峯村―― それでは始めさせていただきます。司会というほどのものはないほうがよろしいのですが、便宜上、私が進行係をやらせていただきます。
まず、講師の方をご紹介いたします。
向こうのほうから、上村清雄さん。たぶん、皆さんもまだあまりおなじみではないと思います。私もきょうお会いするのが初めてなんですが、イタリアに留学されて2年ほど前にお帰りになり、いま群馬県立近代美術館の学芸員をされています。
ロッソを特別研究されたとは聞いていなかったのですが、さきごろ岐阜の県立美術館を振り出しに巡回した「20世紀イタリア具象彫刻展」が、関東では群馬の近代美術館に回り、その際、上村さんが大きな役割を果たしておりまして、それとイタリアに実際に勉強にいらしていたということを重視して、きょう加わっていただきました。その「20世紀イタリア具象彫刻展」のカタログのなかではロッソについて、またロッソより2世代あとになるアルトゥーロ・マルティ-二などについて書いていらっしゃいます。
そのお隣が、黒川弘毅さんです。彼は彫刻家ということで、もうかなりの方がご存じだと思いますけれども、ブロンズをいつも使って大変ユニ-クな仕事をしております。ちなみに、黒川さんはほとんど“ロッソ狂い”といつていいところがありまして(笑)、あまり狂っているので、きょうは少し冷水をかけようと思って(笑)ちょうど正反対のもう一人の作家として、大先輩の堀内先生においでいただいたようなわけです。そのお隣が中原佑介さんです。この方は皆さんご存じの美術評論界の大御所でして、とりわけ現代彫刻、20世紀彫刻について非常に早くからさまざまな文章を書いていらっしゃいますが、特に1960年代の早い時期に既に『現代彫刻』という一冊の本を出されて、その方面に関心のある人々に大きな学恩を垂れてこられたわけです。ブランクーシを本にまとめられたあと、当然のことながら、ロッソにも関心を強く持っておられるということを聞いておりまして、きょうおいでいただきました。
そのお隣が堀内正和さんです。戦前から日本の抽象彫刻、あるいは構成的な彫刻の方面で先駆的な仕事をずっと続けていらした方です。実は、私は黒川弘毅くんから間違った情報を得まして……。つまりロッソ狂いをやらておりますと、世の中すべてロッソを好きになるべきだと思うているらしくて(笑)、その黒川くんから堀内先生もロッソに大変関心があるはずだと前々から聞いておりました。そんなことはないだろうと私は思っていたんですが、堀内さんにお聞きしましたところ、やはり「格別、好きというわけではない」と。しかし、堀内さんは非常に多角的な、知的好奇心のかたまりのような方で、当然ロッソについても一家言あるだろうということで、おいでいただきました。
そして私のお隣が松浦寿夫さんです。評論家で、つい最近までフランスに留学していました。私に非常に印象深いのは、イタリアの未来派について研究されたことと、もちろんそれと関連してですけれども、印象主義についても――あれを古いとかいうことでなしに――独自に研究をされているということです。口ッソは印象主義にも未来主義にも大きな縁を持っている芸術家ですし、松浦さんにはもちろんロッソについても言及された文章がありますので、そういうことでおいでいただきました。
まだまだ、ロッソについて日本で関心をお持ちの方はたくさんいらっしゃると思うんですけれども、これだけでも私を含めて6人の人間が顔を出すということになりました。これ以上ふえますと、話ができないのと、たぶん鎌倉画廊がギャラを払えなくてパンクするだろうということで(笑)、ここでとどめました。また何か機会がありましたら、ほかの方にもこういう問題についていろいろ発言してもらえるようになると、このシンポジウムが一つの発火点として役割を果たしたことになるのではないかと思っております。
私は峯村(敏明)ですが、ロッソをいままでに格別取り上げて論文を書いているわけではありませんが、応分に彫刻が好きなものですから、ロッソに大変関心を持っています。しかし、こちらの皆様と比べると学がだいぶ浅いものですから、進行係がうまくいくかどうか大変おぼつかないのですが、イタリア現代美術全般を専門としている立場上やらせていただくことにいたします。
メダルド・ロッソは、1858年に北イタリアのトリノで生まれ、途中、パリにかなり長く住んでおりましたが、最後はミラノで事故が原因で70歳にして亡くなっております。ちょうど19世紀の後半から20世紀の初めにかけて生き抜いた彫刻家です。いままで日本で全然紹介されたことがないかというと、ロッソだけをまとめてこれだけの数を展示したというのは今度が初めてですが、いまちょっと私の頭にあるだけでも、大きな集団展の枠組みのなかでは、それなりに非常に光る作品が紹介されております。
近いところで言いますと、1982年、毎日新聞の第14回日本国際美術展の特別陳列で「イタリア美術の一世紀展」という総合的な展覧会がなされたときに、いい作品が5点来て、たぶん、好きな方は目にとめていらしたと思います。そのときの作品は、「失業中の歌手」「街灯の下の恋人たち」「アンリ・ルアールの肖像」「庭園の会話」「この子を見よ」でした。
また、そのしばらく前の1979年に大阪の国立国際美術館で「近代イタリア美術と日本」という、イタリアの19世紀から20世紀にかけての美術と日本の近代美術との交流・比較をテーマにした展覧会をやりまして、このときには「庭園の会議」と「病める子」の2点が展示されております。
それから数量的には、こちらの上村さんがキュレートされた「20世紀イタリア具象彫刻展」に、彫刻だけでこれまで未紹介の8点、そしてデッサンが2点ということで、かなりもたらされております。それも非常にすばらしい作品だったと思います。
早いところでは、1972年、箱根の彫刻の森美術館で「現代イタリア彫刻の全貌展」が行われたときに「この子を見よ」が出品されて、文章の上でもすぐれた紹介がなされております。
しかし、こうした歴史通覧的な展覧会ではロッソに特別に光が当たるわけではありませんので、こんな集まりができたのは、今度の鎌倉画廊での展覧会が重要なきっかけになったといっていいと思います。
では、本題に入りましょう。
まず最初に、“いまなぜロッソか”ということで、いまロッソが特別に関心の対象になるのか。なるとすれば、それはどういうことでか、ということから入っていきたいと思います。それは当然、ロッソがいままでどうして日本では一般の人々にほとんど知られないできたかということにもつながります。
まず、つい最近ロッソについてカタログなどに文章を書く機会があった上村さんに、イタリアにいらしたときの感触なども含めて語ってもらいましょう。
上村―― いま峯村さんから非常に過分な言葉をいただきました。ということは逆に、いまから言うことは皆さんを相当がっかりさせると思うのですが、私はイタリアにいましたとき、“15世紀のルンネッサンス彫刻”というのをやっていまして、ある意味ではロッソが非常に否定した彫刻を研究しておりました。ミラノあたりではロッソの彫刻を見たことがございますが、ロッソ美術館にも足を踏みいれていません。
さっきの峯村さんの説明をちょっと訂正させていただきますと、岐阜から始まった「20世紀イタリア具象彫刻展」は、岐阜県美術館の学芸員の方が中心になって作品選択から始めて努力なさいまして、それは本当に大変なことだと思います。
私がやりましたのは、カタログ段階でお手伝いすることで、それも急ごしらえのロッソ、マルティーニ……。マルティーニに関しては、イタリア人のなかで非常に“マルティーニ信仰”というのがありまして、特に美術史を勉強している学生、それもルネッサンスを勉強している学生でも、「マルティーニはすごい」、「マルティーニはよく解き明かされていないけれども、これから僕たちは勉強しなきゃいけない」という意識を持っている。
そのマルティーニが何より愛したのが、ロッソだった。若いころ、凡庸な先生のアトリエでロッソの写真を見つけて、これはすばらしいと思っていたら、先生に椰楡されたもので、その先生が一気に嫌になってしまった。
そういうことで、私はやっぱリマルティーニからの関心で入ったわけです。それが前段です。
それで、“いまなぜロッソか”。もしくは“ロッソがなぜ評価されなかったのか”。私は、ロッソというのは自分の作品がどういうふうに見られるかということを非常に意識した彫刻家だと思うのです。ですから、サロン・ドートンヌに展示するときでも、コーナーにどのように自分の作品を置くか、どのように自分の作品が成り立っていったかということで、関連のある美術作品とか自分の過去の作品を壁に並べて、いまの作品とどういう関係があるのかということを示しています。
そうしますと、やっぱりある程度の歴史と彫刻・ 絵画という二つの対立する――もしくは共生し合うものとも言えるかもしれませんが――そういうジャンルのしっかりした前提がないと、ロッソの彫刻というのはなかなか理解されないのではないか。
そうすると、それは日本の近代美術の問題にもかかわってくると思うのですが、絵画・彫刻というジャンルが日本の近代美術のときにはたして措抗していたのかという問題になってきて、ロッソというのがなかなか浮かび上がってこなかったのではないか。これはひとりよがりの解決かもしれませんが、そういうことをいま思っているわけです。
峯村―― つぎに黒川さん、お願いします。
黒川―― 私は作家で彫刻をつくっているんですが、私が彫刻を始めたときに一番最初にあったのが“彫刻の危機”で、実際に彫刻作品は不可能な時代じゃないのかといった自分の認識があったわけです。もの派の出現によって、ある種の解体が生じていて、そして彫刻自体かかなり危機的な状況に追いやられていたのではないか。
そのなかで彫刻を再構築していくという使命みたいなものを自分が感じたわけですが、そのときに絵画・彫刻という問題に当然、関心を持っていくわけですけれども、それが歴史のなかでどうなったのか。たとえば日本なら当然、日本のもの派の状況、もの派以降の状況があるわけですが、世界的にそうした美術の歴史的展開のなかで、彫刻・絵画がいったいどういう展開を遂げたのか。そして、それが日本でどのようなものとして現在ある状況を現出させたのかという関心が最初にあったわけです。
その関心のなかでロッソに出会ったわけです。そのときに私がロッソから得たインパクトはものすごく強烈なもので、まさに彫刻として何か不滅なものが、そこでロッソを媒介にして自分のなかに再生されたという印象を得たわけです。
それをきっかけにして、ロッソにものすごく興味を持ったわけですが、歴史的に見て、とりわけヨーロッパの歴史において、印象派の登場は彫刻にとって初めからものすごい危機を持っていたのではないか。
ロッソがそのなかで実際に葛藤しているのが作品のなかにも現れているし、その葛藤はおそらく自分にとってものすごく有益な何かを得させてくれるんじゃないかという直感が、ロッソの作品を見たときに働いたんです。
“印象派彫刻”という形でよく言われます。 ドラクロアから始まつて、クールベを経てマネや印象派ではっきりするような、そうした唯視覚主義的な観点においてロッソの彫刻を見た場合に、明らかにそう言われると思いますけれども、僕はロッソの作品のなかに、それまで言われていたような“印象派彫刻”というジャンルとは全く別な、彫刻それ自体が始源、オリジンから脈々と持つようなパトスとエトスを感じたわけです。
日本において、僕が大学を卒業した前後のもの派のエピゴーネンが、画廊のどこへ行ってもあるような状況のなかで、“彫刻の再構築”が量塊の再生としてはっきり意識されたんです。“量塊の再生と形象の産出”――自分の言葉で恐縮ですが――というものに対して、ロッソがものすごい自信を与えてくれたわけです。
ブロンズの量塊を削ることによって展開する自分の作品のはっきりとした確信を、ロッソが与えてくれた。ロッソがそのきっかけになった。彫刻というものに対する自分の確信を、より強めてくれた。べつにロッソが僕の彫刻の方法論の基礎になっているわけではないんです。ロッソを媒介にした彫刻の歴史性みたいなものに対する確信を与えてくれた。その意味で、自分にとってロッソの存在がいまでもなおかつ重要なんです。
以上のようなことが、僕のロッソに対する思い入れの根本にあり、“ロッソ狂い”といろいろな人から言われる基礎にあるわけです。
峯村―― いつもは、ロッソ狂いの熱弁がもっと長く、理解するにも時間がかかるんですが、きょうは大変うまくまとめて話していただきました。
それで中原さん、お願いします。
中原―― 私は黒川くんほどロッソに狂っていないものですから(笑)、“いまなぜロッソか”といわれると、なぜかなと思ったりしているところのほうがむしろ大きいと思います。ヨーロッパを含めて、ロッソに対する関心がいま非常に強くなっているかどうかは私もよくわからないし、それほどでもないのではないかという気もしますが、私の性癖として、あまり取り上げられない彫刻家はぜひ取り上げたい。
大きくいえば、そういう私の性癖もあって、ブランクーシに次いで、ロッソについてまた駄文を一冊書こうかなと思ったりもしておりますけれども、一方でいまスペインのジュリオ・ゴンサレスという彫刻家にも非常に関心がありまして、実はどちらを優先しようかなと悩んでいるというのが正直なところです。
半分冗談のようなことを申し上げましたけれども、これはいろいろ異論があるかと思うので、あとでご意見をむしろ伺いたいんですが、20世紀のとりわけヨーロッパの彫刻の一つの大きな流れというか系譜というか、基本的には画家が彫刻をつくるという……。
