、体質から影響を受けたといった方が正しいのかもしれない。

石子は人並外れて神経質で付き合いにくい人であった。さりとて繊細で脆弱というわけではなく、常時、何かに抵抗し憤慨している姿勢に妙な躍動を感じさせた。低俗な世界に異常な好奇心を寄せ、のめり込んで知的に料理しようと悪戦苦闘して難解な意味を持たせることを楽しんでいた。本人は遊んでいるつもりだが、はためはどうも休まらない。釣をしてもビリヤードにいっても、カルタをしてもすべて理屈になってしまう。しかも、はてしない議論となる。自分ばかりか相手の家庭の事情などにもかまわず夜を徹する。石子には、ゆったりとか、おっとりとかは通用しない。ものごとを頭の中でキリキリと考える。考えを形にしたい衝動を抑えきれず、相手を説き伏せにかかり、徹底的にまくしたてる。全力を尽くして考えたことを、ことばに変えて全力で投げつけてくる。沈黙する石子を見たものは少ない。考えることの感触に酔い、直進的でやわらか味のない難解なことばを飛び散らせる石子のぺースにまき込まれて時を忘れることになる。やがて、石子理論を世に問う具体的な展開の形をさぐることとなった。その下準備に、前田が鈴木を訪ねたのは、1966年の初夏。清水の巴川べりにあった隔離病棟を改造した住宅の一室を仕事場にしていた鈴木は、ダリの複製を前にして、現代美術は、虚と実のはざまにある「幻」かもしれない、とつぶやいた。折も折、静岡の画材屋の二階で飯田昭二と丹羽勝次で「触」というタイトルで二人展を開催していた。タブローを否定したドローイングは、描くという行為そのものを見せるアンフォルメルを超える新しい方向性を持っていた。二者をつなぎ合わせて「幻触」の誕生となった。特殊な体験を共有する楽しみを認めると、特殊であるほど一般的であるという論法を成り立たせ、その関係像として美術をとらえてみようということになった。「もの」と「イメージ」の関係を問いつめると触れうるものは幻のみであるという仮説からスタートすると、想像の「想」と「像」のある手ごたえのある関係が描き出せると信じた。

1966年7月1日にオープンした「幻触」展の案内状には、「空間を乱す部分品による/様式/一見まじめ人間風」とある。“まじめ人間”は当時の流行語であったが、社会性を欠くほどに生真面目で、前後の見境なく真正面から理屈を振りかざす石子の生きざまを皮肉ったものでもあった。会場のギャラリー「創苑」は、銀座といっても新橋よりの薄暗い路地裏の釜飯屋の二階にあった。廃業したバーを改造したものらしく妙にじめついていた。そこに、鈴木(慶)、丹羽と小池一誠、近藤文雄、鈴木正雄、長嶋泰典、深沢水恵が平面の表現で、立体として飯田、前田に岡本勝博、中森五三九、増田正巳を加えた12名による旗揚げとなった。しかし、ビートルズブームに沸く巷のさわがしさに比べ、「幻触」の開幕は、何とも地味でマイナーなものであった。

会期中、前田が、会場入回の階段下で黙々と通行人に花札を配り続けるハプニングを演じたが反応は冷ややかであった。訪れた評論家のヨシダヨシエは、いくつもの人間の指がつき出た鋳鉄製の立方体の前田の作品の上に、飲みさしのコーヒーカップを置き、天丼からトイレットペーパーを滝のようにたらした長嶋の作品にタバコの火を当てながら、プロ意識の欠如をなじった。机上プランと表舞台に出された表現とのギャップの大きさに気づいたグループの面々は、痛々しいほどのショックを受けた。石子の評価も厳しく、「未知のドアを自ら作り続ける必要があろうが、それだけの持続力がないのなら、早晩このグループは解体tしよう。解体したからといって、ぼくはなにも困りはしない。」と突き放した。メンバーにとって屈辱の十日間であったろう。

