「今日のイギリス美術」展に展示されていたポール・ニアグの作品群を眺めながら、いつも私は、フランスのシャンティユィ・コンデ美術館に秘蔵されているランプール兄弟が制作したと伝えられるあの有名なベリー公の「いとも豪華な時祷書」の場面を、無意識のうちに想い出す癖がついてしまっていた。15世紀の国際ゴシック様式絵画を代表するこの一連の細密画の中の「3月、労働」と「10月、種まき」の場面に描かれている牛耕の犂や、馬に惹かせた地均し農具などを、漠然と思い返えしていたものらしい。と同時に、どこで見たのか記憶が定かでないのだが、かつてヨーロッパのどこかで使っていた木製の農機具の数々のイメージが甦ってくる。明らかに日本のそれとはちがった形のイメージ。私たち日本人とは本質的に異なる、しかし人間臭い、ある種の懐しさをともなった力の概念、そういったものが作品に込められている。こうしたニアグの造形には、イギリスに住んでイギリスの現代作家として海外に紹介されながらなおイギリス本来の現代作家とはどこかちがった、ルーマニア生れの作家らしい民族的体質みたいなものが備わっている、とイギリス人の評家は言うのだが、私たちにはもちろんそこまでは理解が及ばない。

ニアグの木を使った造形は、言うまでもなく、ヨーロッパのある種の農機具のイメージを甦らせるが、しかし古い農機具の形を単に追っているのではない。人間と木とのある本質的なかかわりの問題を意識しているのである。そのかかわり方の本質的な問題、それに対する造形作家としての心的態度が、普通の作家と異っている、というところに存在の独自性がある。木を加工して、ある形の美しさ、面白さ、味わいを求めるといった、見ることを通じての静的な鑑賞の対象として造形を意識しているのでなく、木を介して人間が外界(自然)とどうかかわるか、そのかかわり方の、土俗的もしくは民俗的な、ひいては歴史的な体験の蓄積を、いかにして集約的に、あるいは象徴的に、造形化することができるか、ということを意識している。

もう少し現実的に、彼の造形に即して言えばこういうことになる。人間が農作業を通じて大地に作動していくその際の、人間的力を増幅させるために、木の持つ力の可能性を、人間の手や体の機能の延長線上に結びつけ、これを活用していこうとするきわめて人間的な意識の営み、つまり樹木に内在する自然の力を人間化していく意志の働きを造形化しようとしている。だが、木を本来そういった対象として人間が見つづけてきた原初以来のこのきわめて人間的な力動的感覚も、今や周知のごとく完全に消滅してしまっている。たかだか、一種のノスタルジックな感傷としてしか残っていない。その感傷から、感覚のダイナミズムを救出するのが、彼の仕事らしい。

(おおしませいじ)

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