Ship 60’s & Work on Paper

Solo Exhibition

June 2nd – July 29th, 2012

Ship 1966
Ship 1966

Noriyuki Haraguchi (1946–) is one of the main artist of “Mono-ha,” Japanese art movement in the late 1960s. In this exhibition, his early work of his career in 1960s, titled “Ship,” are on display. These works were elaborately made like scale model,made of papers, cardboard and etc. His drawings from that period will also be on display.

原口典之

Ship 60’s & Work on Paper

2012年6月2日–7月29日

展覧会概要

1960年代より現代美術の第一線で作品を発表して続けている原口典之(1946–)。半立体的な絵画やレリーフ、また鉄材や鋼材、ゴムやポリウレタンなど工業素材を用いた作品には常に「物質」に深くこだわった作家の意図が反映され、1960年代後半~70年代の日本現代美術における動向「もの派」の主要な作家の一人に数えられています。1977年のドクメンタ(ドイツの現代美術展)をはじめ国外でも数多くの作品を出展し、独特の均衡で成り立つ緊張感に満ちた作品は高い評価を得てきました。

米国戦闘機のファントムや攻撃機スカイホークの実物大の尾翼を再現した作品やプール状の鉄型に廃油を流し込み周囲の景色が漆黒の中に映りこむ通称"オイルプール"は国内外で展示される度に大きな反響を呼んでいます。その作風は絵画や立体作品、「もの派」といったくくりにカテゴライズされないインパクトを観る者に与えてきました。今回の個展では、活動初期に制作された1960年代の「Ship」シリーズを中心に、もの派の展開が著しい1970年前後のドローイングを合わせて展示致します。

「Ship」は横須賀で生まれ育った作家が度々目にした米軍の駆逐艦や潜水艦などをモチーフに紙を主な素材としてマケット(模型)のように作られ、精巧な手作業と大胆にデフォルメされたシルエットが絶妙な緊張感を作り出しています。また、40年以上前まで遡って作家の構想を垣間見ることのできるドローイングは、60~70年代の日本現代美術が世界的に再検証されている今日において改めて注目すべき作品群です。新たな試みを紙の上で実験として行ってきた当時の足跡をご覧頂ける機会となります。ぜひご高覧下さい。


Haraguchi Noriyuki 2012
Haraguchi Noriyuki 2012

60年代、70年代を振り返ってみれば激動の時代だったと思う。そういった状況の中で私の作家活動はスタートした。当時、すでに戦後の日本美術、前衛、現代美術といったものは始まっていて、私自身はまだ歳も若かったという事もあってか、そうした動きからはいささか後発的だったと自覚している。

私の「Tsumu 147」(写真1)が雑誌の表紙に掲載されたのが大学1年の1966年。代々木競技場なんかを凄なあと横目で見ながら横須賀から日大の芸術学部のある練馬まで2時間くらい掛けて通っていた。その頃に「Skyhawk」(写真2)や「Air Pipe」(写真3)なんかの試作を練っていて、68年にいわゆる「もの派」と出会ってゆく。安保闘争真っ只中の70年に大学を卒業して、その年に初めて「鉄」を使った作品を発表する。この作品で初めて私が二次元から三次元へ脱皮した。

H鋼、即ち「鉄」と「ワイヤーロープ」のテンションで構成された「I-Beam」の作品だ。(写真4,5)これは今年2月にロサンゼルスで開催された展覧会で再制作し、私自身が私の作品と42年ぶりの再会となった。なぜ「ワイヤー」と「鉄」なのか。当時、自問したこと、周りからの問いや、議論があったように思う。それについて未だ明確に言明できたと思えた事は無いのだけれど、私としては作品がその答えを体現しているものと自認している。所詮、私は作家として自身の身体感覚を総動員して筆舌を超えるものとして作品を提出しているわけだから、それを良しとしている。これは70年の「I-Beam」と現在が結びついている事を改めて痛感させられた出来事となった。

ものを「みる」態度、「みる」という事は一体どういうことなのか。今回、展示している「Ship」の作品に使われている船の模型は全て私が作家という自我を持つ以前に作ったもの。私にとっての風景、例えば横須賀の港や軍艦であったり、観測や測定を繰り返し夢中で精巧に再現しようとした模型は今では埃だらけで大きく破損している。

そもそも船は水平線から下が作られていない。本来なら船底、舵、スクリューがあるはずだが、ここでは全くエンプティである。私と私の「みる」対象との間にある問題に突き当たった時、作品としての「Ship」が生まれた。

当時のデッサンも白い紙の上に鉛筆のラインを描き白い絵の具を塗っているものが多い。なぜ、「白」か。なぜかくも「空虚」なのか。白く塗装されたシェイプドキャンバスの「Air Pipe」という一連の作品が誕生する瞬間。必ずしも作る事だけが「造形」する事ではない。作らない事もあるという事。

「対象」の存在や意味、その重さや引力や重力、「対象」の存在する空間、そんなものが自分の前提としてあって、それを「造形」しようというよりも、むしろ限りなく「造形」を排除していく。「Air Pipe」の機能不全、エンプティ。「白」という「空無」は意味や概念ではない。もっと底辺というか、 見えない部分の地下水脈みたいなところを身体の全てを動員して思考する。

やはり私は「もの派」ではないと思う。確かに「もの派」という時代状況の中で仕事をしてきたのも事実。だが、「もの派」という観念と自分の仕事は別のもの、或いは「もの派」という観念と出会うずっと前から自分自身で自問してきた問題が、 ある時「もの派」に召喚されたのかもしれない、と思っている。

それはその昔、田浦やサルベージ会社の岸壁にロープや鉄やいろいろなものが沢山積んであって、横須賀の軍港には沢山の船がいて、ある夜、自分の視線を横切った「Skyhawk」があった。それを「みた」自分というのが私の始まり。当時、少年だった私はそれらを懸命に写生し、その対象と私の関係をなんとか解き明かそうともがいていた。やがて私は対象をそのまま持ってきてしまえば良い事に気がついた。つまり対象となる風景、「もの」、物質と私自身、或いは私の作品との距離が消失した瞬間だった。同時に、その「対象」、「もの」、「物質」と、作品のエンプティさ、機能不全。「風景」や「対象」と私との間に起きた問題。それに気付かされた瞬間に私の作品は生まれたのだと思っている。

最後に、今回の鎌倉画廊の個展はいろいろな意味で、重要なことがらを再認識させて頂くきっかけとして私にとって大変有意義な体験となった。 私のかけがえの無い旧友であり最大の理解者である中村さんに謝意を表したい。

2012年6月 原口典之

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