今回の展示の主役クラスは、20世紀後半の代表的彫刻家である「動く彫刻」のジョージ リッキー、1960年代のフランスに起こった芸術運動「シュポール/シュルファス」の提唱者クロード ヴィアラ、そして日本のダダイスト工藤哲巳の3人である。

ジョージ リッキーは昨年95歳の長寿を全うしたアメリカのキネティックアーティストである。本来空間芸術である彫刻に光や運動性を持ち込んで時間的な要素を与え、今日市街地や自然界に展開する野外彫刻作品の先駆的役割を果たした。その形態や動きはたいへん独創的で、自然光や風を受けて単調な風景に変化を与えている。

クロード ヴィアラの場合は、作品素材が常に生活環境の中に存在する繊維であり、しかもフレームを拒否しているため、展示は「吊る」形で行われる。彼は「支持体と表面」というこれまでの絵画形式を否定し、日常性の中から用途を持った繊維素材を選びだし、幻想やイメージを排除しつつ芸術的状況を創造している。

工藤哲巳は1935年に生まれ、読売アンデパンダンを通じて話題作を発表した後、1962年活動の場をパリに移した。ラディカルなパフォーマンスとグロテスクなオブジェでヨーロッパ美術界の注目を浴びたが、その創作活動の根源には彼の出身地である東北地方の民俗的文化と土俗的宗教観といったものがあると思われる。今回の作品は「鳥籠シリーズ」の一つであるが、中にあるのは作家自身の首ではないだろうか。

韓国から出品しているユン スクナムは、近年各国で開催される国際美術展に同国を代表して出展している話題の作家である。彼女は旧満州に生まれたが、幼少期に父を亡くし、母と共に苦しい少女時代を過ごし、40歳を過ぎてから美術制作に関わり始める。作品の背景には、韓国における女性の社会的地位の後進性に対する痛烈な批判と母親世代の女性に対する敬慕と追憶といったものが色濃く見えている。仏教で完全無欠を意味する千という数字に一つ足らない999個の木製の人形の一部が今回展示されているが、これは歴史の中に消えた幸薄い女たちへのオマージュのように見える。

「紙」の作家藤原志保は、土佐の手漉き和紙に中国墨を用いた巨大な作品を吊っている。作家は和紙の持つさまざまな魅力、強靭な材質感、繊細な透明感、変化に富んだ繊維の表情、変化自在な形態といったものを余すところなく引き出している。概念的には紙は表面がイメージ表出の舞台とされてきたが、藤原の仕事は素材そのものが表現手段として説得力があり、伝統文化が生んだ日本独自の現代美術として世界に誇る存在であることを示している。

「重力」の作家中島敏行は、「吊る」というテーマに相応しい作品を出品している。彼の基本概念は、ものみな重力の摂理から逃れることはできないというもので、平面にしても、立体にしてもその制作技法は素材自身の持つ重力効果を利用している。その結果或る時点までは作家の意図と技術が意味を持つが、最終的には「自然」が導き出した形態で作品は完結する。

「山の絵」の有元容子は日本画出身であるが、故有元利夫の妻として、また一児の母として制作から遠ざかっていたが、1985年夫君の急逝の後再び絵筆を取るようになった。近年誘われて山登りを始め、すっかりはまりこんでしまった感があるが、以来作品のモチーフは山の連作となった。彼女の描く山々はいずれも直感的且つ大らかで、技巧的な気配りはまったくみられない。山頂での感動が一気に画面に転写されたかのような感銘が伝わってくる。日本画家には珍しく装飾性が感じられないダイナミックな画風の持ち主といえよう。

今回最年少のメグミ・ナカイは東京出身であるが、美術教育をカリフォルニアで受け、以後はアメリカと日本で活動しているインスタレーション作家である。出品作品は「吊る」というテーマを文字で捉え、英語の“HANG”に関わる訳語を辞書から取ってランダムに並べ、その文字盤を「吊って」見せている。観る物は「吊られた作品」を期待していたが、そこにあったは英語世界で表現された“HANG”の概念で、この意外な仕掛けと作家のユーモアに一本取られた気がするだろう。アメリカ仕込の現代感覚と文明批評の精神を豊かに持ったこの若者の未来は明るい。

(HANGOVERはアメリカ俗語で「二日酔い」/メグミナカイ作品より)

(かなざわたけし・美術評論家)

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