屈辱をバネに未知のドアを叩き、1967年8月15日-20日には静岡県民会館で、飯田、伊藤(隆)、小池、鈴木(慶)、中森、長嶋、丹羽、前田に東クニヒロ、出ロマチコ、真田正、望月利八らを加えた「虚在と実在を追う冒険家たち」の副題で「幻触」展を開催。そこで県外からの評価も得て意を強めたメンヾ―は、同年の9月11日-30日には、ギヤラリー新宿で飯田、小池、鈴木、長嶋、中森、前田らに斉藤司郎を加えて、グループ「幻触」による( )展を開催した。

裏がえしの活字をならべ銀色のインクで印刷されたA3版の展覧会案内状には、石子の文が添えられている。その一部を引用すると「……飯田昭二の鏡への執着を中心に、左にトロンプ・ルイユの鈴木慶則、右に遠近法の丹羽勝次をおいてみれば、このグループのねらいがどのあたりにあるのかはほぼ見当がつこう。絵画という(制度)の内構造にたいする問いの姿勢を何重にも括弧でくくろうとするアプローチと見て、絵画論としての絵画とよんだら、このグループを誤解させてしまうだろうか。メンバー内での相互批判のきびしさと、おしみない協力にぼくはよく驚かされた。このグループの努力が、いっそう観念の相をまし、ぼくがどこかで予感している“現代の呪術”に近づくのを待つことにする……」とある。

加えて、創造の現場に関わり鋭い批判をつきつける美術評論の中原祐介は、「グループ(幻触)について」として、「……たしかに今静岡に興味のある動きが起こりつつある。その中枢がグループ〈幻触〉である。今年のシェル賞展にも、偶然このグループから三人選出されている―中略―実体とか虚像とか、遠近法とか昨今の花形ボキャブラリーの忠実な信奉者でありすぎるところもあるが、それがまた特色となっている……いずれも視覚的イリュージョンを逆手にとってひとひねりもふたひねりもした仕事だ……」と書かれた文を寄せている。―ここにいうシェル美術賞展とは1956年に発足したもので、現代美術の登竜門であった。その11回展に、鈴木が「裏がえしの相貌をおびた非在のタブロー」で二等賞に、丹羽の「作品6707-1」、前田の「作品(赤)」、「作品(青)」が佳作となったことに触れたものである。―

トロンプ・ルイユなる描法で、キャンバスの裏表を描いて出品した鈴木は、「描くとは何かという観念の有無が、素朴な写実派との違いだ。」と述べている。絵画にたいして醒めた意識をもって、絵画という制度を模型化する手続きとして遠近法によるトロンプ・ルイユを逆用したのだ。絵画のメカニズムを開示する絵画として、知覚と想像に関わる実在と虚在の重複像を描き出す試みは、グループの共通の方法論であった。鏡にうつされた現実と鏡と現実そのものの取り合わせを見せた飯田がいう。「私たちは、描くという絵画の幻想性をこのように事物の認識を通して問い返していくという方法で思考してきた。そしてそれは、特殊な個の癖といってもよい仕事を芸術だと錯覚して今日まで続けている権威主義や、状況に対するささやかな抵抗というばかりでなく、現実と芸術とが分かちがたく結び付いた状態こそ芸術の真にあるべき姿だと思っている。芸術はある特定の者たちのためにあるのではなく、あくまでも現実の中にある精神の状態としてあり、それに見合う行動や図式が要求される」。自信がうかがえる言葉である。

しかし、鈴木の「だまし絵」、前田の遠近の物差し、丹羽の平面の箱、飯田の描かれた鏡、長嶋のサイケデリックな壁、斉藤のテレビ画面、小池の移動する球体、中森のアクリルの円柱から抜かれた指と、いずれもりっばな美術品として完成度を高めているように見えるのが気がかりであった。没個性、没主観、没趣味的直接性を追っての多様な展開をめざすうたい文句に反して、それぞれは、独立した世界を表現し、タブローとしての価値を生みかかっているように思えてならない。

