グループ幻触が活動した1960年代後半から時間が経ったせいもあってか、近頃しきりにあれは何だったのか、という思いにかられることが多くなった。1960年代といえば、ヨーロッパのロゴス中心主義に対して内省を試みる運動が活発となり、我が国の知の最先端を席巻し、精神の混乱をまねいた時代だった。そのようなとき、グループ「幻触」はどこに向かうことになったか。又導きの糸は何だったか。美術評論家石子順造さんとの出合いとその影響か。それも否定はしないが、もっと根源的なことのように思う。それは、幻触の者達は昭和の初期に育ったということだ。そのように思ったとき、この格別な意味の大きさに、これなら解る、と思った。

昭和の初期といえば、いまだ近代化の浸透がどこ迄も行き渡っていたわけではない。交通手段も運輸は馬力が主役だったし、材木はイカダを組んで川を下った。子供の遊び場は山や川だった。昭和の初期の者は、そのような自然の豊かさを「生」の豊かさとした。そんな時代を過ごした者達は、やがて戦争という「生死」にかかわる事件を経験し、そして戦後民主主義のもとで資本と消費という矛盾のダイナミズムに巻き込まれることになった。そんな時間の推移は、素朴な自然世界に生きた者が、自然世界の人工化(近代化)への過程を心身ともに被った時間であり、その近代化によってもたらされた自然破壊との二重の危機意識を内的に孕んだ精神は、計り知れぬほどの違和の場となった。

精神は幻触の者達に向かって、自然や人間を変質させてしまった「近代」に対して明晰さをもって向かい合うことを求めた。そして知覚から認識への回路、事や物の存在について注意深くあれ、と言った。1960年代後半は幻触の者の精神(心身)の問いかけの場だった。

幻触の者達の危機意識は、1969年、第9回現代日本美術展に於いて作品?として結実する。前田守一は人工を極力避け、氷の自然性を重視。氷は鉄製の容器の外側に水滴を発生させ、気化し自然に帰る。小池一誠は自然石を鋭利な刃物で切断、人工と自然との絶妙な関係。飯田昭二は、山の桧を先端から根本まで垂直に切断。半分を山に残し、半分を人工の場・美術館へ(トランスマイグレイション)。これらの作品群の作法に精神の明瞭な実践を感じる。それは芸術的創造性であるよりも、自然と人間との関係に対する危機意識の芸術的現れとみるべきだろう。

2016年9月

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