石がそこにある。
私がここにいる。
じかに向き合うとバツがわるい。
石と通じ合うためには、何ものかのお膳立てがいるようだ。
詩文の一節、風の渡る音、またはひとりの女、白い空間とか。
私と石は第三者を一角に置く三角関係の張り合いの中で呼び合う。
そうするとやがて私自身が、詩文であったり、風であったり、
女であったり、空間であったり、そのうち石であったりもする。
石も私も消えて第三者のみが向き合うものなしに
そこにいるようなものだ。
あるのは三角関係自体というべきか?
いつしかこんな妄想が晴れると笑いが出る。
石がそこにある。
私がここにいる。
李 禹煥