1968年4月、複数の評論家たちによって「トリックス・アンド・ビジョン」展(副題―盗まれた眼―)が企画された。当時、現代美術のメッカと見られていた東京画廊、村松画廊の二会場で、高松次郎、中西夏之、堀内正和ら18人の気鋭が生み出した美術へのラジカルなエネルギーヘの高い評価は今日まで語り継がれている。立案者の一人、中原佑介は「文章もしくは論理の領域におけるパラドックスに対応するものが、視覚の領域にもありうる。パラドックスが論理に密着しているとすれば、これは視覚そのものに密着しているものである。つまり“見る”ということに意識的に限定したところから生まれる矛盾なのだ。論理が抽象であるように、この“見る”ことの限定も、一つの抽象であることに注目しなければならない。“見ること”を人間のあたりまえの行為としてとらえるのではなく、あたかも形式論理のように、極度に知的なものとしてとらえる。」といっている。

飯田は、鏡のシリーズを、前田は、遠近の物差しのバリエーションで、鈴木は、描きかけのキリコの絵をイーゼルの上に置き、小池は、重なり合った10個の球形が弧を描いて移動する様を描き、丹羽は、平面を紐をかけられた箱に見せかけて切り抜くといった具合に、人間の視覚機能を意志的に認識して、自己の創造的イデーと絡み合わせた表現としてそれぞれが納得していた。そこで前田が遠近のものさしに書き込んだ目盛りや数字は、遠近法に基いて実体をコピーしたものではない。イメージとしてのルールを別なイメージに換置したものだといっていた。これは、前田の別の作品、まんがの「ふきだし」のオブジェについてもいえることで、「ふきだし」はまんがの中にあるが、現実には存在せず、ある約束事の上に成り立っているイメージであるとすれば、前田にとっての美術はイメージをイメージするということになり、実体が消される。

同じころ、鈴木と前田は、南青山のビナール画廊で美術評論家、針生一郎の企画による「言葉とイメージ展」にも出品している。「この七つの文字」と印刷された紙(高松次郎)や「RED」と白く書かれたグリーンのパネル(岡田博)ら24人の作家が、さまざまな形で文字との関わりを表現していた。前田は、「剥されたことば」と書かれた文字が薄く剥された黒板を、鈴木は、拡大印刷された1円切手をもう一度本来の大きさに寸断させた1円切手のシートを出品していた。それは、イメージの機能に依存してきた美術のあり方への挑戦といえる。「幻触」は「現代美術」への発言力を強めてきた。

静岡の藁科に転居した石子の家に、谷川晃一、赤瀬川原平、林静一、チハコーバら評論家・映画人・演濠1人・漫画家・作家が訪れる度に、「幻触」の仲間が集まり、文化が東京だけのものであるはずがないといきまいて夜を徹して議論した。折しもマクルーハン旋風が、美術までまき込んでいた。メディアから取り残されてはならじと、「行動する本」として登場したマクルーハンの訳本に振り回されて情報をあさった。テクノロジーは人間の手の延長で、芸術の個的幻想の時代は滅び、合理的近代の価値観は実体としてのイメージではなく、科学技術が開発した事物に向けられるといったブーム便乗の亜流の方法論そのものは長続きしなかったが、ある種の活力を生んでグループの活動に拍車がかかった。寺山修司や高松次郎を招いて講演会を開き、石子自身によるさまざまなテーマの公開講座を計画し、アングラ演劇をよび、前衛映画の鑑賞会をするなど、仲間うちの研究会を超えて地域文化への啓蒙運動的性格の濃いものであった。グループとしての活動だけでなく、個展や他のグループと組んだ展覧会もしきりに行われた。

