1. はじめに

数は少ないにせよ、我が国にも伝説的な展覧会というものがあった。今回取り上げる「トリックス・アンド・ヴィジョン盗まれた眼」展(以下、同展と略す)は、そうした展覧会のひとつとされている。同展が開催された背景については、これから見てゆくことにするが、表だった印象としては、一気に開花したが、その後、いつの間にか消え失せてしまった展覧会という感じがある。輝きとはかなさが、一瞬のうちにかいま見れるのだ。そこが、伝説の伝説たるゆえんかもしれない。同展は、1968年に東京の二会場で開催された。4月30日から5月11日までが村松画廊、4月30日から5月18日までが東京画廊、企画者は、中原佑介と石子順造というふたりの美術評論家である。国内から合計19名の美術家が参加したが、そのうち静岡に関係のある美術家が重要な位置を占めていた。飯田昭二、小池一誠、斎藤司郎、鈴木慶則、丹羽勝次、前田守一の6名である。かつて静岡に職を得ていた石子が、郷土出身者を優遇したわけではないだろうが、同展にふさわしい資質(俗にいう、トリッキーな資質)をそなえた美術家が身近にいたことが、ひとつのきっかけとなったことは間違いない。現代美術の文脈において、一地方にすぎなかった静岡周辺に、どうしてそういう資質をそなえた美術家が集まったのか、今なお不明な点が多い。

2. 60年代の芸術

60年代末に開催された展覧会は、60年代美術の総決算であるとともに、70年代美術の先駆けでもあった。1960年代がどういう時代であったかは、さまざまな年表を見ればすぐに分かるだろう。あらゆる意味において、激動の時代である。もちろん、美術の世界も例外ではない。この時代だけに焦点を当てた展覧会が、いくつか開催されたことから考えても、1960年代がどれほど興味深い時代であったかは、容易に想像できる。ちなみに1968年に、内外でどういう展覧会が開催されたか、少し列挙してみよう。国内では、恒例の「第8回現代日本美術展」(東京都美術館)や「現代美術の動向展」(京都国立近代美術館)、さらには、「ダダ展」(東京国立近代美術館)、「現代の空間’68(光と環境〉展」(神戸・そごう)、「第1回現代彫刻展」(神戸・須磨離宮公園)などが開催された。いわゆる「反芸術」の嵐がようやくおさまり、1970年に開催される万国博覧会をひかえて、テクノロジーを駆使した美術や、後に「もの派」と呼ばれる美術家たちが胎動しはじめた時期、といえるだろうか。一方国外では、「ミニマル・アート」(ヘメンテ美術館、オランダ)、「第4回ドクメンタ」(カッセル、ドイツ)、「第34回ベネチア・ビエンナーレ」、「アート・オブ・ザ・リアル」(ニューヨーク近代美術館)、「機械時代の終りにみられる機械」(同)などの重要な展覧会が開催された。ミニマル・アート、ポップ・アート、アルテ・ポーヴェラが共存していた時期であり、コンセプチュアル・アートの兆しも見えていた。政治に目を向けると、そこには美術を上回るカオスが見てとれる。全国の大学を席巻した学園闘争、ヴェトナム戦争の終結、パリの5月革命、ソ連などによるチェコ侵攻、マーチン・ルーサー・キングとロバート・ケネディの暗殺、などなど……。1960年代の芸術がいかなるものであったかについて、たとえばダニエル・ベルは、その特徴を、政治的ラディカリズムと文化的ラディカリズムの両面から捉えている。彼は、1950年代の静かで高級な芸術と比べて、60年代の芸術は、騒々しく反抗的であったという。芸術家の疑いの目が、既製のすべてのシステムに向けられていたことを思えば、こうしたラデイカリズムは、生まれるべくして生まれたといえるだろう。だがベルは、60年代の文化的ラデイカリズムは、政治的なそれに比して独創的ではなかったと考えた。彼にとって、騒々しい反抗は、ダダイズムやシュールレアリスムという、過去の芸術の遺産の真似事にすぎなかったからである。ベルが懸念したように、政治に従属したとまではいわないにせよ、「はじめに政治ありき」という大状況から、60年代の芸術は生まれたのだろうか。たしかに政治の季節のもとでは、芸術と政治を二項対立においた方が、両者の関係は、読み取りやすいものになる。芸術を支配下に置こうとする政治と、そういう政治に反抗する芸術という図式は分かりやすいし、何より芸術家にとって、反抗すべき敵を容易に想定することができる。一方、芸術が政治の干渉を逃れて、自らの館に閉じこもることができれば、その場合も、両者の関係は、読み取りやすいものになる。だが現実には、そうした読み取りやすい関係にあることは稀であり、両者は、反目し合いながら、互いを利用している。たとえば芸術は、政治と対峙することによって、自らの存在意義を高めることができる。逆に政治は、芸術を尊重する(ふりをする)ことによって、自らを権威づけることができる。