ピカソなどを画家と規定していいかどうかわかりませんが、これはロッソとも関連がありますが、未来派のウンベルト・ボッチョーニも絵を描いて、それから彫刻をつくったわけです。
その場合に、ボッチョ-ニは画家だから、ボッチョーニのつくつた彫刻はどうだということではなくて、基本的には絵画という視点があって、そういう視点で――最近の言葉でいえば――立体作品をつくる。これはやはり彫刻とちよっと違う視点が入ってくるので、そのために、彫刻の流れから見ると、ある種の新しさというか、それまでの彫刻になかった形式を生み出す。
極言をしますと、私はロッソというのは彫刻家ではないと考えております。これは具体的に印象派との関係とか、あるいはロッソが彫刻を見る、“視点”ということに非常にこだわりを持ったという……。彫刻というのは、視点にこだわりを持つということはあまりないんじゃないかと思うんです。視点にこだわるのは画家ですね。
それからロッソはワックスの作品がとりわけユニークなもので、しばしば触れられますけれども19世紀の80年代ぐらいから作品を発表しだしたわけですが、同時代にロダンという彫刻家がフランスに出たわけです。
ロッソはロダンとしばしば比較されたりしますけれども、ロダンというのは基本的に彫刻家としては古いと思います。“古い”というのは、スタイルが古いのではなくて、彫刻のつくり方が一種の伝統的な分業主義。
ロッソは分業主義ということはとらなかったと思います。主として、石膏という素材を使って自分の手でつくる。ロダンならば、石を彫る専門の職人にそれを大きくしてつくらせる。ご自分は石を直接彫らなぃ。彫刻家が原型をつくつて、それを他人の手に渡す。ブロンズもそういうプロセスを踏むわけです。
じか彫りということでは、やや後輩に当たるブランクーシが「彫刻というものは全部自分の手でつくらなければならない」という持論を力説して、やったわけですが、ロッソは“石を彫る”という作品をつくらなくて、主として石膏が基本で、それがブロンズになったのもあるし、後年のワックスをかけるというのもある。
彫刻の仕事を自分の手ですべてやってしまうというのは、これは非常に新しい。ヨーロッパで彫刻家の分業がだんだんはっきりして、19世紀の終わりごろまで彫刻の分業があったわけですが、ロッソはその分業をとらなくなった。同じ方法を未来派のボッチョーニがとったわけですが、たぶん、ボッチョーニはつくり方が下手だったからだと思うんですが、石膏の作品は全部こわれて、なくなってしまった。
そういう点、つまり、分業をなくしたということ。もう一つは、分業をなくしたんだけれども、ブランクーシなどと違って、じか彫りという“彫る”という手続きを経ずして、主として石膏をモデリングしていく。それを自分の手でつくった。これは大変モダンなことで、そのモダンさというのは、たぶん、絵画と非常に共通しているところのほうが大きいんじゃないか。
あえて、“なぜいまロッソか”といわれると、以上のようなことを考えております。
峯村―― ロッソを絵画的視覚の側でみるというのは大問題ですね。後ほど黒川くんのほうから大反諭が出ると思いますが、大変いい、刺激的なお話を聞きました。
それでは堀内先生、お願いします。
堀内―― 僕は外国に行ったことないから、ロッソの作品はいままで一度も見たことないんです。日本にはいままでほとんど来ていないでしょう。
中村さん、明治44年の朝日新聞にロッソのことが出ていたというのは、それは紹介が出ていたんですか。
中村伝三郎(シンポジウム出席者)―― はい。明治44年の4月8日に有島生馬さんが書かれたのが、一番初めの本格的な紹介です。
堀内―― ああ、そうですか。僕はロッソのことにあまり関心を持っていなかったし、今度初めて実際に見たわけです。
僕は“絵画的な見方”というのは嫌いな立場ですから、どうもロッソとは反対の立場にあるような感じがしますね。しかし、こんなにたくさん見たことは初めてですから、大変参考になると思います。
それからつくり方のことですけれども、これはやっばり最初、粘土でつくっているんだと思います。粘土でつくって、それを石膏に取るというのが、普通のやり方ですが、その石膏に取った型からブロンズにするんですけれども、ブロンズに取った、そのまた寄せ型をして、そこにワックスをはめて、もう一う複製をしているという感じですね。
このなかの一つに“ワックス・オーバー・プラスター”と書いてあるけれども、ワックスで型を取って、それを補強するために中から石膏を塗っているんじゃないかと思います。
そういう技術的なことをやっているので、どういうふうにやっているのか、これからも研究をしたいと思います。
黒川―― プラスター・バックアップ・ワックスと言うべきです。
堀内―― だから、プラスターでつくって、その上ヘワックスをやったんじゃなくて、前につくった作品を複製するので、メ型をつくって、そこヘワックスを押し込んで、そしてそのワックスだけで取れないから、補強して石膏を入れているんだと思います。中村―― 途中ですけど、黒川さん、いまでもワックスという手法をやっているでしょう。
黒川―― はい、やっております。中村―― この間、ここで重岡さんに聞いたら、いま堀内先生が言われるようなことだったので、堀内先生にお話ししたんですが、現在もこういうやり方でやっているんですか。
黒川――ロッソがワックスを使っている使い方というのは、ワツクスの完成作品としてつくる場合はこういう形になるんですが、普通は“ロスト・ワックス” という技術のなかでのある一段階、ワンプロセスとしてワックスを使うわけです。おそらく、ロッソが自分の作品を作る上で、そのプロセスのある部分を完成体としたということだと私は思います。
“ワックス・オーバー・プラスター” とよく書かれていますけれども、本当は“プラスター・バックアップ” 、プラスターによってバックアップされたワックスの作品と考えるべきなんです。
ここにある「病気の少年」は、石膏ものにワックスを上から明らかに刷毛塗りをしているものだと思うんですが、それが正確にいえば“ワックス・オーバー・プラスター”なんです。あとは、本当は“プラスター・バックアップ・ワックス” と解釈されるべきですね。それを一様に“ワックス・オーバー・プラスター” と書いてあります。
峯村―― 技法のことは、ワックスのことを含めて後でまた詰めてお話しする機会があるかと思うので、ここまでにします。
それでは松浦さん、お願いします。
松浦―― 峯村さんの最初の質問に答えるかたちになるんですが、ロッソが今日的な意味を持つか、アクチュアリティを持つかということに関しては、ごく端的にいって、一般的な意味ではアクチュアリティを持たないだろう、というのが僕の答えです。
ある意味では非常に特殊な関心があって、それに応えるかたちでロッソというのは非常に大きな意味を持っていると思いますけれども、その特殊な関心というのは何かというと、さっき黒川くんが言った言葉を借りると、“量塊と形象” ということだったわけです。
一つの物体なら物体でいいんですけれども、それの量塊的な全体性と―― 唯一性といってもいいんですが―― もう一方で形象が持たざるを得ない多様性、その二つを彫刻はどうやって同時に持つことができるか。それがある意味では、ロッソにとって非常に重大な課題だったと思うわけです。
ただ、ロッソが具体的に作品を制作していた場面で、それがどういうふうに把握されていたかというのは僕はくわしくはわからないんですが、いま中原さんもおっしゃいましたけれども、たとえばボッチョーニのケースをとってみると、運動しつつある人体としての単一性と、 もう一方で“運動する人体”が一つのイメージとして多様性を持つ。その二つを同時に併せ持つものをつくり出すことが、果たしてできるか。この問いがある意味では非常に具体的な、理論的な課題として出てきたわけです。
そのなかでボッチョーニはボッチョーニなりに、まさしく単一性と多様性という二つの項を備えた作品をつくろうとしているわけです。彼の一連の彫刻作品はこの意図を示していますが、ところが、それをボッチョーニが理論的に詰めていく作業のなかで、何かうまくいかないことが出てくるわけです。
同時に、なぜロッソはそれをやすやすと実現することができたか。そういう意味で、僕にとってはロッソというのは非常に関心のある対象なわけです。
あともう一つ、印象主義とのかかわりで言うと、絵画・彫刻という弁別の問題はあとで戻ることになると思うのですが、たとえば印象派の絵画があの時代に直面した課題は何だったかというと、これもたった一つの問題で、それは画面が一つの全体性、単一性を備えるのに対して筆触というものが一種の多数性として出現する。
そうすると、筆触の多数性と画面の全体的な単一性、その矛盾が前面に出てくる。むしろ、それだけが絵画の主題である、みたいなかたちが出現してくるわけです。そうやって考えてみると、ジャンルとしての彫刻ないし絵画という区別の問題は非常にむずかしいんですが、少なくとも印象派の絵画とロッソが何らかのかたちで共有した問題の所在はそのあたりにあるのではないか。
峯村―― 私自身の動機は二つあります。一つは、日本の美術界の常識では、ロダンが西欧近代彫刻の一番大きな柱になっていて、それはたぶんくずれることはないと思うんですけれども、そのことが私には納得できないということです。ロダンの悪いカストを見過ぎたのか――でも、昔はロダン美術館で、ちゃんとした作品もたくさん見たはずなのですが――ロダンからは身震いを催すほどの感動を受けた経験がほとんどないのです。
ところが、20世紀彫彫刻全体の源とはいえないまでも、非常に意味深いものとして、ロッソなら私の個人的感性に響いてくるものがある。
つい近年のことになりますと、先ほど黒川くんが言いましたように、1970年代というのは、もの派が日本で勝利をおさめた時期ですが、それに対して同調できないところが決定的に残るとすれば、その欠落部分に彫刻への関心、とりわけロッソのような塊り彫刻への関心が芽生えざるを得ないわけですね。べつに、もの派を単純に否定するというわけではないんだけれども、芸術のあり方をさかのぼって見ていこうとすると、ロッソの彫刻のあり方が一つの指標として見えてくるのではないか。
もう一つ本質論の方から言うと、先ほどから何人かの方が言いましたように、“ロッソにおける絵画性”ということを積極的な方向で理解したい願望があります。これは形式的に腑分けした上での絵画と彫刻のうちの絵画的なほうに彼が傾いている、そしてそれを良しとするという意味ではなくて、彼がれっきとした彫刻家でありながら、視覚の働き、あるいは視覚と触覚の両方を束ねて根源的なものに戻っていこうとする姿勢に、考えさせられるものがあるということです。
私自身は1970年代後半の批評活動として“絵画と彫刻の弁別”ということを問題にしてきましたが、最近は弁別だけではなくて、両方の根源にある創造力の母型みたいなものに関心が移行しています。ですから、これからの美術を考える上でも、絵画と彫刻の両方が枝分かれする前の状態―― それが本当にあったのかどうかは大いに疑間ですが、しかし、求めることはできる―― を指し示しているようなロッソのまなざしに、私は非常に関心があり、それは今日の、あるいはこれからのテーマになるのではないかと感じております。
それで、ちょうどいま発言が一回りしたものですから、ロッソとロダンの違いという問題に戻ってみようと思います。それから、ロッソが印象主義者といわれるときの印象主義とはどういう意味のものなのかというところから、あとで光の問題などに入っていき、そして先ほど来問題になっている、ロッソにおける視覚の優位という問題に入っていければと思います。
まず堀内さんにお聞きしましょう。“ロダンとロッソ”と考えた場合には、どんなふうに見えてきますか。 堀内 ―― ロダンとロッソは非常に似ていますね。僕なんかは若いときには、マイヨールのようなああいうコロンとした形になっているほうが、彫刻の本道じゃないかと思っていましたね。こういう脈打つような形とか流動的だとかいうのは、僕は嫌いだったな。コロンとしているのが彫刻だと思っていました。
峯村―― 私自身はロッソは好きで、ロダンは好きじゃないんですけれども、マイヨールはすごく好きなんです。私のなかで分裂しているんですけれども、いま堀内さんに「ロダンとロッソは似ている」と簡単に裁断されちゃったんですが、中原さんはどうでしょう。
中原―― う―ん。まあ、似ているところもあるでしょうね。
いまテーマとしては、ロダンとロッソの似ているところと違いを取り上げているわけですか。
峯村―― ええ。というのは、そのあと、20世紀の初めに出てくる“構成”という考え方は、明らかにロダンのなかにはっきり芽があるように思う。ところが、他方ロッソについては、そういう“構成”という考え方の芽を求めることはできないのではないか。やっぱり、そこのところでもかなり大きく違うのではないかという気がするんです。
黒川―― 構成というのは、どういう意味で……。
峯村―― 中にある空間を構成していく一つの基本的な原理ですね。
黒川―― ロッソの場合、たとえば「庭園の会話」とか、ああいう作品は構成ではないということですか。
峯村―― 構成ではないと言い切ると、ちょっと語弊がありますが、単純化していえば、ロダンでいえば、手があり、足があり、頭があり……つまり、物の存在を幾つかのパートに分けることができて、そのパートをどのようにしてきちっと全体に組み合わせていくかというところに、彫刻の大きな働きがあるということでね。
ロッソの場合には初めから、そういうふうにパートとして見るということを拒絶してるところがあるように思うんです。
