Solo Exhibition

November 5 – 28, 1990

 

橿尾正次 展

1990年11月5日–28日

私は作品づくりに帖紙(ちょうがみ)を愛用している。現在生産されていないので、たまに入手する江戸、明治、大正時代のもの、昭和三十年ごろまでの反故紙(ほごし)を大切に使っている。

この紙はかって県内のほとんどの家庭で慶弔時に記録として使い、また京阪神の商家でも大福帳に使われていた。

大野の尾崎弥右エ門が江戸末ごろか明治の初めに「越前大野郡産帳紙ノ記」という一文で、その特色を見事な古文で表しているが、ここで私が現代文に書き直してみた。

私の住んでいる大野郡の西ノ谷、穴馬谷の山間で作っている紙は、普通粘紙とか厚紙と呼んでいます。美濃や尾張では越前の薄口と呼んでいます。この紙の質は全くの生涯(きずき)で一切ほかの穀物製ののりとか石粉を混ぜていません。

光彩はないものの、とても筆の滑りがよい。肌は麗密とはいえませんが、とても強じんで長い保存に耐え、紙虫(しみ)の害もほとありません。だから帳簿にはよくこれをつかいます。

またこの紙を数十枚のりで張り、荏(え)の油を十分に塗ると、とても丈夫でまるで象の皮のようなります。それで部屋の大小にこの手法で夏季に使う敷物を作ります。油団(ゆとん)がこれです。

そのほか用途が多いことは数えきれません。値段も安いのです。ほんとうに日常生活に便利で役に立つ費い品といえましょう>

私はこの「貴い品」を二十五年余り使って作品をつくってきた。手にとると薄いのに表面は織(ち)密でパリパリと音をたて「明るい感じがする。はけでぬらすと、繊維が水を含んでのびて広がる。それを針金で作った骨組みに張りつける。骨組みを両側から挟みこむように一枚ずつ乾燥を待ちながら、数枚張っていく。

ところで針金で作った構造体は、私が日ごろ出合った山脈(やまなみ)、軒先に取り残された雪の塊、葉っぱ、鳥、虫、石、そんな形が一つの帰結として生まれたものではなかろうか。一枚の紙の上に描きなぐった線から作ったものだ。

楮(こうぞ)という自然の恵みが生んだ木の皮(紙)と、私の意識下に宿っている自然のさまざまのフォルムが、私の手のもとで出合って、新しい命が生まれればしめたもの。屋外に並べてみたこれらの作品群が果たして自然の中で呼吸しているだろうか。(1989.1)


山へのぼり、はるか離れたF市を眺めた。みどりの中で一瞬それは瓦礫に見えた。人はそこで忙しくたちまわり、べちゃくちゃと話し合っている。新しい情報を唯一有難がり、「健全な」常識と末梢神経をくすぐる興奮に浸っている。

疲弊した人を救うのは自然かも知れない。その営み、美しさ、そして怖さ。文明を誇る現代人が生きている時間は全宇宙の歩みから見ればほんの一刻にしかすぎない。文明とは自然破壊の役割しかはたさなかったのか。頭デッカチ人間の眼には草花の微細な構造や営みがもう映ってこないかも知れない。

いまここでゆったりと流れる自然のリズムをとりもどし、自然との共存をはからなければ、人は便利さにおぼれて滅んでしまうだろう。(1989.1)


「草木染め」とは簡単にいって、布や紙を植物を煎じた液に浸したあと乾かし、液状の媒染剤に再び浸して発色させる染め方である。

植物が本来持っていたアクが、エキスとなって染めの効果をもたらす。このエキスはその植物にとって本質的で大切な部分、「具体」そのもので、ほかの植物とはっきりと区別される。この物質はかなりのところまで化学的に分析されるはずだが、分析不可能な部分もわずか残ると思う。

私の作品は、「抽象」とか、「抽出」という分析作業を経たあとで出来上がるのでなく、いわば分析不可能なエキスを直感的にとらえた「具体」そのものでありたいとねがっている。(1989.3)


田舎に住んでいると、まわりは緑一色。草花や木が多い。ただ通りすがりに眺めるのでなく、そこに住んでいると、植物に対する気持ちも愛憎こもごも、複雑である。

ドクダミの根は地中深く入りこんでいて、ちょっとやそっとでは取れない。取ったつもりでいても、しばらくするとまた顔を出す。畑にはえたヤブカラシの根は取っても取っても、残った一片から芽を出して、畑をおおってしまう。実にしぶとい。その上、根はやわらかくてすぐちぎれてしまうから始末におえない。

子供のころ、野道を歩きながら口に入れた野草もある。スイバ、イタドリ、ミヤマカタバミシュウカイドーなどは噛むとすっぱい味が口にひろがった。春先ツバナと呼ぶ赤い花の穂の出る野草の名はチガヤ。これはやわらかくて甘味があっておいしい。初夏には銀白色の穂となって、風になびいているさまは美しい。オドリコソウの花のつけねはちょっぴり蜜がある。戦時下に育ったわれわれにはほんのわずかの甘味が有難くて、一つずつつまんで吸ったものである。

お盆に、墓にそなえるのがミソハギの花。禊萩と書くらしい。私の住んでいるこのあたりではお精霊花(おしょらいばな)と呼んでいて、この花を見ると墓参りを思い出す。

実にさわると勢いよく実がはじけ種がとび散る花がある。そのひとつ、ムラサキケマンのばね仕掛けは何度やっても面白くて、つい指先をあてて遊んでしまう。(1990.8)

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