「……20世紀を見ていると、奇怪なことだが全体主義下の社会あるいは国家ほど、芸術の力を信じているものはないという逆説にめぐり合うことになる。前衛的な芸術を抑圧し、政治的イデオロギーのプロパガンダになるように圧力を加えたのも、この芸術の影響力や教育的な効果にたいする過信からであった。……とくに顕著なのは60年代の終わりから70年代のはじめにかけて、文化そのものの深部に内在する政治性にたいする批判であった。この多分に矛盾を含んだ闘争は挫折したし、その結果は大して評価されてはいないにもかかわらず、それ以後の芸術はこの期間に意識的、無意識的に経験したことをひとつのきっかけにしていることはまちがいない。……」

これは、日本の20世紀の芸術を概観した多木浩二の言葉である。政治や芸術のラデイカリズムが、権威に対する異議申し立てに終始できた時代は、互いの不信を素直に信じられた点で、牧歌的であったとさえいえるだろう。60年代は、異議を申し立てるべき本当の相手が、外にではなく、自らの内にあることが見えはじめた時代、いいかえれば、反抗のための反抗が、大義を見失いはじめた時代である。あらゆる反抗は、一義的なものでなくなりつつあった。先にベルは、60年代美術の特徴として、「芸術と人生の融合、作者と作品と環境の一体化、絵画の意味の破壊、ハプニングの登場」を挙げていたが、それは、我が国の「反芸術」と呼ばれる動向にも有効であるように思われる。美術評論家の東野芳明が命名した「反芸術」は、当初、特定の作家や作品を念頭に置いていたが、やがて、既製の芸術に異議を唱える先駆的な作品全般を指すようになった。絵画と彫刻、さらには、芸術と非芸術(日常)など、あらゆる区分けを解体しようとした「反芸術」の身振りは華々しいものであったが、反面、解体すべき芸術を暗黙のうちに前提としていたふしがある。「反芸術」が芸術に回収される道筋を見てゆくと、前衛を名乗ることは容易いが、前衛であり続けることは至難であるという、古くて新しい教訓を思い起こさざるを得ない。「反芸術」の作品は、スキャンダラスで人目についたために、60年代の美術を支配していたかに見えるかもしれない。だが、ネオ・ダダやポップ・アートのように、大芸術を椰楡するのではなく、極限まで純化することで、大芸術を乗り超えようとする作品も存在していた。モダニズム美術の極北たるミニマル・アート、絵画や彫刻を本質的な要素に還元するために、不要なものすべてを捨て去ったミニマル・アートは、その代表例である。とくにアメリカは、ポップ・アートとミニマル・アートという、対極にある美術が展開しつくした場所であり、そのためもあって、両者が混在し得た不可思議な場所であった(対極にありながら、両者が、反復やグリッドなどの似かよった構造をもっていたのは、知られているとおりである)。

3. トリッキーな美術と高松次郎、ジャスパー・ジョーンズ

トリッキーな美術は、60年代後半に現われたあと短命に終わったが、欧米では似かよった動向がほとんど見当たらない。強いて言えば、視覚と戯れたオプティカル・アートのひとつといえるだろうか。これまでトリッキーな美術が顧みられなかったのは、トリック(ごまかし、錯覚)という言葉自体が、どこかネガティヴな印象を与えたためである。トリック・アートと称する娯楽美術も、そうした偏見を助長する一因となったかもしれない。トリッキーな美術にかぎらず、出自を問うとき問題になるのは、誰が、どこで、いつ、はじめたかということである。美術動向の発生源を詮索するのは、後に生きる者の悪弊といえるが、この場合、高松次郎に触れないわけにはいかない。高松の作品は、時とともにめまぐるしく変貌したが、初期の作品の影響力は、今考える以上に絶大であった。彼もまた静岡を訪れて、地元の美術家たちと交流したので、作品や考えは、彼らにもある程度伝わったと思われる。高松が実質的にデビューしたのは、読売アンデパンダン展のただなかであり、そこでは「反芸術」が、支配的な美術になりつつあった。高松が、そうした反主知主義ともいえる動向から抜け出したのは、周知のとおり、「影」の絵画以降である。高松は、1964年にはじめて発表された「影」の絵画の制作の動機を、こう語っている。