黒川―― たとえばロッソ・ロダン論争という現象があったわけですけれども、この場合にはロッソの側からロダンに対して、おまえのつくった「バルザック」は、おれのつくった「庭園の会話」とか「ブックメーカー(かけ屋)」とか「リーディングマン(新聞を読む人)」とかの作品のコンセプトを盗んだんじゃないかという告発が、実際に起きるわけですね。
だけど、僕はそれはある意味で正当だとは思うんですけれども、やはり「バルザック」とロッソの作品の間には根本的に違いがあると思うわけです。「バルザック」の習作はもちろん幾つもあるわけですが、それは完全にヌードの習作で、それに後にガウンを着せるわけです。
その習作というのは、人体が有機的に一つの自己完結的な構造を持って自立するという、人体彫刻のアカデミズムをも含んで、少なくともロダンにまでは脈々と流れていたポンデラシオンの伝統に、完全に忠実です。表面の波打つ効果というのは、ある視覚的な効果性というか、モデリングのかなり荒々しいタッチがそのポンデラシオンと矛盾せずに、ポンデラシオンをより活性化するような肉付けとして、彼は“プラン”ということを言っていると思うんです。
その“プラン”という考え方は、ロッソには初めからないですね。そうした内部構造への忠実な追求というのは、初めからロッソにはないと僕は思います。もちろん、初期の作品の幾つかを除いて、主要な作品に関していえば、明らかに違うと思います。ロッソ・ロダン論争に引きつけていえば、ロッソからの告発はある意味で正当だけれども、それに対してロダンは本当の意味でロッソを盗み得なかったと、むしろ僕は思うんです。
峯村―― それは、黒川くんが一方的にロッソの側に立つから、“盗む”という言い方になるので(笑)、このへんは単純に“参考にした”でもいいわけですね。参考にしても、やっぱりロダンにはロダンの一つの骨があるから、そっちのほうへ引きずったといってもいいわけでしょう。
黒川―― ブランクーシが後に「20世紀の彫刻をつくったのは、偉大なロダンだ」みたいなことをおせじで言っていますけれども、決してそんなわけじゃないんですね。実際に20世紀の彫刻をつくったのはロッソであるということを、僕は強く感じます。
より大きな違いというのは、モニュメントに対する決定的な差異が両者のなかにあると思うんです。それ自体、非常に錯綜しているというか……。ロダン自体がモニュメントをつくって、それが非常な錯誤を生む。結局、彼のモニュメントは社会的に受け入れられないわけですね。「カレーの市民」でも「バルザック」でもみんなそうだけれども、モニュメントとしては役に立たず、美術館に入るわけでしょう。既にモニュメント自体が、19世紀に破産していくわけですね。
ロッソは初めから、出てきたときからそういった錯誤と無縁に登場してくる。彼のモニユメンタルなものに対する嫌悪は一貫していますね。それは、若いとき兵役でいろいろなところで見たミケランジェロのモニュメンタルな作品に対して、ものすごく嫌悪の言葉を吐くとかいうところに端的に現れている。そしてつくっていく作品は、そういった意味での社会的モニュメントと全く無縁である。これはロッソの決定的に重要なことだと思うんです。
峯村―― そうですね。19世紀の終わりというのは、彫刻家はモニュメントに携わらないと食えないということもありましたし、特にイタリアやフランスのようなところで愛国主義が非常に強くなっていたとか、そのほかにいろんなことがあつて、モニュメントヘの強い動きがあったわけですね。そのなかで、これだけ“モニュメント” という考え方を徹底的に拒絶し尽くしたというのは、すごいと思うんです。
その前にもう一度、中原さんにぜひ聞きたいんですけれども……。
中原―― さっきのロッソ・ロダンの問題ですが、ロダンの作品も時代によって多少変わってきているので、一概には言えないと思うけれども、ただ峯村くんの言った“構成” ということを非常に広く解釈すれば、確かにロダンには“構成” という考え方があったと思います。
たとえば 「カレーの市民」は―― 今度たまたま、静岡の県立美術館が買いましたが―― 6体ですが、しかし、あれはバラバラにつくってあるんですね。それぞれポーズをとって、最後にアレンジして、全体として一つの作品にしたわけで。
ああいう発想は、ロッソには皆無であったと思うんです。初期の「乗り合いバスの会話」も、バラバラに人をつくって、それを組み合わせて一つにするという発想をあの人は全然とっていませんから、そういう点では基本的にロッソとロダンは違っているといっていいということが一つあると思います。
それから、先ほど黒川くんが「ブランクーシがロダンにゴマをすった」と言いましたが、芸術家の弁護をする必要は全くないし、僕はブランクーシを弁護する義理もないけれども、実はブランクーシもミケランジェロが大嫌いだったわけです。なぜ、ロダンを持ち上げたかというと、ミケランジェロのようなおどろおどろしい、ばかでっかいものをつくらなくなったという点で、ロダンを評価したわけです。
峯村―― 私がこの問題をしつこく考えたがるのは、黒川くんが先ほど「ロッソこそ20世紀彫刻の始祖」と言ったことに同感というか……、ロダンから構成主義を経てくる一連の立体芸術の展開に、ずっと不信の念を持っているからなんです。
客観的に見ますと、20世紀の造形の大きな流れとしては、世紀の初めに出てきた“構成” という考え方のほうに、量的には圧倒的に多くの芸術家のエネルギーが注がれたというのは、これは否定し得ないことですね。それはその時点だけで終わったわけではなくて、そのあともずっとつながっている。今日でも、現れ方は非常に違ってきてはいるんですけれども、さまざまな局面にその考え方が及んでいるわけです。
特に、先ほど黒川くんが主張したように、70年代ぐらいをとってみると、ロッソ的なるものは圧倒的に無視されている。本当はもっともっと長い無視の歴史があったわけですから、よけいパルチザン的に彼を擁護したい気持ちになるのはよくわかります。
ただその前に、ロダンはロッソとくっきり違うものを持っていたということを確認することは必要じゃないかと思う。ロッソはなかなか理解されないけれども、ロダンは非常に多面的な世界で了解された。それには理由があると思うんです。
中原―― これは私の記憶が不確かなので、間違っているかもしれないけれども、20世紀彫刻のとっぱなにロダンでなくロッソを置いたのは、ハーバード・リードだと思うんです。 リードの『近代彫刻史』は――ちゃんと断ってあるけれども―― ロダンは持ってこないと。確か、ロッソは近代彫刻あるいは20世紀彫刻の先駆者という具合に、彼は位置づけたと思う。そういう見方もなくはないということが一つと、もう一つは、先ほど松浦さんの発言で印象派絵画について“一元化” と……。私も印象派絵画についてその“一元化”という言い方は全く同感ですが、ロッソの彫刻をもし彫刻と考えると、立体作品において一元的に対象をとらえるというのは、これはやっぱり限界があると思うんです。ボッチョーニはそこのところを非常に高く評価して、「未来派彫刻技法宣言」を送ったりしたわけです。
つまり、三次元の対象というのはどうやっても量塊性が残っていくものですから、たとえば顔があって、顔の周りに空気がある。印象派の絵画の場合には、その空気は何らかのかたちで一元化のなかに取り入れられますが、彫刻というのは物質としてそこのところは不可能じゃないかという感じがするんです。
だから、このロッソの考え方をさらに拡大、あるいは拡張、あるいはそこから何かを引きずり出して彫刻をつくるということは、僕はやはり限界があると思います。だから、例外的な仕事としてロッソの作品は確かにユニークですけれども、一元化という印象派の絵画あるいは印象派の理念との関連でいくと、これ以上、これ以外どうにもならないという壁がやはり出てくるんじゃないか。
黒川―― ロッソが若いときに読んだと言われている、ボードレールが1846年の『サロン評』の「なぜ彫刻が退屈であるか」という文章のなかに出てくる図式があります。これはダ・ヴィンチも言っていることだし、パラゴーネ(芸術比較論)といいますか、歴史的に絵画と彫刻を比較するときに、“絵画の優越性”ということを常に言う人たちが引っ張り出す論点なんですが、「ワンポイントオブヴュー」とか「視覚の専制」とかボードレールは言っていますけれども、これらのことがいまおっしゃられている“一元化”ですか。
中原―― いやいや、印象派の絵画ですよね。
黒川―― “視覚の一元化”ということですか。
中原―― いや、視覚じゃなくて、表現形式の上に……。つまり、印象派の絵画とそれ以外の絵画を仮に対比させるとすれば、たとえば風景なら風景にいろんなものが混在していて、木があって、建物があって、水があって、空がある。これは質が違うわけですね。その質というものをあるところで無視するというか、できるだけその質的な違いを落とさないと、一元化というのは起きてこないので、彫刻の場合にはそれが可能かどうかということなんです。
上村―― 美術館で解説するときには、非常にわかりやすくというか……。わかりやすく話すことは大変むずかしいんですが、「病める子」を解説するときは、あの作品は後ろに絶対に回らないように、ここでバシッと止まって真っ正面から見るようにつくってあると。
ところが、頭が持っているあのマッスというのは、非常に力強いものですね。それで、これは黒川さんにお聞きしたいんですが、ロッソは後年、「病める子」あたりはマッスがあり過ぎると言っている。これは突き詰めていきますと、全くスクリーンに映し出されたイメージ、映像でないと、彫刻という……。そうすると、これはスクリーンに映し出されたマッスが、果たして彫刻といえるかどうかということになりますね。そういう意味で、ロッソというのは壁にぶち当たったんじゃないかなと思うんです。至極簡単に言ってしまいましたけれども。
黒川―― さっきも中原さんが、ロッソは壁にぶち当たった、例外的作品としてロッソはユニークなだけだとおっしゃった。確かに、ボードレールの『サロン評』のある一節からインパクトを受けて、“視覚と触覚の一致”ということを彼は目指そうとして、レリーフ状の作品をつくり出すわけですね。
ところが、その結果、ある葛藤が当然生じているわけで、その葛藤の作品として、彼の作品には当然意味があるわけです。それはまさに葛藤として意味があるのであって、その葛藤は壁にぶち当たることによって生じた葛藤なわけで、それは限界でも何でもないし、ユニークでロッソだけなんだという問題では決してないと思うんです。
実際に彼の「庭園の会話」という作品に関していえば、あれは全く彫刻の積極性を見せた作品、周りから見ることによって生じる彫刻の特性を生かした作品だと思います。
また、彼には正面からだけつくるレリーフ状の作品で、裏がない作品も実際にあるんですけれども、そうじゃなくて、裏のある作品もあるわけです。そのときに、彼はそれで裏をつくらなかったのかといえば、そうじゃなくて、実際に彼は裏をつくっていると思います。その問題はなかなかむずかしい問題ですけれども決して表面だけをつくってそれでいいということであの裏をつくっているわけじゃなくて、ある意識が働いて、その意識で完全に統括されているというか、意識的にああいう裏をつくっていると思います。
峯村―― 誰かがロッソを擁護し、誰かが「行き詰まりだ」ということだけですと、本当にこの全体の議論が行き詰まるので(笑)、そこから重要な問題にちょっと論点をずらしていきたいと思います。
いまのお二方のお話でも確認されているんですが、ロッソは自分の彫刻の問題を視覚的に了解していこうとした、つまり、ボードレールが指摘したように、幾つかの視点がとれるような、周りをグルグル回って見るためにどのようにも見えてしまって、絶対的なフォルムがとれない彫刻芸術というのは非常にむずかしい芸術であるということに対して、ロッソがそれに答えるように、視点を一つに固定できるような彫刻を考えるというところで、彼は著しく絵画的な方法に接近するわけですね。
しかし、その問題を僕はもうちょっと前に進めてみたいんです。ロッソの印象主義がどういうものであるかを議論することで、多くのことが明らかになると思うんです。つまり、ロッソがやろうとしたこと、ロッソが考えていたこと、それから彼の足を引っ張っていた時代的な背景や、若いときから受けた一種のヒューマニズムみたいなものとか、様々なものがあって、いま黒川くんが言ったような、比較的初期に属する「庭園の会話」のような仕事が、あと、そのままのかたちで展開しているとは思えないわけです。
「庭園の会話」がすばらしいということは私も全く同感で、あそこからもっといろんなものが発展できたかもしれないとは考えるんですが、しかし実際にはそのあと、あの作品で提示されたものがおもしろい方向に発展したとは、僕は思っていないわけです。
黒川―― 「庭園の会話」は初期というよりも……。
峯村―― 初期ではないですけれども、決して晩期ではないですね。
黒川―― 晩期ではもちろんないですが、彼がある時期レリーフ状の作品を葛藤のなかでつくり続けたある結論として、そこに出現した丸彫りの彫刻だと私は思うんです。展開がそれで止まって、それだけが例外的なんじゃないと思います。それは「リーデイングマン」とか「ブックメーカー」というた作品に発展していきますし、さらに「この子を見よ」といったものに展開していったんじゃないかと思います。
峯村―― それはわかるんですけど、ただ、彼の一代をもってしては、印象主義的な時代のなかに育って、彼のなかに兆した非常にユニークな、非常に新しい芸術観・造形観は十分には展開できなかったのではないかという気がするんです。
