こんど展示される作品の一部ということで、河鍾賢のタブロー4点のカラー・プリント写真が送られてきた。2点は従来からの様式のもの、他の2点は最新作とのことだった。正直なところ、この最新作2点の複製を見て、私は思わず、フーッと解放感に近い溜め息を曳らしていた。

日本でもよく知られているように、河氏の作品は、この10年ほどの間、基本的にはほとんど変化のない技法によって、息づまるほどの緊張感を湛えつづけてきた。その技法というのは、絵の具をカンヴアスの裏に強く押し当てて、表に滲み出てきた無地単色の、ほとんど壁土に近い色の絵の具の霜柱の頭を、軽く重く叩く。そうやって、カンヴァスのテクスチャーと絵の具の圧力との平衡水位に、通常の絵画の表面でも裏面でもない、第二の表面をカッキリと押し立てるのである。この無光沢な第三の表面は、西洋画のように眼球の頂点に向かって表面へ表面へと超出してくるのでも、われわれ日本人になじみのくるりと裏返る表面なのでもなく、逃げ道のない客体として私たちの視線を90度の角度で釘づけにしていた。息が抜けない道理であった。

ペイントはあれども、ペインティングされたのではないタブロー。この、絵画的手段を用いての絵画批判、絵画の物質主義的問い直し、絵画の非人間化と客体化、といった試みの背景には、1970年前後における日本のモノ派やフランスのシュポール/シュルファスの思想が何ほどか影を落としていたかも知れないし、それより何より、1960年代後半から世界の有為な芸術家たちを魅了してきた表現の客観化というミニマリズムの願望が、特異な形で実を結んだのだとみるべきかも知れない。絵の具をカンヴァスの向こうかし滲み出させること自体、表現なるものが醇乎たる客体として現前して欲しいと願う気持のストレートなあらわれだったのではなかろうか。

この、カンヴァスの裏から絵の具を滲み出させるという「うらごし」的な技法は、最新作にもそっくり受け継がれている。だが、最新作では、滲み出てきた絵の具の霜柱は頭を叩かれただけの粛然自若たる姿に収まってはいない。絵筆を使ってか、ナイフを使ってか、写真からではしかとは分からぬが、短かく、大い、歯切れの良いストロークの入念な交差によって、絵の具の霜柱は小気味よく踏みしだかれ、注意深く計量された乱脈さのなかに、まったく新しい呼気を通わせ始めているのである。

これまで、河氏の作品を見る機会の比較的多かった私には、この変化、あえて言わせてもらうならこの前進は、まことに気持のいい、胸のすく出来事と見えた。この変化によっても作品の質が保たれているかどうかは、実際の作品に対面してから判断するほかないが、それとは別個の問題として、この変化は河鍾賢の絵画に内在する必然的な展開の可能性を開いていると見えた点で、すでに一個の解答たりえているように思えた。私が留め息まじりの解放感を味わったと書いたのは、誇張ではなかったのである。

河氏が開いた突破口の見どころは、絵の具が絵の具であることを取り戻し、絵画的行為が絵画的行為であることに目覚めてゆく、その自己発現の初々しさではないかと思う。つまり、絵画の構成要素のそれぞれが理念の硬さと行為の禁欲主義を脱して、自己同一性のなかでのびのびと異相を開こうとしている、すなわち、絵画が十全に自己表現をする契機を手に入れ始めたということであろう。

この、絵画の自己表現ということ、つまり自己同一性のなかで異相を開く構造を得たということを、私は河鍾賢の最新作の大きな成果として強調しておこうと思う。この絵画では、ストロークは色を加えるわけでもコンポジションをなすわけでもない。ストロークは、すでに準備され、一つの成熟度に達していたある色調の野から、それ自体の潜在的な言葉を引き出し、自分自身との対話を催させるために打ち込まれる。ちょうど、息苦しいばかりに生え揃った夏草の原に嵐が吹き込んで、草むら自体のざわめきを引き起こすようにである。そしてそのストローク自体、それが打ち破ることのない色調と絵の具の厚みの自己同一性そのものから報いを受けて、自らの自立性を、つまり、他の何もののためにも埋没しない風のごとく爽やかな自己表現性を獲得している。

この初めて登場したストロークが、絵をかく人の激情や投機心を表現する道具になり下がつた悪しき表現主義者のそれでないことは、大いに注目されてしかるべきであろう。画家の手は、みずから育てていまやそれ自体の生命をはらむに至った絵の具とカンヴァスの協働する野に対して、あくまでも謙虚である。霜柱は消してはいけない。夏草は枯らしてはいけない。もしそうしてしまったら、それを踏んで遊ぶ子供の自己同一性の世界は失われてしまうだろう。その子の足跡さえ失われてしまうだろう。そのことを、河氏はよほどよく弁えているにちがいない。

霜柱を踏んで霜の結晶を鮮やかに輝かせてくれながら、霜柱の野そのものはけっして損なわない子供の優しさと賢さを、私は河 鍾賢の新作絵画に見出だしたように思う。このことは、絵画の質をなす画面の統一性の保持ということに、少なからず貢献しているのではなかろうか。

(みねむら としあき)

Top » 河 鍾賢展 1985年7月8日-7月20日