「……SFです。……結局それらは、イマジネーションの中だけの事件で、イマジネーションはいくら拡大しても現実には結びつかない。そこで、現実の中でSFのようなことが起ったら、おもしろいと思った。或る晩どこかのビルの壁にでも通行人の影だけを非常にリアルに描いておく。少なくともこの地球上では、ものがないのに影だけがあるということは起りえない。そんなことでともかく試作としてパネルに影を描いて展覧会に出したのです。……」

「……60年代に入って、私には芸術全般にわたって大きな懐疑がありました。それは当時の時代性でもあったのですが、私は自分なりに芸術の表現は、限りなく無に近いことが好ましいと考えていました。それが芸術というカテゴリィの枠をはずすことにつながっていったのです。そして日常のなかで、現実のさまざまな事物をあらためて見直すことになりました。物理現象としての影に私が出会ったのは、そういう時だったのです。……」

ふたつの発言の間には、二十年の歳月が流れているが、作り手の発言は、常に制作の後を追う。発言をそのまま鵜呑みにして良いかどうかは疑間であるが、「影」の絵画が話題になるにつれて、さまざまな謎解きが生まれ、ある雑誌では、「影」に関する論争らしきものがはじまることになった。視覚と存在のずれ、観念と実在のずれ、絵画に即していえば実像と虚像のずれ、それらのずれを巧みに図解した「影」の絵画。陰影法が、人や物のヴォリューム表現(実在感)に欠かせない、絵画表現の伝統的手法であることは知られているが、「影」の絵画は、影だけを描くことで、人や物の不在感を際立たせたのである(ちなみに、その後の「遠近法」のシリーズでは、絵画表現のもうひとつの伝統的手法である遠近法が、そのまま作品と化している)。

存在することで不在を喚起する影は、元来両義的なものである。高松は、「影」の絵画に事物を取り込むことがあったが、その場合、事物、事物が映し出す影、描かれた影(さらには、観客の影)が画面で融合することになる。こうした「影」の絵画を「見る」とき、「在る」ことを確認するだけの従来の見方は無効となり、「見る」ことの問い直しがはじまるが、情況論議が大半の当時にあって、言説で同じような問い直しを行ったのは、美術批評家の宮川淳である。彼にとって、「見る」こととは、作品の意味を読み取ることではなかった。「作品はかつてのシニフィエ(意味されるもの)とシニフイアン(意味するもの)との統一であったものから、単なるシニフィアンと化した」からである。表現と内容が表裏一体の作品から、単なる表現と化した作品を「見る」とは、どういうことなのか。宮川はいう。

「……見るとはここで単に視覚の網膜的ないし光学的事実、あるいはその心理学を指すのではない、いいかえれば、伝達や享受のプロセスを意味するのではない。見るとはシニフィエを読むことではない、逆に見ることそのものがひとつの意味作用(意味の伝達ではなく、意味の生産)のシステムとして捉えられなければならないのだ。……」

