「耳の三木」として知られた三木富雄が40歳で亡くなってから8年が経過した。三木が美術界に登場したのは1950年の末、読売アンデバンダン展などであった。赤瀬川原平、荒川修作、篠原有司男、吉村益信らの「ネオ・ダダ・オルガナイザース」グループに直接参加しなかったが、その周辺で活躍し、切り開いたタイヤなどの廃品をアッサンブラージュした大型のオブジェを発表した。その三木が「耳」をつくりはじめたのは1963年である。彼の友人の1人、田中信太郎は「追悼 耳の終焉」(1978・5 美術手帖)の中で、「――その後駒沢公園の横に移転した三木さんは、六畳位の屋根の低いガレージが制作の場所となった。1963年、最後の読売アンデバンダン展となった年の初め、『バラの耳』と題する耳の処女作を見に駒沢へ訪ねていった。白い石膏の膚に赤いバラの絵が無数に張りつけてある無気味なロマンティシズムを漂わせた作品であった。しかし石膏の脆さを嫌い、すぐに本格的なアルミを鋳造した金属の耳へと移行したのだった。それから15年間、耳にとりつかれた三木さんは夏は裸で、真冬も小さな石油ストーブ1箇の寒いガレージで来る日も来る日も昼も夜もなく、これほど極度な人間がいるのだろうかと思うぐらい、次から次へと耳を生み続けた。」と回想している。

「耳の三木」を深く印象づけたのは、その1963年の内科画廊での個展であった。新橋の古いビルの一隅にあったこの画廊は、短期間ではあったが若いアーチストたちの発表の拠点であった。人体の一部をオブジェとして提示した例はもちろんないわけではないが、内科画廊で展示された「耳」の群れは、いかにも不思議な存在感を秘めていた。注目を集めた「耳の三木」は、1964年南画廊の「ヤング・セブン」展、第六回現代日本美術展コンクール部門受賞、65年椿近代画廊の「彫刻の新鋭」展、南画廊個展、ニューヨーク近代美術館などでの「新しい日本の絵画と彫刻」展、66年国立近代美術館の「現代美術の新世代」展、南画廊の「色彩と空間」展、松屋の「空間から環境へ」展、67年第九回日本国際美術展受賞、第五回パリ・ビエンナーレ展受賞、宇部市野外彫刻美術館の第二回現代日本彫刻展、長岡現代美術館の第四回長岡現代美術館賞展、68年第34回ベネチア・ビエンナーレ展、第八回現代日本美術展、69年第九回現代日本美術展フロンティア賞受賞、東京国立近代美術館の「現代世界美術展」、彫刻の森美術館の第一回現代国際彫刻展、第10回サンパウロ・ビエンナーレ展と、1960年代の、いわゆる「反芸術」的傾向を代表するアーチストとして、国の内外で活躍した。

三木富雄がなぜ耳をつくり続けたのか、このアーチストに対して絶えず発せられた問いであった。なぜ「耳」を選んだのか、恐らく三木自身説明できなかったと思うし、誰にもわからない。田中信太郎は前述の追悼文のなかで、これに関連して「最初、三木さんは制作の動機を『耳に選ばれた』と文学的な説明をしたが、第1作目から完壁な完成度に高められた金属の耳は、そして特異なモチーフであるそれは、強烈であるがゆえなおさらマンネリと受け取られるのも早く、それを意識してか何度となく他の作風への脱皮を試みたが、そのつど耳から離れる事のできない宿命みたいな因縁を感じていたらしい」(同前)と友情をこめて語っている。「耳」はアルミ合金を主に、等身大から2メートルほどの巨大なものまで、小さな耳を多数はめこんだレリーフ状の作品、巨大な耳を分割して色彩パネルと合成したもの、耳につながる内部器官を露出した作品、アクリル板に耳のイメージをプリン卜したもの、それと金属オブジェを合成した作品等々、さまざまなヴァリエーションとして作り続けた。

それらは「耳」をモチーフとした飽くなき探求であり、そこに三木富雄のアイデンティティがあった。「耳に選ばれた」このアーチストは、田中もいうように「耳に取り憑かれた」男でもあった。そして「耳」と格闘し続けたアーチストともいえよう。67年宇部の巨大な切り抜き文字のような「E・A・R」や、69年彫刻の森美術館の「E A R」の刻印を打った巨大な円桂状の「鋳造アルミニウム」など、野外の場で「耳」の形から離れようとして「耳」から離れられなかった挑戦の軌跡である。

1970年代にはいって、71年ロックフェラー財団の招きで渡米、1年間滞在した。この間新しい領域をもとめて模索を続けた。74年コルディア・エクストローム画廊での個展が計画されたが実現せず、78年急逝した。

「耳に取り憑かれた」三木とオプセッションをどう解釈するか、さまざまな見方があるだろう。「耳」の呪縛と執拗に格闘し続けることによって、彼は独自の世界を獲得することができたに違いない。

(みき たもん)

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