美術作品はなにごとかを語る。あるいは、なにごとかを意味する。その意味するものがはっきりと言語化し得ないような場合でも、なにごとかを意味すると考えられている。それでは、次のようなものが可能なのだろうか。「美術作品」を語る美術作品。あるいは、「なにことかを意味する」美術作品の「その意味するもの」を意味する美術作品。

言葉の遊びと受けとられるかもしれない。しかし、そういうように考え得る根拠がないわけではない。それはわれわれが、言葉の意味(あるいは無意味)を言葉で語るということを知っているからである。言葉は言葉を語る――つまり、言葉はメタ言語であり得る。とすれば、そういう思考の構造を、非言語的表現である美術作品の領域へも適用し得るのではないだろうか。

1960年代中葉以降のジョセフ・コズスの仕事の特質は、要約すれば、メタ言語ならぬメタ美術に集中してきた点にみられるように思う。つまり、美術作品について語る美術作品である。こういう視点をもたらした理由のひとつは、抽象表現主義によって絵画の意味の不確定さが拡大されたということであろう。絵画の意味とはなにか、絵画の意味の形成の仕組とはどのようなものであるのか。といった問いがそこから誘発される。

コズスの作品は年代によっていくつかの時期に分けられるが、1965年の「プロトインヴェスティゲイション」(「原探求」とでも記すべきか)以来、どの時期の作品も言葉(=文章)と密接に結びついている。これが概念芸術として位置づけられてきた大きな理由でもあるが、コズスのこの言葉への関心は、その作品の構造上まず不可避的であったといわねばなるまい。先程、言葉の意味を言葉で語るという思考の構造(あるいは論理構造)を美術作品の領域へ移行させると書いたが、しかしこの場合、前者と後者とがまったく同一の構造になるわけではない。というのも、意味は言葉に置換されるものであり、したがって美術作品の意味を美術作品であらわすという場合、どうしてもその「意味」と結びついて言葉が登場せざるを得ないからである。

その点、最近作の「キャシクシス」は、美術作品が(つまり意味が)形成されるに当っての要素間(あるいは物体間)の関係ということに焦点が据えられ、それだけ視覚的な比重が強められているのが知られる。あるいは意味(=言語)よりも、空間の記号性が前面に押しだされている。

しかし、コズスのこの近作もまた美術作品の分析の所産であることでは変りはない。概念芸術という名称はさまざまな作品を包含したが、この分析度の高さということではさしづめコズスなど筆頭に位置しよう。「キャシクシス」はその分析のレンズをアナログ的な空間関係へと向けて、やや変質させようという試みでもあろうか。 「プロトインヴェスティゲーション」から「キャシクシス」まで、各時期の作品が展示される、わが国での初のコズス展で、それをじっくりと眺めてみたい。

(なかはらゆうすけ)

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