「見る」ことの問い直しについては、他にもジャスパー・ジョーンズの例がある。ジョーンズは、ロバート・ラウシェンバーグとともに、先に述べた「ネオ・ダダ」を代表するアメリカの美術家である。我が国の「ネオ・ダダ」と異なり、抽象表現主義とポップ・アートという、二大美術のはざまにあった「ネオ・ダダ」は、「芸術的なもの」の破壊より、「非芸術的なもの」の創造に力点を置くことになった。ジョーンズが好んで取り上げた主題は、標的、数字、国旗などであるが、それらはすべて、二次元的で「デザインする必要のない」(ジョーンズ)ものばかりである。私たちは、こうした作品をとおして、すでに「知っている」何かを「見る」わけだが、このとき、「見る」ことは、「知る」ためのひとつの手段になっている。両者は、いわば主客の関係にあった。ジョーンズは、「見慣れているが、知られていないもの」や、「知られているが、見慣れていないもの」を作り出すことによって、「見る」ことと「知る」ことの関係を危ういものに変えてしまった。国旗についていえば、見慣れてはいるものの、詳しく知っているわけではないので、この場合、「見る」ことが、必ずしも、「知る」ことに結びついていない。描かれた国旗を「見る」ことは、現実の国旗を「知る」ことの前提とはならないのである。一方、標的についていえば、「知っている」のは、知識としての標的であるために、棚密に描かれた標的に出会うと、それは、直ちに「見知らぬ」ものになってしまう。この場合、「知る」ことは、必ずしも、「見る」ことに結びついていない。ジョーンズが、蜜ろうを駆使して国旗や標的を精級に描いたのは、そうすることで、描くことの疑わしさを強調したかったためである。彼もまた、敬愛するマルセル・デュシャンとともに、疑わしさを美の中心に据えた美術家のひとりであった。

4. 「幻触」と石子順造

今回、同展を取り上げた主な理由は、先に述べたとおり、静岡在住の美術家が多数参加していたためである。これらの美術家は、「幻触」というグループに所属していた。当時は、小さな美術グループによる挑発的な活動が、全国各地で断続的に行われていたが、「幻触」も、そうしたグループのひとつであった。中心にいたのは、美術評論家の石子順造である。石子は、東京での美術動向を静岡に伝える役割も果たしていたらしい。石子と「幻触」の関係から思い起こすのは、吉原治良と「具体」の関係や、土岡秀太郎と「北荘・北美」の関係だが、両者はまさに、似て非なる関係といえるだろう。吉原や土岡には経済的な基盤があり、ふたりは、物心両面からグループを支援し続けるリーダー(あるいは、オーナー)であったが、石子は違う。グループとしての結束が緩やかで、メンヾ―も流動的であったために、石子と美術家の関係も、美術家相互の関係も、一枚岩ではなかったのである。「幻触」は、1966年に生まれ、1968年の同展でピークに達した。いつ終ったかについては意見の相違があるが、実質的には60年代とともに終ったようだ。いずれにせよ、短い命である。石子が、現代美術に興味を失ったことや、メンヾ―が個々に活動しはじめたことなどが、衰退の原因と思われるが、はっきりしたことは分からない。はじまりは特定しやすいが、終わりはあいまいというのが、美術運動の宿命なのだろう。「幻触」という名の由来は、「ダリの複製を前にして現代美術は、虚と実のはざまにある「幻」かも知れない、という鈴木(慶)のつぶやきと、「触」というグループ名をつなぎ合わせた」(前田)という説と、「…あまり深い根拠はなく、僕と丹羽君たち数人で「触」というグループをやっていたのと、皆で話たり考えることが、あまりにも幻ぽかったから…」(飯田)という説があるが、どちらにしても、幻に触れるという命名は、言い得て妙である。「幻触」のイデオローグである石子は、グループを特徴づけるトリッキーな美術を正当化すべく論陣を張ったが、そのなかで良く知られているのが、「と」という理論である。本展のパンフレットの冒頭にも、「トリックス・アンド・ヴィジョン」の“アンド”について、「…“アンド”によって接続される二者が、それぞれ要素でありながら同時に全体化しようとする、そのような連動への指示を意味しているようにとれる。……」と言及されている。二項を対立させることで、それぞれの属性を際立たせるのがモダニズムの手法とすれば、彼は、今でいうポスト・モダンの手法を試みた。二項のどちらかにウエイトを置くのではなく、「と」の部分、二項の「あいだ」を求めたのである。

「……たとえば、鈴木(慶)のダリの作品に即していえば、裏「と」表、本物「と」模写、立体「と」平面、幻想「と」現実、オブジェ「と」絵画という二項が、単に隣接しているのではなく、二項はそれぞれメビィウスの輪のように連動し、創造力の運動体となって我々の知覚を刺激してやまない……」

谷川晃一は、二項の例を上のように語っているが、立体と平面、オブジェと絵画という二項であれば、両者の「あいだ」を志向した手法や作品は、モダニズムの美術にもある。たとえば、コラージュやレリーフは、トリッキーな美術よりはるか以前の、二十世紀美術の革新的手法であったし、また、ジャスパー・ジョーンズの同志でもありライバルでもある、「ネオ・ダダ」の美術家ロバート・ラウシェンバーグのコンバイン・ペインティングは、トリッキーな美術と同時代の作品であったのである。