1969年9月(静岡県民会館)の「今日の美術0静岡展」(自然・存在・発見)は、針生一郎が賛辞を寄せるほど、時代を先取りした出色の展覧会であった。「炭」と題した長嶋泰典の作品は、丸ごと炭化した立木を何本も会場に立てたインスタレーション(このことばが「現代美術」の中に定着したのは、それから十年後のことである)は、まさに乾いた造形表現として話題になった。長嶋は、これを「倦怠の炭」として自作を語っている。「……炭化した“木の葉”は実は私の抜き差しならぬ“生存”のかげりであったのかもしれぬ。……木の葉の炭が何の意味ももたぬ灰へのひとつの過程であると同様、生きるということがどのようなものであるにしろ、それは暗澹たる人類の地平に灰となって消え去る一瞬の影でしかあるまい。……」それにしても、このやや文学的ともいえる感傷的作品主義の臭いはどこから来るのであろうか。ことによると、これは、ほとんどが1930年前後生まれのものたちによって構成されていた「幻触」の弱点であったのかもしれない。その修練の経路は異るにしても、いずれもアカデミックな造形体験の洗礼を受けた結果、常に、どこかに古典的タブロー思考をひきずっているようである。それが、美術の制度の攪乱をにぶらせる。

60年代の前半、中央線・荻窪駅前の「おぎくぼ画廊」がたて続けにユニークな企画展を開催して注目されていた。ことに、中原佑介、針生一郎、三木多聞の3人の美術評論家の選考による「おぎくぼ画廊賞」展は、現代美術の新入発掘の場として美術ジャーナリストたちの話題になっていた。その第8回(1968年)に飯田昭二が登場した。飯田は、イメージをイメージとする手段として鏡を用いて「見ること」の意味を開示した。例えば、鳥篭の中央を鏡で仕切ってその片方に何個かのビンポン玉を入れると、人は実体としての玉と虚像としての玉を同時に見ることになる。あるいは、見誤って玉のある篭と玉のない篭を知覚する。「見ること」を突き詰めると、われわれが見ているのは、すべて鏡なのかもしれないという不安にかられてくる。

1970年11月のウォーカー画廊での前田守一の個展は、会場一杯に敷き詰められた毛足の長いライトブルーの布の上に厚さ15ミリの板ガラスをのせただけのものであった。これを見た飯田は、「厚く重いガラスが毛足の長い布の上にのると、透明なガラスを通して、布はその圧力の下で周囲と照応しあい、たとえようもない美しさを見せる。それは明らかにかれの行為がつくりだした美しさであって、けっして人間が作り出した物質の美しさではない。ものを超えてあたらしい美を開示している。」と述べている。

〈絵画〉を作る―形而上的暗喩としてのトロンプ・ルイユは、1976年9月の鈴木慶則展(大阪フォルム画廊・東京店)のサブタイトルである。1966年からの十年間の作品42点を並べた大がかりな個展であった。当時、精巧な“だまし絵”の技法を駆使していた鈴木の総括ともいえるもので、非在のタブローのシリーズの「梱包されたオダリスク」、「ダリによる」、「キリコによる」、「マグリットによる」。高橋由一風鮭。両面絵画、絵画化シリーズでは、モネ、ミケランジェロ、障子、襖が登場し、擬似絵画、擬似絵画化と展開された鈴木の世界の題材は、古今東西の名画であり、どこまでが絵で、どこまでが絵でないのか定かでないものであった。日本画や写真を油絵に、立体を平面に、裏を表にと変貌させる中に絵画とは何かを問う鈴木の苦闘が読みとれた。表現を制度と密着させ、その範疇で知覚を限定する「美術」の概念で総括する、不条理な幻想体系としての美術史からのがれられないでいる概念先行の時代を突き崩すべくもがいていた。同時期、長嶋泰典は、銀座のシロタ画廊の壁面いっぱいに、ベンチの置かれた公園の情景を実物大にプリントした布を、すき間なくはりめぐらしていた。色彩を白・灰色・黒のモノクロームに限定して、できるだけ、奥行きや材質感、深みといった透視空間を消し、うすっペらい「表面性」に徹したものであった。より平面に感じさせて三次元空間に表面性を与え、壁に半透明のシルエットだけが実在するように見せていた。

