私たちがギュンター・ウッカーの名を聞くのは、久しぶりのことではないかと思う。そういえば、昔はユッカーと表記していたものだった。それも、マック、ピーネらと串団子みたいにつながれて、グループ「ゼロ」の枠内で語られるのがふつうだった。もうそんな必要はあるまい。三者三様の道を20年も歩んでしまったいま、ウッカーはウッカーとして見られ、語られていいのではなかろうか。
とはいえ、ウッカーの芸術は驚くほど変わっていない。崩れてもいない。モノクローム、それもおおむね白の表面に、釘を打つ。あるいは、何らかの方法で物の表面に身震いを催し、静かな運動の気配、運動を孕んだ皮膜の呼吸を奮い起こす。この作法は、基本的にはいささかの変質も蒙っていないようである。そのことを私たちに確認させてくれたのは、数か月前、NHKが昨年のバイロイト音楽祭に取材して放映した、楽劇「ローエングリン」の舞台であった。そのデコールがウッカーによるものであったという証拠を、私は楽劇の始めか終りかにチラと出たタイトルによってしかつかんでいないのだが、かりに彼の名が出ていなくとも、見間違えようのないウッカカーの表徴、すなわちモノクロームの表面と釘とが、輝くばかり、舞台を満たしていたのだった。
まず、序曲が鳴り響くあいだ、これから始まる事件を押し包んで、くすんだ金色の巨大な板の幕が天井裏から品り下がっていた。鉛箔か金箔を置いたらしいその高賞な不透明さに、ここかしこ、折れた矢のような斧の跡がついて、それはあたかも、楽劇全体の前提的主題である傷つけられた聖性、人間の世界に露顕させられた聖杯の秘密を、完璧に表現しているかのようだった。
さらに幕が進み、舞台中央の奥処から白鳥の騎士が現われたとき、その背後の天空に、あたかも聖性の顕われ出る始源と道筋を指し示すかのごとく、波打つ円盤が静かに回転してはいなかったか。あれは、光の波だった。円盤に打ち込まれた無数の均質な釘が「ふるい」(篩、そして振る樋)となって吸収し、はじき返す、刻々の光の露。その露の束が、不可視にして全一なる存在からの流出を、こなたへと送り届け、またかなたへと送り返していたのだった。
実に見事な装置であった。楽劇の主題の完璧な表現。しかしそれは、説明的に、再現的に、絵にかいたように、ではなく、装置自体が作品として湛ええた深い象徴性が、楽劇とその主題の象徴するところをみずからの象徴となしえたところからくる表現ではなかったかと思う。楽劇「ローエングリン」は、ウッカーの装置によって輝きを得たのとひきかえに、ウッカー芸術の深い秘密、それが本来住んでいる世界を照らし出してくれたのである。少なくとも私には、そういう効果を発揮してくれたのだった。
よく知られているように、ウッカーの芸術家としての出発はイヴ・クラインとの強烈な出会いを刻印している。顔立ちまで、なぜかこの二人は兄弟以上に似通っていた。しかし、大切なのは、気質にもとづく個人個人の似寄りではない。1950年代末のヨーロッパが、パリ=デュッセルドルフ゠ミラノの三都市を軸にしたモノクローム思潮の奔出に洗われ、その中でクライン、ウッカー、マンゾーニ、カステラーニらが偶然ならざる同質性の糸で結ばれていたことが想い起こされねばならないのである。
ところで、このモノクロミズムとは何だったのだろうか。それを理解するには、かって阿部典也が十分な説得力をもって示唆してくれた(1965年、B S N新潟美術館主催「現代イタリア絵画展」カタログ)ように、目を50年代末のヨーロッパ三都市が形づくる三角形から縦に起こして、たとえばカステラーニやフォンタナから未来派へ、クラインやマンソーニからマレーヴィッチへ、そしてさらには、そのいずれの系譜をも束にしてバロックのダイナミズムへと歴史の川を遡ってゆく必要があるだろう。
モノクロームとダイナミズム。ちょっとみると、ほとんど正反対とも思えるこれら二つの質が、ヨーロッパ美術の歴史においては脈々たる系譜のなかで併存し、一つの芸術的神学体系をなしているのである。この体系が分からなければ、フォンタナがなぜモノクローム画面に裂け目を入れるのか、ウッカーがなぜモノクローム板に釘を打つのか、本当には分からないのではなかろうか。その体系の鍵をなすものこそ、ユニティーないしユニヴァースの観念なのである。
ユニティー――無限にして単一なるもの。マレーヴィッチのシュプレマティスムをバロック的に発展させようとしたポーランドのシチェミンスキーが、「ユニズム」という言葉で均質空間におけるダイナミズムを要約したのは、実に兆候的なことであった。ウッカーの均質に釘打たれたモノクローム板は、この「ユニズム」の観念を仲立ちとして、ヨーロッパの芸術的神学体系の一つにがっちりと支えられ、抱擁されていたのである。
ユニズムはまた、無限にして単一なるもの(存在自体)からの流出のうちに世界と聖性との分化の渕源を見ようとする根源的な宗教感情と無縁ではない。「ローエングリン」とは、そのような宗教感情のゲルマン的形象化であった。とすれば、ウッカーの釘打たれた均質円盤の緩やかな回転が、光――この無限にして単一なるものの物質的メタファーである光――をふるい起こし、露と滴らせることによって、聖なるものの人間界との接触様態(「ローエングリン」)を完璧に表現することができたのは、当然と言わねばなるまい。ウッカーの釘は、芸術が聖性から無縁たりうるとする俗論に、痛棒を食らわせているのである。
(1984.2.16)