二項を対立させることは、好むと好まざるとにかかわらず、二項の間にヒエラルキーを設けることである。「と」の理論は、あらゆるヒエラルキーに異議を申し立てたわけだが、我が国の現代美術において、二項(物体と観念など)が対峙した時期があったかと厳密に問われれば、首をかしげざるを得ない。「と」の理論が喝破する前に、二項は融和していたのである。二項の属性を際立たせることができなかったのは、モダニズムを通過することができなかったことであり、我が国の現代美術の弱みといえるかもしれない。だが、あいまいさは、見方を変えれば、しなやかさということになる。弱みはまた、強みにもなり得るのである。「と」の理論は、石子の晦渋な言い回しのために読み取りづらいが、難解なわりに(あるいは、難解ゆえに)図式的である。一方、トリッキーな美術も、仕かけにかかわらず(あるいは、仕かけゆえに)図式的である。トリッキーな美術が、「と」の理論に最も見合う作品であったかどうか、また逆に、「と」の理論が、トリッキーな美術を正当化する最強の理論であったかどうかは定かではないが、いずれにせよ、両者は、図式的であることによって過剰な整合性を見せている。両者に「あいだ」がなかったのは、ひとつのアイロニーと言うべきだろうか。

5. 「トリックス・アンド・ヴィジョン」展

本展の前後に開催された展覧会の資料を見ていると、今では想像もできないだろうが、トリッキーな美術の氾濫に驚かされる。大袈裟に言えば、一世を風靡していたのである。同展に出品した美術家のうち静岡以外は、岡崎和郎、岡田博、奥田善巳、柏原えつとむ、河口龍夫、須賀啓、関根伸夫、高松次郎、立石紘一、中西夏之、野村久之、堀内正和、前山忠の13名。バンフレットには、石子が「絵画論としての絵画」、中原が「TricksandVision」というエッセイを寄せている。目録がないので、出品作品の詳細は不明である。パンフレットのなかで、中原は、「見る」ことについてこう述べている。

「……「見る」ことを、人間のあたりまえの行為としてとらえるのでなく、あたかも形式論理のように、極度に知的なものとしてとらえること。……」

「……視覚は視覚であるゆえに、トリックをつくりだしうるのである。……こういう動向が著しくなったのは、美術が、「見る」ということそのことを思考の対象としつつある現在の状況によるだろう。……」