この4つの個展に共通しているのは、いずれも「見ることのあいまいさを見る」ということであろう。「見る」という体験にそくして、人間と自然・事物存在とのかかわりを考え、歴史的、社会的に制度化され、その制度を修正し、純化しても「見る」という「在り方」の問題は解決しない。たとえば、前田のカーペットの鮮明な青は、上に置かれたガラスと切り離して見ることはできない。さりとて、青い色感に焦点を合わせるための補助としてガラスがあるのでもないから、見るものの視覚は極めてあいまいに浮遊することになる。それは「作品」を完結的に見るのではなく、「作品」が置かれている一つの状況を「見る」体験を通して感受していくことになる。

1954年にスタートした「現代日本美術展」(東京都美術館)は、日本の「現代美術」をリードする存在として注目されていた。「幻触」のメンヾ―もここを発表の場として積極的に参加した。ことに、60年代の日本の「現代美術」の総括として1971年に行われた、第10回展の〈人間と自然〉をテーマとした招待部門には飯田、小池、鈴木、前田が「状況―物質と行為との対話―」のセクションに参加し、高松次郎、関根伸夫、李禹煥らに伍して気を吐いた。

小池の「けはい」はひとつの作品の中に、ある大きな世界像を集約するなどという大それたことを放棄して、鋭く切断した大きな玉石を山積みして、その片隅で石を砕く行為を見せていたのは、どうあがいても現実の一断片、あるいは、ある部分を示すことしかできない美術の限界の証左であろう。

鈴木の「TWIN ENDLESS RING」は、太さ7センチほどのロープで直径7メートルの二つの輪をメビュースの輪のように結んだもので、だまし絵風の「作品」から一転して、観衆は、ロープに触れ、動かすことが可能な状態に置かれている。美術の受け手は、冷静な傍観者ではなく、受け手もまた送り手と同様、状況を動かす要素であることを気づかせている。

前田の「栽培」はカタログ上では、絨毯の上に煉瓦を並べ、芽の出かかった馬鈴薯を置くとあったが、実際のものは、白いキャンヾスの上に大きなコークスを敷きつめたものであった。物質はそれ自体が意味を持っているのではなく、観るものがそれに意味を見出し、意味を与えようとすることによって作品となるとすれば、作家は、作品と鑑賞者の仲介的存在でしかないということになり、作家の個性は意味をなさなくなる。「あるがまま」の状態の提示は物質信仰に埋没し、「出会い」の重視は、「一期一会」といった信仰に近い古い制度ヘの踏み込みとなって動きが取れなくなる。これらのものを後に「モノ派」と呼ぶようになるのだが、「つくられた自然」というよりも、わざとらしい、みせかけの自然は、原始の呪術世界における神の複製としての偶像に似て今日的意味を薄れさせている。

ところで、この企画展に招待を受け、題名を「国家安泰」と予告しながら、不出品であった飯田は、皮肉な形で展覧会という制度を撃ち、美術という表現行為の意味を問いなおすことになった。はたして、イリュージョンを克服するための契機をさぐり出そうと、既存の物体をそのまま展示したり、自然の物体の物理的性質や、変化する状態を拡大してみせたりする傾向は、新しい表現の地平をきりひらく有力な手がかりとなりうるだろうか。ちなみに、前田や小池は、単純に新しい素材を持ち込んだりしたのではなく、そこでは、発想や行為が作品の対象的性質に先行し、ある秩序が固有の特性を持つ価値体系から芸術を引きずり下すことによって、もののありように新しい関心を寄せるきっかけを生み出してはいる。この新しいリアリテイの所在をたずねようとの姿勢を評価するものもあったが、ギリシャ以来の四大元素の再評価といった誤解や、新しい素材を持ち込んだからといって新しい方向を示すわけでもないとの反論もあった。

