遠い眼をした男だった。すぐ近くのものを見ていながら、彼の眼は対象を突き抜けて遠くをながめているようだった。直接話していても、彼の眼は相手のずっと彼方を見やっている。だからといって焦点を結んでいないわけでもないし、相手を無視した冷たい視線というのでもない。むしろホッとするような親和感をたたえながら、だけど距離感だけが不思議に遠いのだ。あの眼で、いつも他人とは違う距離感で世界を見つめつづけていたんだろうか。暗箱の中で、逆立した世界をながめるときのように……。

山中信夫と最後に言葉を交わしたのは、1982年の、パリビエンナーレで現地制作をするために彼が旅発つ直前の夏のことだった。特別の用もなくフラッとぼくのアトリエを訪ねて来た彼は、いつものとうり無口で、ほとんど話らしい話はしなかったような気がするのだが、一言だけ鮮明に覚えている言葉がある。
「もう迷いはない。ピンホール写真に生きていくことにしたよ」
虚をつかれるような言葉だった。その言葉が逆に、寡黙だからめったに自分のことを語りはせず悠然とさえして見えた彼の中にも、大いなる迷いと苦悩の年月があったことに、思い至らせたのだ。
1982年。ぼくらが作品を発表するようになって、すでに10年以上を経ていた。’70年代的な、嵐の後の凪のように見えながらも熱い地熱にジリジリと肌をこがされるような想いで、あらゆる前提を問い直そうとした季節はすでに遠く、ニューウェーブという名の脳天気なコマーシャリズムの波が押し寄せていた。まだ周囲の誰もが、一点も美術館に収蔵されているわけでもコマーシャリズムの恩恵にあずかったわけでもなく、相変らずのアルバイト生活で貧乏暮らしだったが、時代は確実に変化していた。多くの作家が、前提を問い直す“前史”の時代を終えて転回を果たすか、あるいはすでに美術の現場から遠去かろうとしていた。また多くは家庭を持ち、あるいはそれも再び壊わし、ともあれサイクルがひとつゴロンと回わってしまっていた。
そんな中で、彼だけが10年という年月がまるで夢だったかのように、相変らず童顔のまま、家庭も持たず生活スタイルもファッションも変わらず、そして何よりも“前史”のまま当初と同じようにピンホール写真にこだわりつづけていたのだった。
そんな彼を迷いとは無縁な悠揚とした確信犯とも、ナイーフとも、あるいは時代に対する鈍感さとも見ることはできたはずだ。
しかしそうではなかった。そんな彼にもやはり時代との葛藤や変化への渇望など、迷いはあったのだ。彼の迷いの季節は、1977年にパリで個展を行い、「この展覧会をもって、ワンサイクル終わった気がしないではない。また、もうここまでくれば展開のしようがない」(『美術手帖』77年11月号)と思ったと自ら書き記したときからの数年間ということになるのだろう。
その迷いの中で彼は、ピンホール写真を捨て、壊わし、再び選び直し、そうやって操作された情報としての写真から見ることの原型としての写真にまで、再び自分の作品を鍛え直していたのだろうと思う。
闇こそ光なのだ、と断言肯定するようにして。
「もう迷いはない」
と言い残した彼は、パリで絶作となった『Camera Obscurain Paris』を作り上げ、その後ニューヨークへ回わり、再び帰ることなく客死してしまった。みごとなサイクルの閉じ方だった、と今だからこそ、そう思える。

あれから12年、今年はもう13回忌になる。その間に、時代はまた大きなサイクルをひと回わりして、世界は激変してしまったが、そんな歴史の波にもまれて彼の作品は今もまだ生きているのだろうか。
ニューヨークで荼毘にふされ、小さな骨壺に入ってもどってきた彼を墓に納骨した瞬間のことは、今も忘れることができない。
痛いほどの怒りにつき動かされて、涙があふれ出た。弔い合戦をしてやる。そう思った。誰に対して?そんなことはどうでもよかった。どうやって?なんとしても、彼の作品を残してやる。そう思った。
歴史の中に作品を残す、などという大それたことができるはずもないことはわかっていた。ただ、とりあえずは物理的に残すことが問題だった。美術館にも収蔵されず、個人コレクターがいるわけでもなく、保存がむずかしい上に整理もされていない作品たちは、放っておけば消滅するしかないはずだった。
それを整理し、いつの日にか回顧展を開きカタログレゾネを作り、コレクターや美術館にも蒐集してもらう。それは、歴史に選ばれる可能性というスタート台に立つための必要最低条件だった。その上で、作品が後世に残るか否かは、歴史が選ぶことだ。
少くとも、その必要最低条件が満たされていいだけの作品を、彼は生命をかけて作り上げてきたはずではないか。しかし現実には、新しい現象としてもてはやされた短かい季節の後には、しだいに無視され、次いでたれ流しの汚物のように顔をそむけられ、やがて忘れ去られてしまう。この国でいつもくり返されてきた、そんなアートの流産の歴史の中に、彼の作品もまた流し去られてしまうのだろう。ならば、残された作品をスタート台に立たせてやることが、生き残されたもののせめてもの弔い合戦だ。
今にして思えば、怒りの中で思っていたのは、そういうことだった。
それが正しい選択だったかどうか、さらにそれが十分にできえたのかどうかは心もとないが、できるだけのことはやってきたはずだ。その上で、今もまだ彼の作品が生きているのかどうか……。むろんぼくは、彼の作品が歴史に選ばれ、歴史を突き抜けて生きていることを確信している。そんなことを言えば、あの遠い眼をした男はテレたような笑みを浮かべてボソッと「そんなこと、どうでもいいよ」と言いそうな気がしないでもないのだが。

1994年2月

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