なぜそういうことを言うかというと、彼が「すべては光の関数」であると極端な言い方をするときに、それはそのあとの世代にとっては途方もない新しいことを言っているわけですね。「庭園の会話」などを見ていますと、彼の言っていることがかなりそのままストレートに了解できるんだけれども、その後の作品すべてについてそれが妥当しているようには思えない。それ以外のさまざまな要素を彼が持っていて、われわれにストレートには伝わらないようなところがあると思うんです。中原さんは「彼はどうも特殊なところで行き詰まったのではないか」と言うんですが、ロッソが欲望したもの、ロッソが願望として持っていて、「庭園の会話」で既にかなり実現できたものさえも、果たして行き詰まったと言えるかどうか。あるいは、そのなかに含まれていた可能性はいったい何であったかということを、ちょっと議論してみたいと思うんです。
まず印象派との関係、それから後の未来派の人たちがそこから何らかの教訓を引き出そうとしたという観点もあるので、松浦くんにこの問題を聞いてみたいとおもいます。
松浦―― すごくむずかしい問題なんですが、ごく端的に言うと、僕は「庭園の会議」の時期から晩年の作品までかなりー貫していると思うんです。
それで「庭園の会議」については、一種の環境そのものを彫刻のなかに取り込むとか、そういう視点で語られてきたわけですが、視点の問題ということもあるんですけれども、ロッソの場合、僕は“出現性” ということへの関心が非常に強かったと思います。ある意味では量塊性を否応なく持つんだけれども、出現性という力によって、できれば量塊性を破壊し尽くしたいという願望を、少なくともロッソは持っていたと思います。
すべてが光の関数に還元されるというのもそういう事態を意味します。ある意味では彫刻は量塊性をその必要条件として持たざるを得ないんだけれども、作品としては物体に依存して制作を始めるんだけれども、そこから自分の出発の基盤であった量塊性を解体するということを、願望として持っていたのではないか。あと、印象主義の問題もいろいろあると思いますが、僕自身が個人的になぜ印象主義に関心があるかというと、ある意味では印象主義というのは、最初にたてたプログラムをダメにしてしまうというか、崩壊させてしまうというか、そういったところにおもしろさがあると思うわけです。
つまり、刻一刻と光を描くといった、そういった最初のプログラムがある。それは非常にレアリスト的なプログラムなんだけれども、ところが、具体的な場面で問題になってきたのは何かというと、一つ一つの筆触が画面を覆っていくなかで画面、物体の全体性が把握しきれないという段階に印象主義の画家たちは直面したんじゃないか。それが、ロッソと印象主義の作業とが、共有したことではないかというのが、さっき言ったことです。
あともう一つ言うと、20世紀の場面で“構成” という問題が一方で出てくるとすると、もう一方で“出現性” に依存する傾向があると思います。ただ、出現性という方向に力点を置かれた作家というのは、多くの場合、さっき黒川くんが言った“量塊と形象” ――― “筆触と画面”と言ってもいいけれども―――という矛盾をむしろ、無化するかたちで制作しようとしているような気がします。
イヴ・クラインなどがその一例だと思います。
余談ですけれども、イヴ・クラインが空を飛ぶ鳥がいやだったのは、空の全体性を鳥の航跡が乱すからなんですね。
もう一つつけ加えておくと、ハーバード・リードがロッソに言及したというのは、わかるような気がします。一つは『イコンとイデア』というリードの本でも示されていることだと思いますが、さっき黒川くんが言った“視触覚”というか、“目に与えられる触覚性”という概念が19世紀の終わりごろから、美術史家だけではなくて造形作家の間でも用いられているわけです。“触覚性”というと、どうしても物の持っている属性というかたちで考えられるわけですが、それが視覚の上で何らかの触覚的な作用が与えられるという概念が、少なからず美術作家ないし美術史家、特にウィーンの美術史家によって、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて形成されたわけです。ロッソとこの視触覚という概念はどこかに結びつくという気がします。
あまり答えていないんですが……。
峯村―― いや、僕が聞きたかったことをバッチリ言ってもらったので、大変ありがたいと思います。
つまり、いまのお話のなかで非常にいい対比を出していただいたのは、20世紀の初めに“構成”という考え方が強く出てきて、それが今日にまで及んでいるわけですが、もう一つ“出現性”という言葉を松浦くんは使って、その“出現性”ということと印象主義の問題もひっくるめて理解されているわけです。私もこれは大変重要な論点だと思うんですが、このことになると結局、19世紀の終わりごろの精神的な風土が全体としてかかわってくるように思います。
ロッソがフランスに行った当時は印象主義ですね。しかし、印象主義でも新印象主義の分割主義。これはスーラの一種の精神主義とくっついていますが、これがイタリアに入ってくると、イタリア分割主義になる。イタリア分割主義というのは実に強烈に精神主義的、あるいは時にはほとんど神秘主義に接近する。プレヴオアーティとかセガンティーニとか、お隣のスイスヘ行けばホドラー、ああいうところにかなり強固な団塊がある。つまり、印象主義でもって、科学的なまでに実証主義的な事物の存在の光への解体ということが出てきたんだけれども、それをもう一度、精神の問題としてからめ取っていく動きが出てきた。それがイタリアだと分割主義を通って、初期の少なくともバッラやボッチョーニなんかの未来派にも及んでいる。
ロッソというのは、セガンティーニと世代的にほとんど同じですね。ただ、ロッソは最初ちょっと絵を描いていて、ブレラ美術学院で彫刻をやろうとしたのは、もう20代の終わりぐらいですかね。だから、少しずれているようだけれども、呼吸していた時代はそういうものだったのではないか。
上村さん、それはイタリアのほうではどうでしょうか。
上村―― 確か、パリの万博のとき、セガンティーニの作品とロッソの作品が一緒に並べられましたね。それで、いまの峯村さんのあれは、それこそ想像たくましくというか、非常に考えたいテーマなんですけれども、ただ未来派なんかも、“機械と神秘思想”という関連はなかなかおもしろいことだと思うんです。たとえば電球の光とか何かが、ある意味では神なる光ということと重なる。ロッソ自身が「病める子」をサンジョヴァンニーノすなわち少年聖ヨハネと呼んでいたりすることも、非常に食指をそそらせるテーマですね。
もう一つ、彼は自分の作品を写真に撮って、こういう見方しかできないんだという。その写真は――心霊写真といっちゃおかしいけれども――まさしくイメ-ジがポーッと浮かび上がってきていて、それは神秘思想との兼ね合いを非常にうかがわせるかと思うんですが、そう結びつけたいんですが、いまの私の知識ではちょっと材料がないので、そこでとどめさせていただきます。申し訳ございません。
峯村――そうなると、あまりはっきりした証言がないみたいですけれども、でも、さっき松浦くんが言った“出現性”というのは、作品がある実在性を持って見えてくることが、物体としての実在性じゃなくて、これは印象主義からのあれですが、結局様々な光粒子……。
上村―― 一点言わせていただきますと、さっき「庭園の会話」のことが出ていましたが、破壊された作品なので出ていませんが、「パリの大通り」は等身大の人物を石膏像で表して、部屋に置いた。あれはどうやって意図されて、どういうふうに見られていたのか。あれはパリのご婦人方が散歩している風景だというけれども、天使が羽を広げて飛び回らているような印象も受けますね。
私は問題提起しかできませんが、そこのところは黒川さんはどういうふうに思っているのか、聞かせていただきたいんですけれども。
黒川――「パリの大通り」という作品は、大砲の砲弾で壊れてしまって現存していないということなので、私も写真でしか知らないんです。それも、たった一枚しか残っていないのか、どの本にも同じ写真が出ている。
確かにおっしゃるように、天使が羽を広げて飛び回っているように見えるんですが、僕はロッソは神秘思想との関連をとりわけ強調して述べるべきではないと思います。それは、彼の作品はむしろプラグマティックにできているのではないかと感じるからなんです。何か神秘思想があって、それを単に具体化しただけの作品とは、決して思えない。アクチュアリティと神秘的なリアルな思想というんですか、アクチュアルなものとリアルなものがうまいバランスをとっているからこそ、この作品がある。単に、神秘思想のリアルなものだけに埋没していくんだったらば、彼はこうした物体として現実に存在するものをつくる必要はなかったんじゃないかと思うんです。
ただ、彼にとって神秘思想という点で、より神秘思想自体よりも重要なのは、彼は彫刻をつくる上で当然直面した“光”という問題を、彼は固有の形而上学的なある姿勢をもって、作品の上に実現した。彼は光についていろんな言葉で言っているけれども、何よりも作品としてその光の思想を実現した。しかも、それはこれまでに彫刻がおそらく忘れていたもの、彼が嫌悪したミケランジェロにはあったんだけれども、その後長い問なくなっていた光の思想だと思います。
そして、それは決して可視的な意味での光ではないということに注意すべきだと思います。単なる光の可視性ではなくて、むしろ光を光たらしめている何かなんだ。その何かが彼にとっては決定的に問題であって、それはおそらく彼と印象主義を明らかに分かつている何かだと思います。
峯村―― だから、それが神秘主義になるわけでしょう。
黒川―― いや、そうじゃないんです。神秘主義というのは、リアルなものだけに埋没すれば、それで事足りると思います。現実にアクチュアルな物体として表現すべき事柄は、神秘主義ではなくて、アクチュアルなものとしてリアルなものを実現することというのは、プラグマティックな問題です。
これをこのようにつくるとは一体どういうことなのかという問題はすべて、素材と作家との……。
峯村―― だから、それは彼が芸術家としてちゃんと物質的な与件を見失わなかったということで理解できることでしよう。だけど、あなたの説明でいったら、思想的には歴然と神秘主義ですね。
僕はべつにそれが悪いと言っているのではなくて、問題は、19世紀のまさに後半そのままを生き抜いた感じの彼が、神秘主義と通底する思想的な基盤を大きく持っていながら、だけど、それはそういうふうに理解しなくても、別様に理解してもいいような……。僕は、神秘思想を抜いた――さっき松浦くんが言った――“出現性”という言葉を使ってみたいんです。
出現性というのは要するにヴィジョンの問題で、ヴィジョンというのは何もヨハネの首がポッと浮いてくるような出現と考えなくてもいい。我々の体験する知覚のなかで、物事が輪郭づけられたある物体としてだけ見えるのではなくて、もっとさまざまな混沌とした体験、物質と光と物体が混融したような状態のなかから、ある決定的なヴィジョンが見えてくるモーメントを求めるというふうに理解すれば、これはべつに神秘主義ということで理解しなくてもいいような出現性の問題だろうと、僕は思うんです。それはどうでしょうか。
松浦―― さっきの上村くんの「心霊写真」という言葉を、僕は非常におもしろく思いました。時代的にいえば、『シャーロック・ホームズ』のコナン・ドイルが心霊写真にとりつかれていた時代でもあります(笑)、それはともかくとして、彫刻家が自分の制作理念の理想状態を写真のなかに見いだすという現象は、かなりあると思います。ある意味ではブランクーシもそうだったと思います。シュルレアリスムの時代になると、シュルレアリスムのオブジェがその理想的な状態を見いだすのは、やっぱり写真のなかだと思うんです。
ある時期から――19世紀の終わりぐらいからなのかもしれませんが、“光”という言葉が出てくるのは、いま黒川くんが言ったとおり、具体的な光がどうのこうのというレベルの問題ではなくて一種の非物質性の徴みたいなかたちで“光”という言葉が使われたのではないかと思います。
キュビスムの時代でも、アポリネールなどは“非物質性”ということを、さんざん言っているわけです。
考えてみたらスーラたちの新印象主義のプログラムにしても、画面の点というのは存在しないに越したことはないけれども、ところが、それこそきわめてプラグマティックな作品である以上、存在せざるを得ないわけです。だけど、筆触が融合する場所はどこかというと、それは絵画の画面の上ではなくて、網膜の上である。
そのへんに非常に論理的に解決しにくいアポリアがあったわけです。それは何かというと、絵画なり彫刻なりは何らかのかたちで物質的な与件を、自分の存在条件、必要条件として持っているんだけれども、ところが、プラグマティックな絵画の作業とか彫刻の作業は何かというと、むしろその与件をいかに崩壊させるか、その点にあったのではないかという気がします。
スーラの場合、僕は作品として非常に成功している作品は論理的にはデッサンだと思うんです。なぜかというと、紙の粒子に本炭を押しつける。つまり、紙の粒子に依存することができたから、色斑を極小にすることができたわけです。ところが、スーラは自分が完成したと見なしている作品は非常に少ないと思います。その完成作品というのは、ほとんどが巨大な画面を備える。
なぜかというと、これは非常に簡単なわけです。筆触というのはゼロにできないから、物理的な大きさを持つわけですけれども、画面を大きくすれば、筆触の大きさは相対的に小さく切り詰めることができます。