一方、石子のエッセイには、「眼を盗まれる」という副題への言及がある。

「……絵画を絵画として成立させてきた従来までの視線が、要するに、眼を盗まれる体験であったことを証しはすまいか。……」

展覧会に対する思い入れなどから判断すると、本展は、どちらかといえば、石子が主導したと思われる。石子は、「眼を盗まれる」ような、従来の視線のもとで成立している作品ではなく、「見る」こと自体を思考の対象とするような視線、そういう視線のもとで成立している作品を集大成しようとしたわけだが、その背景には、高松次郎の実作があり、それに影響を受けた若い美術家たちの作品があり、それを説き明かそうとする評論家の言説があった。同じような問題意識をもった美術家や評論家の一群が、形成されていたのである。同じような問題意識をもっていても、取り組む手法は美術家によって異なるし、他の選択肢(たとえば、ジョーンズの手法)もあっただろうが、このとき選択されたのは、結果から見て(美術家自身が、了解していたかどうかは別にして)、トリッキーな手法であった。本展は、当時、どのように受け取られていたのだろう。企画者の思い入れと観客の受け止め方が、大きく食い違うのは展覧会の常だが、本展も例外ではない。いろいろ調べてみたが、展覧会評らしきものはほとんど見つからないし、見つかっても、中味は、パンフレットの記述以上のものではない。今でもそうかもしれないが、オップ・アートやキネティック・アートなど、何らかのトリックのある美術は、手品を見るような眼で見られることが多い。種が分かれば、それでおしまいというわけである。トリッキーな美術は、作り手にとって、軽薄な面白美術ではなかったはずだ。というか、軽薄そうに見えながら、その実、「見る」という制度そのものを問いかけた点に重きを置いたはずだ。まさに、「……「見ること」が制度化される過程に対する文明批判から、「見ること」と「在ること」が不可避的にもつ矛盾についての問題の自覚ヘの、熱のこもった八年間であった……」(飯田)のだが、観客の大半はそうは見ない。知的操作の面白さだけを、見てしまうのである。ここで、静岡在住の美術家6名が同展に出品した作品を、可能なかぎり再現することにしよう。展覧会場とその周辺の写真も参照するが、美術家自身の記憶があいまいなために、確認できない作品が多いことを、はじめにお断りしておく。前田によると、「…飯田は、鏡のシリーズを、前田は、遠近の物差しのバリエーションで、鈴木は、描きかけのキリコの絵をイーゼルの上に置き、小池は重なり合った10個の球形が弧を描いて移動する様を描き、丹羽は、平面を紐をかけられた箱に見せかけて切り抜く…」といった具合であり、飯田によると、「……前田守一の遠近法でできた「ものさし」や、丹羽勝次の立体に見える「平面の箱?」、鈴木慶則の「ダマシ絵……」や、「……鈴木慶則君の「絵を描く」ということそのものを描く、トロンプルイユの逆説性、丹羽勝次君の逆遠近の箱の絵、前田守一君の遠近法でできた「ものさし」、小池一誠君の空間の現象学的解釈、僕の鏡による作品、……」ということになる。鈴木は、キリコによるトロンプ=ルイユ(だまし絵)を出品した。周知のとおり、トロンプ=ルイユは、それ自身の歴史を語れるほど、多様な展開を見せているが、観客の眼を欺くためには、それに見合うだけの描写力が必要である。トロンプ=ルイユを断念した後の、鈴木の長いスランプを思い起こすとき、そうしたアカデミックな技量が、ひとつの枷となったことは間違いないだろう。石子から、「手に呪われた堕天使」と呼ばれたゆえんである。前田は、「遠近のものさし」のシリーズを出品した。本人の説明によれば、「遠近のものさしに書き込んだ目盛りや数字は、遠近法に基いて実体をコピーしたものではない。イメージとしてのルールを別なイメージに換置したもの」ということだが、絵画空間を作り出すための遠近法が、ここでは、視覚のあいまいさを確認するために取り上げられている。高松も、似たような作品を制作したが、椅子やテーブルではなく、遠近を測る物差しそのものを取り上げた点がミソであろう。飯田は、「鳥籠」のシリーズを出品した。鳥籠には、ピンポン玉やコップなどが入っており、真ん中は、両面の鏡で仕切られている。そのため、角度によって、ピンポン玉やコップが変化して見えるが、同じころ、河口龍夫も、鏡を用いた作品を制作していた。鏡は、視覚のトリックを最も身近に体験できる日用品であり、古今の美術家だけではなく、文学者にも多くのインスピレーションを与えている。丹羽は、切り抜きによる箱の作品を出品した。箱は、ひとつの場合、いくつか連なっている場合、箱のなかに箱がある場合などさまざまだが、立体のように見えながら、その実、平面である。紐で梱包したように見せかけたのも、立体感を際立たせるひとつの工夫かもしれない。関根伸夫も、立体に見えながら、平面であるような作品を残している。前田の証言によれば、小池は、「重なり合った10個の球形が孤を描いて移動する」作品を出品した。円から球への移り行きは、丹羽の箱と同様、立体であるように見えながら、平面に描かれている。切り抜きも同じである。小池は、以前から虚と実の関係に興味をもち、たとえば、切り取った電車の窓枠を額縁として、窓に映るさまざまな像を描いたりしていた。

