ピエロ・マンゾーニ、1933年 イタリヤのクレモナに生まれ、1963年ミラノで没。30歳の若さだった。私が彼に会ったのは1960年の秋だったが、それが最初にして最後になった。ミラノでは毎夜飲みに飲んだ。がっしりした体格の男で、3年後に訃報を聞いたときにはまさかと思い、ミラノでの毎夜が死因の一部となったのではあるまいかと思い、いくぶん心痛む思いをしたことを憶いだす。

私が会った頃、マンゾーニは前年の四月に始めた「線」のシリーズにひと区切りをつけ、「指紋」や「芸術家の息」に取組んでいる時期だった。「線」のシリーズというのは、紙にただ線をひくといっただけの作品で、彼によれば、その線の長さのトータルが地球の円周と等しくなったら終えるという計画だった。線のひかれた紙は黒い円筒のなかに封印され、彼はそのひとつをうやうやしく私に贈呈してくれた。線の長さは大小さまざまあったが、一番長いのは7200メートルに達していた。線の長さのトータルが、実際に地球の円周に達したのかどうか、私には今それを確める術がない。

「線」のシリーズの前に位置するのが「面」のシリーズである。マンゾーニといえば、1957年に始められたこの「面」のシリーズによって、その存在が注目されるに至ったといってよい。「面」のシリーズは、さまざまな白い布を木枠に張りわたしただけの作品で、彼はこのシリーズを「アクローム」(非色)と名づけていた。

「われわれはただひとつの色を、というより、お互いに干渉し合わない連続したひとつの面だけを用いる。そこではあらゆる余分なものも意味ありげなものも除去されてしまう。それは青い上に青を、また白の上に白を という問題ではないし、自己を表現するということでもない。事実は全く逆なのだ。私にとっての問題は完全な白い面(それは完全な無色、中性的なそれである)をつくるということにある。その面はどのような絵画的現象とも無縁だし、また画面の価値と無関係ないかなる要素ともまったく無縁である。その白は極地の光景でもなければシンボルでもないし、それは白の画面以外の何者でもない白なのである。(つまり、無色の画面は無色の画面以外のなにものでもない)」

「無限の空間」(1960)という論文でのマンゾーニの文章である。ここで彼のいおうとしていることはただひとつ、「白い画面は白い画面以外のなにものでもない」ということに盡きよう。「白い画面は白い画面以外のなにものでもない」というのも決局はひとつの意味にほかならないが、しかしマンゾーニの意図はよく解るような気がする。それは作品を意味する陳述のもっともミニマルな状態にしようという意図である。「線」のシリーズもその点では同断だった。線は線以外のなにものでもないということである。線を決定するいくつかの要素のうち、マンゾーニはただ長さだけを要因として残し、あとの一切を捨ててしまう。彼の「白い画面」についての言葉をもじっていえば、「線は線以外の何者でもない」ということになろう。(モノクロームということで、1960年前後、マンゾーニは青のモノクロームのイヴ・クラインと対比されることが多かったが、イヴは間違っても「青は青以外の何者でもない」とはいわなかった。私はその点について、フランスの評論家ビエール・レスタニーと口論したことがある。もっともこの二人はエンリコ・カステラーニらとともに、「アジムト」という雑誌による仲間だった)

「面」から「線」のシリーズへの変移は、しかし、決定的な違いをもたらすことになったと思う。それは「線をひく」という行為を通して、マンゾーニが「行為とその痕跡」ということに関心をもつようになったことである。「線」のシリーズのあと、「指紋」とか「芸術家の息」といったように、自分の肉体に直接関係のあるものと作品を結びつける仕事をするようになったのは、それを語って余りあろう、そのもっともラディカルな仕事は、自らの大便をカン詰めにした「芸術家のくそ」というシリーズだった。ローマにあるイタリアの国立近代美術館で開かれた回文展の際、それを見に来たイタリアの某国会議員が、国税をつかって「大便」を展覧会に出品するとはなにごとであるかといって、イタリアの国会で議論になったというが、解らないでもない気がする。しかし、マンゾーニはダダイストの後裔ではなかったと思う。自分の息を風船いっぱいにつめた「芸術家の息」が、マンゾーニの上からの排出物による作品とすれば、「芸術家のくそ」は同じ意図による下からの排出物による作品に過ぎない。いずれも、マンゾーニという芸術家の存在証明だった。実際、マンゾーニが死んで、今なお彼の肉体の直接的な根跡として残っているのは、それらの作品である。

深刻でなく、常にユーモラスであった彼の作品を私は愛する。もっとも血気盛んで、1960年前後、マンゾーニと同じく、ルーチョ・フォンタナを敬愛していたロベルト・クリッパとは仲が悪く、ある時口論したあげく喧嘩になり、ぶんなぐられてひっくり返ったということを聞いたことがある。そのクリッパも飛行機事故ではやばやと死んでしまった。1960年前後ミラノはフォンタナを中心として熱気にあふれていたと思う。私が滞在していた間、もっとも興味をもって見ていたのはピエロ・マンゾーニとエンリコ・カステラーニの二人の仕事だった。

ミラノからパリへ行き、イヴ・クラインを訪ねた。女性の裸体にブルーの塗料を塗り、キャンバスに押しつける仕事をしている頃だった。根本的に考え方が違うと思った。正直いって、そのとき私はマンゾーニの仕事の方に興味を覚えた記憶がある。とはいえ、イヴの仕事にも強い関心を抱いたが、そのイヴもマンゾーニと相前後してこの世を去ってしまったのが、何か因縁めいたものに感じられる。「死は死以外の何者でもない」とマンゾーニはいっていただろうか。

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