そういった意味で、何らかのかたちで絵画なり彫刻なりが存立の与件としての量塊性とか物質性を維持しているんだけれども、その目指すところはむしろ、いかに自分の出発点であった与件、物理的な条件を克服するか、破壊するか、そこにあったような気がするわけです。
中原―― いまのにちょっと関連して……。
峯村―― 中原さん、それとブランクーシのこともあるので、ついでに写真の件もお願いします。
中原―― ブランクーシも写真好きで、下手でも何でも、自分の作品は自分でアングルを決めて写真を撮って、この位置から見るのが一番望ましいということを言っている。
そのこともあるんですが、いま松浦さんがスーラのデッサンのことに触れられたので……。ここまで言うと、もう身もふたもないので、きょうは言うまいかどうしようかと思ったんですが、私はロッソの彫刻よりもデッサンのほうがはるかに興味があるんです。ロッソのデッサンも淡彩で、シルエットみたいにポーッとして、輪郭をあまりはっきり出さない。スーラとは違うんだけれども、幾分共通しているような感じのデッサンである。
だから最初に、デッサンのほうだったらば壁はなかったかもしれないけれども、彫刻の場合はどうしても壁が出てきたんじゃないかと。
写真については、これはむしろ僕に定見があるのではなくて、ブランクーシもそうですが、ロッソのような彫刻家があそこまで写真に関心を持ったというのは、一体どういうことなのか。つまり、個人の好みの問題じゃなくて、こういう作品をつくっているロッソの感性と、写真というものが非常に切り離し難いものがある。
だから、ただモノだけを取り出してどうこう言うのもあれですけれども、これは晩年ですが、写真にあれだけ関心を持ったロッソの彫刻と、そういう見方もできるんじゃないか。
峯村―― 写真から逆照するロッソですね。写真に彼があれほど執着したのは、ずいぶんいろんな要素があると思いますが、非常に形而下的なことから言いますと、自分の作品に対して、物質としての永続性についての疑いがあったんじゃないか。物質的に永続性がないというのは、否定的なこととぃうよりも、むしろ、人間の芸術作品の享受の仕方、体験の仕方には物質に最終的に全部を委ねるわけにいかないところがあるということですね。それは結局、彼の作品観になるだろうと思います。
彫刻をやっている人の立場からすると、たとえば黒川くんなら初めからブロンズで、そう簡単に崩壊できないようなものをやっていますが、堀内さんは石膏でおつくりになっている。いまはブロンズでもいろいろやっていらしゃいますが、昔は石膏でやっていて、僕らは石膏のままで見ることが多いわけですね。
そういうものをおつくりになったときの感じからいうと、どうでしょうか。ロッソは写真にこれだけ撮っているわけですが、堀内さんにもそんなところはありますか。
堀内―― 僕は全然ないです。写真は全然撮らない。つくりさえすればいいの。
峯村―― 石膏の状態になっているものは、お元気なうちにどうしてもブロンズにはしておきたいとか……。
堀内―― そんなことはない。壊れたら壊れたでいい。つくりさえすればいいの。
峯村―― ダンディズムじゃなくて、本当にそう言えるわけですね。
堀内―― ほんと、紙で形をつくれば、それで僕の仕事は終わるの。あと、人に見せることを考えていないから、彫刻をつくるのはサービスなんです。僕のためにはなんもならないの。
峯村―― それはおもしろい話ですね。
黒川くんはどうでしょうか。初めからブロンズだけでずっと仕事をやってきたのは、根本的には作品のあり方の問題なんでしょうが、やはりそれだけではなくて、保存という考えもあるんですか。
黒川―― 保存は、どっちかというと二の次ですね。学生時代にいろんな素材をカリキュラムのなかでやるわけで、石をやったり木をやったりしたわけですが、自分が見たいと思う形がある時期に予感されて、それが出てくる。その出てくるメディウム、媒体として自分にとってはブロンズが決定的だった。それですね。
作家は自由に素材を選択しているようでいて、決してそうじゃないと思うんです。僕にとっては少なくともそんなに自由に選択したわけじゃなくて、その一つの素材を通してしか出てこないものが自分のなかにあって、もうしょうがなくて、やむを得ず、その素材を使わざるを得ないということがあったわけです。それはロッソと関係ないわけではないと思いますが。
ロッソの場合、最初は粘土で、塑像であくまでつくっていて、それを石膏に直して、その石膏から蠟のヴァージョン、ワックスヴァージョンとかブロンズのヴァージョンをつくっているわけです。おそらく、ロッソにとうては粘土のかたまりのなかから現れてくる形態が、相当重要な意味を持っていたのだろうと僕は推測しますね。
峯村―― そのことで、これは上村くんに開いてみたいんですが、もっとあとの世代になってくると、完成作品の状態としてのテラコッタヘのイタリアの彫刻家の打ち込みというのが出てきますが、あれはどう考えますか。フォンタナもそうだし、もちろんマルティーニもかなりやっている。テラコッタあるいはセラミックも含めて。
上村―― セラミックに関しては私も「20世紀イタリア具象彫刻展」のカタログのなかで疑間を投げかけたんですけれども。ちょうと月並みな話になりますが、エトルリアの彫刻の発見が――ローレンスのエトルリアの旅行の話を出すまでもなく――20年代を境に出ます。それはもちろんファシズムの時代で、過去の古代の文化の営為を探るということで、どんどん発掘が進むわけです。テラコッタで非常にいい文化が出てきた。ローマより以前に、これだけすばらしい作品があった。
そうすると、これは両義的な意味になってきまして、ファシズムというのは口ーマを非常に持ち上げるわけです。ところが、心ある芸術家は「ローマよりもエトルリアのほうがすごいんだ」ということで、アンチ・ファシズムの姿勢を示すわけです。
ローマにヴィッラ・ジュリアという、エトルリアのいい作品が並んでいる博物館がありますが、マルティーニはローマに行ったときはそこにほとんど朝から晩までいたというぐらいに、エトルリアにずいぶん託すものがあった。
そして、これは黒川さんの話に戻ってきますが、マルティーニが何より愛した言葉は、“始源的”、“プリモルディアーレ”。始源的というのは混沌のもの、つまり、 ドロドロしたなかに何かがある。エトルリア人の彫刻は必ずしもギリシャ・ローマ的な典雅なフォルムだけではなくて、ずいぶん感情をあらわにしたものがある。
それに影響を受けたのが、初期のフォンタナだと思うんです。フォンタナの最初の彫刻は人体ですが、それはおどろおどろしい、それこそ神話上の人物ですけれども、とてもギリシャ彫刻的な、つまり、ファシズムの彫刻が推賞するようなフォルムではないわけです。
フォンタナを初め――マルティ―二も一時そうですけれども――なぜ皆、陶器をやったか。これは、そういうことで生活をしていくということとともにもう一つ、陶器という工芸、つまり、おとしめられた分野のなかで自分たちが芸術的な実験ができるのではないかという可能性を探った。
それが結果としては、第二次世界大戦中に陶器に従事した人々が、それも具象的なかたちをとっていたのが、戦後、抽象的な作家としてスタートしていったということに何かあるのではないか。これはあくまでも仮説ですけれども。
峯村―― 大変おもしろいですね。私が去年の秋にイタリアにいるときに、フォンタナがつくって発表する前だかにすぐにコレクションに入ってしまったためにt公開されてなかったキリスト受難の14の場面、ステーションを表したセラミックを、パルマのある画廊で一括して展示していたんです。やっばりすごいものでしたね。20世紀前半のイタリアでの彫刻への取り組み方の非常に大きな、基本的なパッションが凝縮しているような感じがしました。
これから議論を未来派の問題へ移していきたいんですが、未来派でボッチョーニはどうしてそういうことをやりたがらなかったのか、あれはおもしろいと思いますね。未来派の“どんな素材でも使おう”ということのなかに、粘上をこねることは入っていないですね。これはどういうふうに考えたらいいでしょうか。単純に、そんな古い彫刻家の使っていたものはやめようということだったのかどうか。
松浦―― 非常にむずかしい質問ですが、端的に言えば、“プラン”という概念があらかじめあったから、それがそういう試みを禁止したのではないかなという感じがするんです。つまり、プランというレベルから思考を始めたんじゃないか。ボッチョーニの書いた理論的な文章を見ていてもそうですが、ロッソに対して非常に興味を示すと同時に尊敬もしているんだけれども、しかし、決定的にロッソと違ってしまうのは、最初に立てた“プラン”という基本的な構成単位の設定によってロッソから遠ざかっていったのではないかという気持があるんです。
もう一つ、それでボッチョーニがやろうとしたことは、どうしたらロッソ的な出現性を分析的な方向から把握することができるかということで、それはさっきのスーラ的な技法と同じなんですが、プランを極小化することだったのではないか。
峯村―― “プラン”というのは“面”ですね。
松浦―― ええ、 “小さな面”です。
峯村―― ボッチョーニは、自分が目指しているのは、面を総合的に、あるいはシステマティックに開発することと、もう一つは、「振動」だと言っているんです。物質的な振動だと思うんですが、こっちのほうが彼は彫刻においてはなかなかうまくできなかったと思うんですけどね。
松浦―― そうですね。もう一つは、「相互浸透性」ということがよく言われています。
峯村―― そう、「面の相互浸透性」ということを言っている。
松浦―― それは主題的なレベルでは、家の中に馬が入ってくる作品だとか、そういった形象的な次元で、何らかの相互貫入状態というか、面と面が入り組む状態をつくり出そうとしている。
絵画の場合だと、最初に描かれた層と、もう一つその上に描かれた層の間でもつくり出すことができるわけですが、いずれの場合にしても、プランが前提にされているような気がします。
峯村―― 堀内さん、いかがですか。堀内さんは先ほど「マイヨールのほうが、あれが彫刻だという感じを受けていた」とおっしゃっていましたね。それも関係があると思いますけれども、堀内さんの彫刻観ですと、面をどういうふうに把握するかということが一番強くくるわけですか。
堀内―― いまのところはそうですね。
峯村―― グニャグニャしたものじゃなくて。
堀内―― グニャグニャというのはつくらない。簡単にできる形しかつくらない。
峯村―― でも、それはいまというよりもかなり早くから、彫刻を志したときからありましたね。
堀内―― そう。だから、僕はもうずいぶん前から粘土は使いませんよ。石膏は使いますけど。石膏は、塗ったり削ったり、きちんとした形ができる。粘土は流動的な形はつくりやすいけれども、カチッとした形はなにも粘土でつくる必要はないんです。気韻生動とかいって、ロダンのこういうところなんか、こういうふうにやるでしょう。ああいうのには粘土がいいんですね。
峯村―― 面から量塊の裏付けを抜き取ったり、あるいは量塊を超える手段として面の分析とか、そういうふうに見るというのは、基本的には構成主義者たちによって大幅に開発されてきたわけですね。
堀内―― 面といえば、表面は全部面だけれども、きちんとした面とか曲面とか平面とか円筒の面とか、そういう面のほうが形態ははっきり把握しやすいですから、どうしてもそういうことに還元されていく感じですね。
峯村―― そうですね。
中原さん、僕は中原さんの構成主義に対する造詣と狂いに反発して(笑)、彫刻を好きになったところがあるので、あえてもう一度お話を聞きたいんです。70年代に入ってきて「プレイナー・ディメンション」(planar dimension)という展覧会がニューヨークでもされましたが、構成主義的なものが見直されるときには、当然それは面というものをもう一度考えていこうというふうに、絶えず揺り戻しがくるわけですね。
中原さんが構成主義的なものに強く共感を示していったのも、面の分析・総合という手続きのなかに、空間造形の大きな可能性をみたというところがあるわけですか。
中原―― ウーン、一つはありますね。それで、単純な比較はあれですが、いま “プラン”という言葉が出たけれども、ボッチョーニの場合は言ってないですね。構成主義はそこのところを一つ割り切って出しているというので、ある意味では非常に明快で、逆の面からいうと、非常に単純だという見方も可能だとは思います。
それでも、いま峯村くんが言った「プレイナー・ディメンション」で、プランを基本にしてどこまで作品ができるかということで、いろいろな試みがあった。それを戦前に一番集約的に出したとすれば、やはり構成主義でしょうね。
黒川―― 中原さんはさっき「画家のつくる彫刻の問題が重要だ」とおっしゃったと思います。19世紀後半というのはまさにそのとおりで、プロフェッショナルな彫刻家がつくるよりも、画家がつくった彫刻のほうが全然おもしろい。
ドーミエの「ラタポアール」とか、あるいは漫画チックなやつも含めて、また「亡命者たち」というレリーフはすごいものです。
あと、印象派の人たちもドガを初めとして、ずいぶん彫刻をつくり出すわけですが、じや、それに対して彫刻家は本当につまらなかったのかというと、そうじゃなくて、彫刻家というのは19世紀においては“鋼像屋”という側面があまりにも強すぎたんです。
ただ、彼らが試作でつくったマケット、エスキース、たとえば新古典主義のカノーヴァがつくったエスキースは、僕が見てもインパクトが相当あるわけです。彼がつくったナポレオン像とか、当時の国家主義的な意識の発揚をねらったモニュメントよりも、彼がたくさん残した小さなマケットのほうがよっぽどすばらしい。カルポーにしたって、彼のマケットはオペラ座につくった彫刻よりもすばらしいと僕は思う。