6. トリッキーな美術と「もの派」

60年代の欧米の美術動向に左右されない、我が国固有の美術のひとつとして評価されているのは、「もの派」である。アルテ・ポーヴェラ、アンチ・フォーム、アース・ワークなどとの関連を指摘する論者も多いが、「もの派」とは、「1970年前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体(モノ)を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやモノの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たち」(峯村)とされている。ジャスパー・ジョーンズの日本での同伴者は、前にも名の挙がった東野芳明だが、「もの派」の批判的同伴者は、美術評論家の峯村敏明であった。トリッキーな美術と「もの派」の関連については、論議が尽くされた感があるが、結論めいたことを言うと、「もの派」は、自らの母体ともいうべき、トリッキーな美術を否定することで展開できた。知的操作による高松の「影」や「遠近法」の作品は、いわば反・「反芸術」たる主知主義の作品であったが、当初、主知主義のそれと見紛うばかりの「もの派」の作品は、主導者李禹煥の理論による導きもあって、劇的転換を遂げることになったのである。図式的にいえば、「反芸術(反主知主義)」→「トリッキーな美術(主知主義)」→「もの派(超あるいは脱主知主義?)」、ということになるだろうか。トリッキーな美術から「もの派」への移行を示す記念碑的作品が、第一回現代彫刻展(神戸・須磨離宮公園、1968年)に出品され朝日新聞社賞を受賞した、関根伸夫の「位相一大地」であることは、周知のとおりである。本稿のテーマである「トリックス・アンド・ヴィジョン」展が開催されたのもこの年であり、当然のことながら、関根も出品している。わずか数カ月の後に、どのような転回が起こったのだろうか。「位相一大地」も見方によれば、トリッキーな三次元の作品ということができる。後先を考えれば、ポップ・アートの美術家クレス・オルデンバ―グは、1967年に、自分の墓にふさわしい穴を掘って埋め戻すという行為を行っている。円筒状の穴を掘り、かたわらに同じ容積の土を積み上げる行為は、虚と実というトリッキーな文脈でも充分読み取れるが、そうならなかったのは、いくつかの理由が考えられる。まず、身体を用いて自然と取り組む手法である。身体や自然というと、現代美術らしからぬ原初的な趣があるかもしれないが、60年代には、自然へと回帰するアース。ワークや、ハプニングという身体行為による作品、さらには、視覚の身体性を問う現象学さえあった。身体や自然は、当時、芸術のひとつのキー・ワードであったのである。身体を酷使して制作した作品が、頭や心で想定したあるべき姿を裏切ることは多々あるが、不可思議な充足感と高揚感に満ちた「位相一大地」も、知的操作のもとで想定された姿を見事に裏切ることになった。穴の直径220cm、円筒の高さ270cmという大きさと、周辺に他の作品や建物が点在する公園という設置場所も、「位相―大地」に、知的操作が遊戯に見えるほどの存在感を与えたはずだ。最後に最も重要なのは、制作後の理論的な裏づけであるが、これは、関根自身と李によって行われた。関根の制作時の回想は、次のようなものである。

「……ある思考実験としてこの地球にある一点穴をあけ、そこから土を掘り出し、その片端に積み上げる。それを永々と繰り返す。……すると、いつの間にか地球は卵の殻状になってしまい、さらに強引に殻を内側からつまみ出すと、地球は反転してしまう。……そのプロセス全体を示すため、円柱状の穴を掘り、その端には円柱状に土を積んだ訳である。……」

一方、制作後の回想は、トポロジー(位相幾何学)の空間認識法による思考実験という、制作時の弁とは裏腹なものである。

「……出来上がった作品はその空間認識法をはるかに超えて物質感あふれるこの現実の迫力に驚いてしまったというべきかも知れない。つまり新しい空間の認識という作家の意図は、作品をつくる契機にはなっても作品は別の存在として独立したものだということである。……次第に私は自然や世界という物質感あふれるこの現実に多少行為を加えることによって、鮮烈な風景を現出することに力点を置いていった。……」

制作時と制作後では、同じ作品を認識する上でこれほどの違いがある。関根と李は、「位相一大地」が制作された一カ月後にはじめて出会ったらしいが、その後の李のいくつかの論稿が、作品の本来の姿を明かす上で重要な役割を果たしたことは、既に知られているとおりである。もの自体ではなく、ものの像と関わるかぎり、ものは、人間に従う対象に過ぎない。「位相―大地」を、そうした従来の表象作業のもとで捉えることもできたはずだが、李は、そうしなかった。「一つの大地というものに対して大地以外の理念をたてるのではなしに、大地をもってなお大地そのもの」を表わしていた「位相一大地」に、直接出会ったのである。表象作業から出会いの世界への移行は、「もの派」の重要なスローガンのひとつであり、李の論稿の副題にもなっている。

尾野正晴(「トリックス・アンド・ヴィジョン盗まれた眼」展について『静岡文化芸術大学研究紀要』第2巻2002年より抜粋して転載)