ここにいう新しい素材とは、特権を持たぬものである。キャンヾスとか油絵の具、また、大理石とかブロンズによる旧来の方法論によって特別視されたイリュージョンではない。この特権を拒否するには、特権を持たぬ素材でなければならない。しかも、シュールレアリズムの作家たちが意味づけたオブジェが持つ、ものへの異常化とは違ったきわめて日常的なものである。当然のことながら、日常的なものには、メディアも含まれる。しかし、メデイアを「第2の自然」としてとらえ、それが構成する記号、文字、映像、印刷等を積極的に表現の中に持ち込んでみても、複製はたんなる複製として虚像の還元に手を貸すことになり、メッセージを越えるほどに、ことばを転化することができないでいる状況に飯田のとまどいがあった。しかも、特権を排斥した結果が、別の特権を生む矛盾から逃れられない。「国家安泰」が置かれる場所は、すでに日常性を失った美術館であることに疑念をいだいたのであろう。仮に作家(この呼称さえもあやしくなってきて、芸術家ともいえず、美術家でもなし、苦しまぎれに造形作家などといったりするものもいる)がどのような場であれ、事物が置かれた様態と観るものとの関わりを成り立たせようとしたところで、観客は、美術館や画廊に踏み込むと同時に日常性とは異なる空間を意識することになる。

外観が生活の中の物質と違いのない前田や鈴木の作品は、つきつめれば美術という意識だけが区別の根拠になっているのかもしれない。そこに、美術の概念がはっきりしないままある種の特権が生ずる。この認識の構造の中で「見る」ことのヒエラルキーがつくりだされるとしたら攪乱によって活路を見出すしかない。ここに至って、美術は見せる装置を作ることではなく「見ること」そのものであるとした「幻触」のコンセプトが揺ぎ、構造攪拌のエネルギーの弱まりの兆候を見せはじめる。絵を見るということが、キャンバスとか絵の具を見ているのではなく、そこに描かれているあるイメージを見ているとして、画面を通してといったときは画面の何を指しているのであろうか。それは、キャンバスの上でもなければ、絵の具そのものの中でもない。何ともあいまいな位置にある非現実的な「幻」とでもいえる何かを見ているのであろう。

この想像力のはたらきを美的体験とする構造(「幻」)を攪拌して、キャンバスそのものに、あるいは絵の具そのものに知覚作用を引き戻したのが、作品をオブジェとみなすアクション・ベインティングであり、その先に空気、土、水、火などの自然の元素を素材にするネイチュア・アートや、事物の提示を最小限にとどめた観念のイヴェントとしてのコンセプチュアル・アートとなり、ロープやコークス、石そのものが持ちこまれ(やがて「モノ派」などと呼ばれるようになる)、はては、カタログだけの提示となっても、それらは、展覧会という約束の場におかれる「美術」から逃れられないでいる。それに、きわめて特殊なことがらを一般化するには、個性という名の独自性を強めることで、より普遍的価値を生むと考えるようになると集団の意味を失う。

しかも、イメージとものの間に新鮮な関係を喚起させるはずが、自我の構造を完結させる「作品」を生むようになり、「見る」という視覚の約束事の制度化を容認し、「作品」を「商品」として成り立たせ、表現は、その手続きとしての作品をつくるある種の労働行為となる危険性を内在するようになる。美の形成を、価値としての普遍性と人間の精神性によるとし、人間の精神性の前提に自然観を置き、生物の発生、成長、変容といったものの変化を内側に見せようとする中世の自然観に対し、自然に働きかけ、自然を利用するという人間の思い上がりを見せはじめたのが、近代の自然観とするならば、この近代の超克に向けて冒険者であり続けることは難しい。「幻触」の終局は定かでない。

(『県民文芸』34集 1995年より転載)

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