彼らが社会的な銅像屋としての仕事を離れてプライベートにつくれるものは、そうしたものしかなかったわけです。
そこにおいて、そうしたものを見ずに「画家の彫刻がおもしろい」といつても全然話にならないし、それを踏まえた上で、中原さんが「画家の彫刻がすばらしいんだ」というんだったら……。
中原―― いやいや、僕は画家の彫刻がすばらしいと言っているんじゃなくて、画家の彫刻は彫刻家の彫刻と違うと言っているんです。
それと、マケットでもエスキースでもいいんですが、いま、そういう目で見れるわけで、銅像屋の時代にはそういうものは作品じゃなかったわけですよ。
峯村―― それはちょっと極論ではないですか(笑)。
中原―― つまり、社会的にはマケットはやっばリマケット、エスキースはエスキースで、それを彫刻として見るというのは、我々はいまそういうこ目を持つことができるようになったからであって、そういうものをひっくるめて―― 大きさもさまざまだと思うんですが、パブリックなモニュメンタルな銅像だけをもってして、19世紀の彫刻家の仕事を判断してはいけないというのは、一理はありますけれども……。マケットを合めて、彫刻家の仕事を総体としてとらえなきゃいけないというのは、それはいまなら可能でしょうけどね。
峯村―― いまのお話の議論に入るために、もう一度中原さんに食い下がることになりますが、先ほど「ロ ッソは絵画的だ」と言われたけれども、例えばピカソとか構成主義の源流や担い手になった人々は、ほとんど例外なく絵画出身ですね。
これは当然なわけで、彫刻における面の理解というよりも、絵画によって鍛えられた面の理解を立体化する、あるいはそれを分析化していく、つまり、キュビズムなどの作法を通して入っていくというほうが、ごく自然なわけですね。
だから、ピカソとかタトリンとかアンリ・ローランスという人たちはこぞって、キュビスムの洗礼直後に構成的な仕事に入っていく。これは歴然と、絵画的な処方によって足を固めてきたわけですね。
そのように彼らが絵画的な感性をもって彫刻にある突破ロ――私はあまり突破口とは思っていないんですが、歴史的には一つ重要だということで、そうだとすると――を与えたとしますと、逆にロッソなんかは、絵画から下っていって彫刻を開いたんじゃなくて、絵画とかなり通底するところまでさかのぼっていくようなかたちで、絵画と彫刻が混融するような地点を指し示したところがあるのではないかと私には思えるわけです。
ですから、「絵画的だ」という言葉で彼を語っちゃうと、そのへんがまずいのではないかと思うんですが、どうでしょう。
中原―― 僕は峯村くんほどうまい言い方はできないけれども(笑)、“ロッソの彫刻”というのは、これは常識でいいと思うんです。そこで、あえて「絵画的」という言葉を言ったわけで、絵画と彫刻の弁別ができないような地点までさかのぼるという見方も可能かなと思います。
それと関連して、冒頭で絵画云々ということを言ったけれども、いま例に出された、いわゆる構成的な作品をつくっている連中とロッソとを、同じような意味合いで「絵画的」という言葉を僕は使うつもりはありません。
それからソビエトの構成主義のことですが、ロシア・アヴァンギャルドということで、最近非常にクローズアップされていますが、 しかし、革命前あるいは革命後を含めて、やっぱりさまざまな巨大なモニュメントがつくられているわけです。そういうモニュメントは、ロシア・アヴァンギャルドあるいは構成主義と傾向が全く違うので、普通はそこに出てこないけれども、あちこちで革命のためのモニュメントが……。そういうものはだいたい彫刻家がつくっているわけです。
これはかなりデフォルメされたりなにかして、厳格な意味では写実的なものではない。抽象的なものではなかったと思いますが。
しかし、革命前後のロシアあるいはソビエトの彫刻家たちは、モニュメントという性格もあったかと思うけれども、やはり形式的にはある種の限界を経ていないわけで、構成主義を“彫刻”という言葉で論じていいかどうかは一つ大きな問題があると思うけれども、おおざっぱにスリー・ディメンショナルな仕事ということで言ってしまえば、あの画家たちがつくった立体作品のほうが、いろんな意味で彫刻の可能性を開いたという感じがします。
峯村―― 黒川くんはどうですか。
黒川―― 僕は中原さんに全然同意できないんですけれども……。
中原―― きょうは、ロッソ・ロダン論争じゃなくて、中原・黒川論争(笑)。
黒川―― 中原さんがいま称揚されるような構成主義の動きというのは、かなり過渡的で、しかも一時的で、むしろ限界づけられたなかで起こったにすぎないというふうに、私は強く感じますけれどもね。
中原―― その限界というのは、どういうものですか。
黒川―― 彫刻と絵画と言われているものが帰属する一つの歴史的な周期性のなかで――その周期性は何かといわれると困るんですが――たまたま偶発的に起こった。もちろん、その偶発的ななかには社会的な意味があるんですけれども、19世紀にある種の彫刻の危機が訪れて、その一連の事態のなかで起こったと僕は思うわけです。
そこで、彫刻・絵画というジャンルの区分け自体が無意味なものとして、その区分けの有効性がある程度減少はするんですが、そこで実際に彫刻・絵画が無効になったわけではなくて、むしろ彫刻の後退的な周期性のなかで、ある危機としてそれ、すなわち構成主義が生じていると僕は思います。
もう誰に何と言われようと、これは譲らないんです(笑)。
峯村―― いや、それは譲ってもらう必要は毛頭ないんでありましてね(笑)。
ただ、そう頑固になられても困るんだけれども、19世紀の後半というのが全体的によく言われますが、これは各ジャンルを越えて、芸術家という概念が職人的なものではなくて、ある意味では芸術至上主義の風潮と結びついて、芸術家の魂というものが非常に自立したものとして考えられるようになってきたことと関連があると思うんですね。それと逆比例して、それぞれのジャンルが別々のものとして考えられるよりも、むしろ交差したもの、交流したものとして考えるという動きが、19世紀の終わりには非常に強くなった。
それは、現象的にいろいろな表現がジャンルを超えて響き合う時代だったというだけではなくて、一人の芸術家が多くのことを理解できる、考えることができる、それから幾つかの芸術はその壁を超えて照応し合うだけの共通性をもっているという考えが出てきたからだと思います。その動向にはやっぱり根拠があると思うんです。それが何なのか、僕には興味がある。
要するに、たった一人ロッソが絵画と彫刻の両方に共通するところまでさかのぼうろうとしたということではないと思うんですよ。これはもっと時代的な、共有された考え方だったのではないか。上村さん、イタリアなんかはどうですか。
上村―― そのころの時代というのは、まさしく芸術の都といえばパリですからね。そこらへんのことについては、美術評論家のロベルト・ロンギという人が言っていますが、1860年あたりは、フランスの動きと比べて国家統一を遂げたばかりのイタリアはその差50年。それがだんだん縮まっていって、1900年代に20世紀に向かって差がなくなるということなんです。
私はやっぱリイタリア側から見ていきますから、“イタリアのロッソ”というふうに見ていきますけれども、あの人はフランスに帰化しているわけです。最近フランスではとみに19世紀彫刻の見直しがあって、そのなかにやっぱリロッソが入ってきている。
それも、当時のイタリアはミケランジェロの国でありながら、主導権はもうフランスに取られているわけですから、みんなパリに行って、そこで成功して、かつ、戻るにも市場がまだないわけです。そうすると、パリで頑張るしかない。
だから、ロダンの論争のときに――黒川さんはお怒りになるかもしれないけれども――ロッソがかみついているというか、それで何が何でも名前を挙げようとしているふうに感じられるわけです。非常に下卑た見方になりますが。その劣等感がまた、モダンな未来派を生み出してきたと思うんですが、イタリアのなかにまだイタリアのコンテクストができていないときに出ていって、フランスで活躍せざるを得なかった芸術家、その意味では20世紀ではなくて、19世紀の最後の芸術家がロッソなんじゃないかという気がちょっとしています。
峯村―― じゃ、フランスのほうから松浦さんに……。
松浦―― いま上村さんがおっしゃったとおりで、イタリアの場合は世紀末的な現象が20世紀の冒頭に成立するという、逆説的な事態になったと思います。
それと、峯村さんが各ジャンルの共通現象みたいなことをおっしゃいましたが、ある意味では個々の分野は非常に専門化したと思います。それこそ、“純粋芸術”なんていう言葉がはやったとおりで、文学は文学、絵画は絵画という個別の領域における純粋化が一方では非常に推し進められたのに対して、もう一方では――ワーグナーではないけれども――“諸芸術の総合”という概念が出てくるわけです。
そういった“総合”という概念が出てきたり、あるいは問題意識の共有みたいなものが出てくるのは、逆にいうと、個々の領域が非常に専門化したがゆえに、可能になった、少なくとも願望されたのではないかというイメージを僕は持っています。
もう一つ、イタリアのことでいうと、確かにいま上村さんがおっしゃったとおり、未来派というのは、近代化というレベルでの遅れをバネにして、その時代の芸術の首都と見なされていたフランスの美術環境への反逆の構図というふうにもとれるわけです。
ただ、僕が非常に興味を持っているのは、“遅れ”という概念は非常におもしろい概念で、これは何も文化史的なレベルだけの問題ではなくて、その時代の造形的な原理として“遅れ”ということを考える必要があるのではないか。
それはどういうことかというと、たとえば印象派が直面した問題なのですが、もちろんモネのシリーズ、連作という概念が出てくるきっかけにもなったことですが、絵画がレアリストたろうとすると、現実に対してどうしても遅れるというか、絵を描いている間に描いている対象が変わっていってしまうというか……。
現実の移動に対して絵画が遅れていくという認識は、ボードレールあたりにもうすでに出ていると思います。むしろ、この遅れそのものがボードレールの現代性を駆動させているとさえいえます。ボードレールがコンスタンタン・ギースという画家について書いた文章がありますが、ギースという人はとにかく現在を描こうとするわけです。それは一種のオブセッションになるわけですけれども、現在を描こうとすると、現在というのはすぐ過去になってしまう。どうやって遅れないで“いま”をとらえるか、それが一つの制作の場面の具体的な問題として考えられるのではないか。
そうすると、絵画が現実に対して否応なく遅れてしまうという問題が、何らかの形で制作の論理のなかに書き込まれているような気がします。
また、これは別のことですが、アルテ・ポーヴェラなども非常にかかわってくることで、こわれた古代の彫像の腕が残っていたとすると、その腕というのは、そこに存在しない一種の全体性を喚起すると同時に、個別的な物体、単体としての美しさみたいなものがあるという点……。
あるいは先ほどの中原さんと黒川さんとの間で出た、あの当時はマケットとして見てなかったという話とかかわるんですが、たとえばジョットの壁画を見て、「非常に美しいと思う」とか「感動する」とかいうことを言うときに、もう漆喰がはげちゃってポロボロになって、鮮明な色が失われたような状態で見るジョットに、美しさを見いだすというのはどういうことなのか。あと、陶器の問題をおっしゃったのですが、これは20世紀の美術のなかで局所的にだけれども、火や水といった四大元素へのあこがれがテーマとしてかなり頻繁にあらわれているような気がします。
峯村―― たくさんのことを言ってくれたんですが、要約すると、最初は現象に対するわれわれの知覚、あるいは認識の遅れということの積極的な意味をおっしゃった。
後半に言ってくれたのは――これは私も大変興味のあることなんですが、モノの断片、かけら、切り離された部分でしかないものから、逆に全体を心理的あるいは精神的に再構成するという芸術的な感受力のことだろうと思うんです。
しかし、その両方に関係あると思うのですが、前半のことで言いますと、結局、印象派が出てきて、これはすぐそのあと様々な総合主義的な方向を目指す人たちによって、いろんな形で克服されようとしていきますね。
そのこととロッソの位置というのは、当然大きな相関関係がある。ロッソの場合には、フランスの真只中に育っているわけじゃないから、イタリアにいたときから純粋印象派とは違うものを既に持っている。
イタリアの場合でしたらスカピリアトゥーラ、つまり、一種のボヘミアン主義みたいなもの、人道主義と反権威主義と卑近なものに目を向ける目と、同時に人間の生命的なものに対する強い共感から何ぶんかの精神主義、そういうものがミックスしたような蓬髪主義が盛んだった19世紀の半ば前後に、ロッソは育っている。その影響も、最後まで持続するような形で受けている。
それは先ほどの、彼の彫刻は少し発展性がなかったんじゃないかという指摘とも関係があって……。つまり、ロッソのなかには19世紀の後半の――20世紀になると、それが割れていくんだけど――破れる以前のものが一緒になっているという感じがするんです。
片方で、印象主義のほうに完全にそのまま突っ走っていけば、光と対応するというやり方を実証主義的に、とことんまで自分を解体させていくというラディカルな方向に、どんどん走ることもあり得るだろう。
