約1世紀続いて幕を閉じたモダニズムではあるが、絵画がそれで死んだ訳ではない。その後停滞と混迷の中からさまざまな表現が生まれてきたのも確かである。それまで主流から避けられていた文学性、民族性、歴史性、装飾性、デザイン性、社会批判等さまざまの傾向を持つ作品がビエンナーレ等の国際展で大挙して出現したことはまだ記憶に新しい。物質文明の急速な発展は表現世界に多様で多彩な素材と技法をもたらしたが、その結果、今日では作品のジャンル別分類が困難となってきた。特に版画、写真、ビデオ作品に関しては、技法の境界だけではなく複数性、希少性、オリジナリティという美術作品の根幹に関わるところまで影響が及んでいるのが実態である。これらの作品にはすべてデジタル技術が関わっているが、絵筆一本で描き上げる絵画表現においては、その画材や作画法はほとんど伝統芸術に近いくらい変わっていない。日本画においても、洋画においても、基本は手仕事であり、ゼスチュアである。美術の「進歩」がどのように展開しようが、また「美術」の定義がどのように書き替えられようが、目に始まり手に至る肉体の感覚機能を用いての表現行為は不動のものであると信じたい。

吉川民にはたいへん感覚的な画家である。たとえて言うならば、感性の海へ小船で飛び出した航海者のようなものである。計測をしながら慎重に航路を定めるというより、その日の天候と風向きと気分にまかせて航海を楽しむタイプかもしれない。船を操るに際し、風を受ける帆は「直感的な線描」であり、方角を決める舵は「抜群の色彩感覚」である。これまでの作家の足跡を見ると、抜きんでた 特徴はこの2点に尽きるのでないかと思われる。近代絵画は、構成と概念性が重要視されるが、吉川の場合は珍しく直感的で成り行き志向である。しかし、これが作品を面白いものにしている。2000年に発表した「風シリーズ」の制作時には、居住する千葉に吹き渡る風に心を奪われ、激しい身振りでインパクトのある黒と黄色の連作を仕上げている。また、今回の発表に見られるピンク色の大作「声音(春)」は、見た瞬間に作家の心の高ぶりが察知できる魅力的な一品であるが、聞けば最近出生した第4子が待望の女の子であったことがこの作品誕生のきっかけになったとのことである。

「芸術作品は当然のことながら、作者の心情や好奇心を赤裸々に物語ってくれるだけに、その制作の出発点において何らかの衝動が作者の内部に生じていないとインパクトのあるものが生まれない。昨今の美術作品がやや退屈で、見るべきものが少ないのはこうしたことと無縁ではないような気がする。

吉川作品のもう一つの見せ場は、和紙に墨を使った作品である。油彩の画家がこうした領域に入るのはまれなことであるが、吉川の場合、これまでの作品をモノクロで見ると、この技法の採用になんのためらいもなかったことがよく解かる。墨作品の前に立つと、カラフルな作品では見逃していた空間的な広がりが見えてくる。今回の出品作「香(よう)」などは、抽象形態であるにも拘らず、近景、中景、遠景といった奥行のある風景画的イメージが出場する。

近年、書家の間からも現代書に取り組む傾向が現れ、これまで基本であった文字性を逸脱してダイナミックな書作品を発表する例が多く見られるようになったが、これなどは新しい可能性を模索しながら書の現代性と国際言語を獲得しようとする試みではないかと思われる。吉川の場合は、逆に美術家側から伝統芸術の画材に接近し、これを十分に研究して今日的表現に活用している。その結果、両者の作品の中にはたいへん相似したものが見受けられるのが興味深い現象である。

今年38才を迎える若い作家ではあるが、優れた色彩感覚と直感的な線描、そして透明感に満ちた空間表現という武器を携えてどこまで伸びていくか将来が楽しみである。

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