だけど、そこから極端に反動をもって翻ると、ゴーギャンのような“精神による総合”ということで、かなり硬い象徴主義のほうに行くことになる。
ロッソの場合、その両面を含みながら、まだそれが全体として非常に柔らかなベールでくるまれたような形のなかで、自分の一番やりたかったことをやっていたという気がするんです。
それが彼の彫刻にすごい魅力をもたらしていると同時に、時代的にあるところでとどまっているような感じを与えるんですが、中原さん、そこのところはどうですか。
中原―― ウーン。全然別の……。
峯村―― いいですよ。
中原―― 関連があるかないかわからないんですが、これはフランス側からでもイタリア側からでも意見を聞きたいんですが(笑)、ロッソは40代の半ば過ぎにフランス国籍を取りましたね。しかも、ロッソがパリにいるころは、クレマンソーがアトリエを訪ねたりしているし、それから「エクセ・プエール(この子を見よ)」の最初はフランス政府が買ったわけです。
それぐらい、フランス政府として注目していた彫刻家なんだけれども、それ以来フランスというのは、ロッソはフランスの彫刻家だという認識を持っているんでしょうか。イタリアのほうも、「いや、あれはイタリアの彫刻家だ」と思っているんでしょうか。
非常に変なことだけれども、どっちも遠慮しているというか……。だから、ロッソの回顧展の大きなものはフランスではないでしょう。この前、イタリアはミラノでやりましたが、さっき19世紀彫刻の見直しということでうんぬんとあったけれども、フランスはロッソを個人として再評価するとかいう動きがあるのか、それとも全くないのか。
松浦―― ないですね。
中原―― どういうことなんでしょうね。
峯村――私自身、ロッソを最初に少しまとまった数見たのは、70年代の早いころにパリの国立美術館でやった未来派展の関連展示のなかでなんです。もちろん、いま未来派展をやったら、先日のヴェネチアのようにもっと大きなものになるけれども、そのときはそんなに大きなものじゃなかった。でも、けっこうありまして、そういうところには顔を出すんですけれども、ロッソということでは扱われないですね。
中原―― それはイタリアの未来派として出てくるわけでしょう。
峯村―― そうなんです。
上村―― “19世紀のフランス彫刻”というのを見ても、本当につけ足しというか、細々とした系譜の最後にちょっと出ているという……。
黒川―― ただ、最近イタリアに関して日本でやる様々な展覧会がありますが、さっきおっしゃったイタリア百年展でも、箱根でやった「イタリア彫刻全貌」でも、まずロッソを冒頭に持ってきている。イタリアのカタログの文章はものすごく国粋主義的な印象を僕は受けるんですが、必ず冒頭にロッソを持ってきて、かなりのページを割いて書いています。
イタリア人にとっては、ロッソというのは自国の作家であり、しかも、アルトゥーロ・マルティーニから、フォンタナを経て、さらにルチアーノ・ファブロまで至る、そうした流れの最も先端にある重要な作家だという認識がある。最近出たヨーレ・デ・サンナの『ロッソ論』でもそうですね。
また長沢、あるいはトロッタ、ファブロのあの人たちの『アプティコ』という本のなかの認識でも、イタリアの最も重要な作家としてロッソをアルトゥーロ・マルティーニの前に必ず持ってきています。
峯村―― そうですね。それで、私がおもしろいと思うのは、この間の岐阜から始まった展覧会が典型的にそうですが、“具象彫刻”といったときに欠かせないものとして、まずロッソを最初に出してきますね。
それから、そうではなくて、もっと新しい非具象に向かう展開の初めとしても……。つまり、未来派を媒介にして、未来派のなかであれだけ褒めたたえられ、参考にされたということもあって、そっちのほうからもロッソが始祖として出てくる。
そういうロッソの持っている二面性どころか多面性――といったほうがいいと思うけれども――が僕にはとても興味があるんです。19世紀の終わりごろに、非常に矛盾したいろいろな動向があったのが、20世紀になると割れてくる。たとえば実証主義的な現実主義でいくと、つまり徹底的に実在というものを実証的な方法でとらえていこうとすれば、構成主義のほうに行きますし、そうでないほうは、かなり奇妙な精神主義的なほうへ潜るのもありますけれども、しかし、そういうふうに割れてしまうのも、お互いがそれぞれのイデアのなかで反発し合うために、過大になってきているということはあると思うんです。
ところが、ロッソの場合にはまだ両方持っている。その両方持っているというのは、矛盾したものをただ一緒に併存させているというのではなくて、彼の表現自体が両方に分化しかねないようなものを、彼の作品の出現力自体のなかに組み込んでいるような気がするんです。
黒川―― イタリアのアルトゥーロ・マルティーニからフォンタナを経て、そしてデ・サンナなんかがそれまでの彫刻概念とは全く違った彫刻概念をつくり出そうとしたなかの最初に、ロッソが持ってこられているというのが、一番重要なことですね。
ロッソからアルトゥーロ・マルティーニを経た後に、マンズーやグレコ、クロチェッティたちヘ向かう、ああした具象彫刻の展開というかたちでの展開とは別な論点で、デ・サンナや長沢やファブロが再構築しようとしていく彫刻の問題が、僕にとってイタリアの美術のなかで一番興味がある彫刻の問題なんです。
それは、もう既成のジャンルのなかに安住している彫刻とは全く別な新しい彫刻を、彫刻の始源に戻って再定義しよう。しかも、その再定義のきっかけとしてロッソを持ってきているというのは、僕と戸谷がよく話していることとさほど違わないんじゃないかという直感を、むしろ抱くわけです。
峯村―― それが可能なのは、ロッソの個々の作品にいろいろ不満があっても、やっばり彼のなかに強力な統合力といいますか、幾つかの人間の分析的な精神に委ねられてしまいきれないものの存在を、統一したものとして把握していこうという、一生変わらなかった強い態度があるので、絶えずそこに参照したいという願望を持たせるんじゃないかと思うんです。
というのは、いまマルティーニ以下の話が出ましたけれども、私は正直言ってマルティーニ以下はずいぶん違うという感じがするんです。印象からすると、ロッソはほとんど終生、子どもとか病める人とか、そういうものばっかり造形していたけれども、物質の粒子状態のエナジーとして出てくるものへの関心のほうが、むしろ私には強い。だから、どちらかといえばアルテ・ポーヴェラなんかにポーンと飛び離れた類縁を僕は感じるんです。
それでいながら、マルティーニ以下に参照されたというのは、その参照されるだけの強いものがあるんだろうと思うんですがね。
黒川―― 最初に上村さんが、アルトゥーロ・マルティーニからの関心ということをロッソについておっしゃいましたが、精神史としての彫刻の問題があると思うんです。そのときに、その連続性というのは僕はあると思います。マルティーニからは違うと峯村さんはおっしゃいますけれども、おそらくそれが重要なんじゃないかという感じが僕はするわけです。
だからプリモルディアーレ、始源的なもの――上村さんもおっしゃったけれども――が、まさに精神史として構築していくときのマルティーニの概念だと思うんです。
峯村―― ただ、始源性ということだけで言うのならば、ヘンリー・ムーアだってそうですよね。しかし、ヘンリー・ムーアとロッソとでは非常に大きな違いがある。
ロッソのなかには、究極的に形としてとらえていくという姿勢がない。そういう姿勢を彼は拒絶しているところがある。これはまた、元に戻って“非マイヨール的な性格”ということになると思うんですけれども……。
黒川―― それははっきり言って、形態じゃないですね。形態に関する様式上の変化として連続性があるということではなくて、“精神史として”としか言いようのない何かエトスがあるのではないかと僕は思いたいんです。
峯村―― 中原さんはどうですか。20世紀の彫刻全体を見ていたときに、特にロッソに格別の思い入れはないにしても、ロッソといったらば、どんなところにつながりというようなものをいままで感じてきましたか。
中原―― つながりというのは……。
峯村―― べつに直接の人間関係でなくてもいいんですが、ああ、こういう彫刻の出方というのは、やっぱりあのへんが源流になるかなということで、ロッソをいままでに思い浮かべられたことはあるわけですか。
中原―― ないね。
峯村―― 堀内さんの場合も、
堀内―― そういう系譜というのは感じませんね。はっきりとした、どこにつながるという……。
峯村―― ああ、そうですか。嫌いなものでもいいんですよ。俺はああいうものは嫌いなんだけど、でも、あれは元をたどっていくとロッソのへんだったかな、という観察を今までなさったことはなかったですか。
堀内―― あまり感じたことはありませんがね。
峯村―― 上村さんはどうですか。
上村―― いまロッソじゃなくて、マルティーニのところでまた止まったんですけれども、さっきムTアの話も出ましたが、これこそ、中原先生をはじめ皆さんにお聞きしたいのは、エプシュタインという彫刻家がいますね。ヘンリー・ムーアとも関係がある。かつ、ラファエル・マファイがエプシュタインの弟子で、ローマに入ってきて、カブール街のローマ派のメンバーに影響を及ぼしながら、非常に表現主義的な作品をつくっていく。
エプシュタインー人がということじゃなくて、ああいうおどろおどろしい、一見するとインカ、マヤの彫刻を思わせるようなのが、ある程度ヨーロッパに流布した時期があったわけですね。
こういう脈絡も入れておかないと、始源的、彫刻の精神史というふうに……。それは本当に検討に値するものでしょうけれども、イタリア具象彫刻展を見て思ったのは、ロッソとマルティーニの間にいろいろなものが入ってきているんじゃないか。そのなかの一つを解き明かすという意味で、エプシュタインという人が出てくるのではないかという気がするんです。この人はモジリアーニとも関係ありますし。
峯村―― 中原さん、エプシュタインというのはどうですか。ある意味では、未来派的な造形の表現主義と結びついたようなところが強いですね。
中原―― 僕は、基本的にはエプシュタインの作品は嫌いなんです。非常に気持ち悪くて。これは黒川くんの言っていることを批判するわけじゃないけれども、20世紀、特に前半の彫刻に関して、たとえばロッソから始まって、マルティーニ、ファブロまでというイタリアだけで――精神史でも何でもいいけれども――系譜をつくるというのは、やっぱり無理があると思います。
黒川―― 僕は、イタリアに全部日本が参照していくなんていうことは言っていないんです。彼らがやろうとしているような“彫刻の再構築”ということに意味があって、おそらく自分たちもその同時代性のなかにいるだろうということで、引き合いに出したかったんです。なにも彼らの言っている“彫刻の再構築・彫刻の始源性”に参照していこうということで言っているわけじゃないんです。
中原―― それでエプシュタインですが、イギリスの未来派も確かにあることはあるけれども、私はエプシュタインは嫌いだと最初に言っちゃったものだから、言いにくいんだけれども(笑)、削岩機をつくりましたね。どういうわけか、突然変異みたいに実際に削岩機を使って上に鎧みたいなものを乗っけて、結局、削岩機を取っちゃって、上半身しかない。
だけど、べつにそういう考え方で作品をどんどんつくったんじゃなくて、すぐ巨大な……。ブールデルを醜悪にしたような感じですね、団子のかたまりみたいな。それで死ぬまで、だいたいああいう手でやっていた。
エプシュタインは特にアフリカとか、当時の言葉でいえば、未開地域のものもいろいろ影響を受けていると思うんですが、しかし、エプシュタインという彫刻家は、表現主義とか何とかいう一言ではとらえられないところがある。
確かに、交遊範囲は非常に広い。モジリアーニともブランクーシとも親しかったし、その交遊を通して有形・無形のいろいろな影響を与えている人だと思う。だけど、私は影響を受ける立場じゃないものだから(笑)、肝腎の作品はちょっと……。
峯村―― 僕自身もエプシュタインには全く興味がないんですが、ただ比較的近いところにいた人でアンリ・ゴーディエ=ブルゼスカ、あの人の作品は、当時の生気論的な表現主義とその時代特有の機械への関心が結びついている。だけど、エプシュタインの場合には機械と生気論的なヴァイタリティが分裂した形でひっついているというところが、醜悪ですね。ゴーディエ=ブルゼスカというのはすごい手腕で、彼の彫刻は実に見事に一体性を持っている。彼はフランス人なんだけれども、あれはイタリアとかフランスとはちょっと違ったものを突きつけてきていますね。
中原―― ただ、わりに若くして死んじゃったから、作品の影響力はあれだけれども、僕はエプシュタイに比べればブルゼスカのほうが数段上だと思う。
峯村―― そうですね。
それで、蠟がどういう意味を持っていたかという問題はどうですか。
黒川―― 蠟を彫刻の素材にするというのは、ギリシャからずっとやられていますので、べつにロッソが蠟を使った最初の人というわけではないですね。ギリシャでブロンズを鋳造するときに、やはりロスト・ワックスという方法でやっていますし。
峯村―― いや、そうじゃなくて、あくまでも最終段階で。
黒川―― ミケランジェロなんかは、ワックスが残っていますが、ただ、それはマケットとしてだけなんです。 蠟で最終的な彫刻の表面の素材として、最初に印象に残る作品をつくったのは、やっぱりドガの「踊り子」だと思うんです。「チュチュを着た踊子」ですか。文献によれば、あれは最初は蠟人形のように着彩されていて、非常に見にくかったらしいんです。いまはプロンズに鋳造された作品しか残っていませんけれども。
ロッソが蠟でつくったというのは、もちろんドガの影響はあると思うんですが、 トランスルーセントな感覚、半透明な感覚で、その視覚的な効果が彼にとって重要だったということは、当然思います。晩年になって、着彩された蠟の作品もつくっていますけれども。
蠟の作品もあるし、石膏の作品もあるし、プロンズの作品もある。そのうち、彼の本当にやりたかったものはどれかというと、おそらく蠟とブロンズだったと思います。ただ、そのどっちが彼にとって優越的な素材だったかというのは、簡単には言えないと思います。
峯村―― まあ、無理にどっちかに片付けなくてもいいけれども、わざわざ、あれだけワックスの作品を残したというのは、すごい執着ですね。それは単純に言ってしまえば、さっき松浦くんが言った“出現性”を彫刻で実現するための、一つの方途と考えていいんでしょうね。
黒川―― ただ、実際に彼が出現性に初めて遭遇するのは、塑像の粘土の状態だと思うんです。
峯村―― 作家としての作業のなかで感得するのはね。
黒川―― ええ。
峯村―― もちろん、そうでしょうね。
黒川―― ただ塑像で残すのは、焼くか塑像の中に収縮しないような物質を混入するということでしか不可能なわけで、それ自体、永続性がないわけですね。蝋というのは、われわれが考えている以上に永続的な素材ですのでね。ブロンズのほうがもちろん永続性はあるわけですれども、彼は印象派の画家たちがつくったあのワックスの作品からずいぶんインパクトを受けていると思いますので、蠟というのは彼と印象派の画家たちを結びつける何かの線に、絶対なっているという感じはするんです。
峯村―― なるほどね。それで、中原さんは先ほどハーバード・リードがロッソを評価していたということをちょっとおっしゃいましたね。たぶん、中原さんの『現代彫刻』のなかだったと思いますが、ハ―バード・リードのヴァイタリズムを批判したようなことを書いていらしたと思うんです。
リードの一種独特のアナーキズム、哲学的にいえばヴァイタリズム、それとロッソのなかにあるといわれる――これは同時代的に、ほかの分割主義の作家たちも共有していた、あるいはそれよりもっと前からの世代に共有されていた―――種のアニミズム的な、汎神論的な考え方をリードがキャッチしていたからということはあるでしょうか。
中原―― 実は再読していないので、自信はないんです。覚えているのは、ロダンを冒頭に持ってこないという理由はちゃんと述べていて、むしろロダンは19世紀の最後を飾っていると。ただt全体の文脈のなかでリードがロッソをどういう具合にとらえていたかというのは、いま全然記憶にないので、ヴァイタリズムとの関連も僕ははっきり返事ができないですね。
黒川―― 僕は、リードはロッソをそんなに肯定的にはとらえていないという印象が強いんです。リードは、たとえばカルポーとかジュール・ダルーとか、ジャン・ボローニャとかの彫刻家のマケットを引き合いに出して、ちょうど堀内先生がおっしゃった、きっちりした表面の完成度のなさ、光が単にそこで乱反射して生じる視覚的な効果という点で、悪い彫刻の例としてロッソのものを挙げている。そうした視覚的効果の作家として、ロッソを扱っていたような印象があるんです。
峯村―― そろそろ、まとめに入りたいと思うんですが、ずっと話してきてくっきりしてきたのは、中原さんは――隣に黒川くんがいるせもあってだろうけど(笑)――「あまり興味はないよ」という姿勢を、わざわざ強めているようにも思いますが、ここであえて二派に分けますと、いや、ロッソには非常に参照すべき新しい側面があるとみる見方と、あれはヒョッとしてある時代の終わり、つまり、ある行き詰まりに至らざるを得ないような彫刻観の代表だったかという見方ができると思います。あるいは、もっと複雑にそれらが絡まっているかと思います。
端的に言って、ロッソにこれから参照できるような新しさを見るとすれば、どこか。いや、そういうものよりも、あれはあれで、ある時代のチャンピオンとして、静かにしておいていいのではないか……。そのへんのところを上村さんからちょっと述べていただけますか。
上村―― やはり、多くの可能性に満ちた仕事をしている人で、かつ、晩年――という言い方は悪いけれども――は、実制作をしなかった人ですから、それだけ夢を織り込める人で、それこそ黒川さんはそのなかにひたりきっていると思うんですが……。
峯村―― 夭折の画家に対するあれと、ちょっと似ているかな。
上村―― 私はこれから始まるんじゃなくて、一つの時代が終わるほうのタイプじゃないかなという気がするんですが、ただし、これだけ豊かな内容を持ちている人は、なかなかいないと思います。
たとえば私の好きな写真で、25歳のときのロッソの写真ですか、アトリエに作品を全部並べて、一番左の彫刻の台座のところに“フィーネ(終わり)”と書いてあって、横から自分の首を出していて、そして後ろにカーテンをひいている。なぜか、彼はカーテンというか布が好きで、「オムニバス」でも写真を撮る時彫刻の前画を布地で覆っている。先のアトリエの写真では、カーテンの上に自分のコレクションの人形を吊しているというふうに、自分で神話化というか、あるイメージをつくっていく。自分の作品の周りに、自分の作品の写真とかロダンの作品の写真を並べて、もしくは、自分がつくったミケランジェロの模刻を置いたりというふうに、自分のなかにプログラムというか、自分の人生を自分で管理したというか、したかったというような……。
先ほども言った「パリの大通りの印象」でも、松浦さんは「あれは環境を表したとはいえないかもしれない」とおっしゃったけれども、まだまだ、そう断定できないいろんな要素を持っている。
そういう意味では、ロッソからその時代もしくは時代を超えて出てくるものがたくさんあるんじゃないかなという気がしています。その意味で私はロッソについてはこれから、黒川さんの10分の1ぐらいの熱意でも(笑)、研究したいと思っています。
黒川―― ロッソから何かを演繹してきて、矮小化された方法論みたいなものを導き出して、それを教条化して、ということをロッソに求めるべきではないと思います。そうじゃなくて、ロッソがある葛藤をしている。それは僕だけが感じているわけじゃないと思います。見る人間は必ず、ロッソのなかにある種の葛藤を感じる。そして、その葛藤から導き出される、ものすごく人を感動させる何かを持っている。そうしたもので感動しているわけです。
僕が先験的に感じるその葛藤というのは、彫刻が抱え込んだ歴史的な危機的状態というか、ある種のネガティブな状況というか、それをロッソは一番端的に示し得た作家だと思うんです。一方で画家の彫刻があり、そして彫刻家が銅像屋として凋落していった時代に、ある輝きをもってロッソは存在している。
彫刻は相変わらず危機的状態のままで、20世紀現在あるわけですね。そのなかで、彫刻の葛藤というものを真に示し得た。そして、彫刻の危機を真に示し得た作家は、僕にとって重要なわけです。
その意味でロッソを見るということは、ロッソの精神性を引き継ぐ何かを自分に求めたいなという気持ちが僕のなかにあるので、ロツソは自分にとって非常に重要な作家で、意味がある。そうした重要さを僕は誰にも批判されたくないな、批判させないぞ、という…… (笑)。
峯村―― いやいや、それは無理ですよ。批判されても、 くずれないということですね。
黒川―― そうです。
中原―― 僕は黒川くんの20分の1ぐらいですけれども(笑)、好きな作家とか好きな作品というのは、ある人から見れば、過大評価しているんじゃないか、というところがどうしても出てくるので、黒川くんはそれでいいと思うんですが、僕はさっきエプシユタインは興味ないといったんですが、ロッソは興味があるんです。
ロッソの生まれ育った、世紀末をはさんだ時代――これが彫刻の危機だったかどうかは、僕ははっきり断定できないけれども、狭くヨーロッパの彫刻史だけとってみれば、結果としていえば、確かに何かが非常に変わりつつあった時期だと思います。
たまたま、そういうときにロッソというこういう仕事をする彫刻家が出たということで、この点に関して黒川くんと同意見ですけれども、ここから教訓を引き出してどうこうするという視点からの興味は、僕はないです。どうして、こういう作品が出てきたか。個人の資質もあるでしょうし、印象派の絵画との関連の問題もいろいろあるかと思うんですが、確かにそのスタイルはユニークで、その点に関しては非常に興味があります。
堀内―― 僕は、彫刻の危機を感じて、それが自分のこれからの刺激になるということを言っているのは、個人として大変いいことだと思います。そういう人には、なにも黒川くんに限ったことじゃなくて、刺激を受ける方はたくさんいると思います。そういう意味では非常に重要な作家だと思います。
しかし、時代全体としてそんなに大きな影響を受けるかどうかというと、それほど強い刺激にはならないという気がしています。申し訳ないけれども。僕自身の感じで言うと、そういうことになります。
峯村―― 堀内さんのような道を歩んでいらした方が、突然ロッソから刺激を受け出したら、これはどういうふうなものになるか(笑)、想像するだに非常にワクワクするところがありますけれども、それはむずかしいということですね。
松浦―― 黒川くんが言ったとおりだと思うのですが、ロッソが直面し、生涯、反復した課題があったと思うのですけれども、その問題が一般的なアクチュアリティを持つかどうかというのは、僕はほとんど興味がありません。ただ僕が持っている、あるいは黒川くんとある部分で共有することになると思うのですが、そういった特殊な関心からすると、非常に大胆に言えば、ロッソの反復した問題だけが、ロッソが繰り返し繰り返し、生涯やっていた作業だけが重要な問題であるという感じさえします。僕にとってはそういうことです。
峯村―― そうすると、黒川くんが100の情熱の打ち込み方とみると、いまの松浦くんのは90ぐらいですか。
松浦―― いや、もうちょっと……。
峯村―― もうちょっと強いですか。
松浦―― ただロッソを模倣したりとか、そこから何かを抽出したりとかいった問題ではなくて、おそらくいまでもそうだと思いますが、具体的な制作の場面でロッソの問題に多くの人々が出会っていると思います。
ロッソという人は、彼なりの一つの解決というか、解決しないことを示したというか、そういった意味で僕はその終わりのなさというか、解決し得ない……。
峯村―― すごくいいセリフですね。“解決のなさを示した”というのは。
松浦―― そこで、その解決のなさがまた未完成ということではないというのが、ロッソの偉大なところではないかと思っています。
峯村―― 私は、松浦くんと同じように評論をやっていますけれども、作家と同じような入れ込み方を持っていますから、黒川くんには非常に共感するところがあります。ただ、黒川くんも同じだろうと思うんですが、結局ロッソそのものの何かがそこからストレートに汲み出されてくるという受け取り方では毛頭なくて、一つ知的な作業を挿入することによって、途方もなく大きなものがここから見えてくるのではないかという、そのくらいの入れ込み方ではあるんです。
さきごろ、横浜にできた市美術館で、メトロポリタン美術館から持ってきたフランス美術展をやっておりました。中世から近年までの実にたくさんの作品が来ていたんですが、、全部見て、最高に心動かされたのは、ジャン=フランソワ・ミレーのこんな小さな絵でした。その次にすごいなと思ったのは、マネが芍薬を描いた、これも小さなさりげない絵でした。この二点だけがずば抜けていた。
だけど、両方いいんだけれども、見ていると、やっばりミレーのほうがすごいなと。それはどうしてなんだろうということを考えてみると、僕がロッソに強くひかれるのと似たところがあるわけです。
幾つかの歴史のサイクルを転がしたあとの、サイクルがもう一度か三度めぐったあとの切っ先みたいなものが、グサッとこっちに突き刺さってくるんじゃないかなと。だから、何か新しいもの、教訓的なものが直線状に突き刺さってくるんじゃなくて、歴史の経験を経た、あるいは私には何のかかわりもないところでグルグルと巻いてきた、そのサイクルの一番新しい切っ先みたいなものがグサッと入るという感じがしたんです。
それはどういうことかというと、ミレーのなかにある自然主義――もちろん、そのなかにヒューマニズムもあって、それもみんなひっくるめていいんですが、――と、でも、どんな意味で言っても、自然主義とはほど遠い、すごい精神的なものに対する欲求がある。ミレーの空気の表現やさまざまな事物の表現のすべてに、躍動しているものがある。
そういう自然主義の一番先駆けのような仕事のなかに、全くそれと裏腹な、物質的・現実的な条件によってはどうしても説明できないものが、おのずから顔を出している。それが非常に密度の高いかたちで出ている。
そういう絵のあり方は、マネにも無理だろう。マネの場合はアクチユアリティが非常に強くて、良かれ悪しかれモダニズム絵画の一つの方向にとってしか先駆けになることができなかった。それに対して、ミレーは別の可能性を指し示しているかも知れない。
僕はいままでミレーは別に好きでも何でもなかったんですが、あのたくさんの絵のなかで見たときに、本当にびっくりしたわけです。そこには、ロッソにすごく関心を持ってしまう理由と似たところがあるじゃないかなという気がしたわけです。
進行係がちょっとしゃべり過ぎて申し訳ございませんけれども、ちょうど時間が三時間ぐらいになりましたので、これで終わらせていただきます。つたない進行ですみませんでした。どうも長い問ありがとうございました。(拍手)