April 13 – June 30, 2002

Artists:
Okada Yo
megumi nakai
Matsuo Sho

Dear Mr. John Cage
B1F
Dear Mr. John Cage
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Dear Mr. John Cage
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Dear Mr. John Cage
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拝啓 ジョン・ケージ様

岡田 葉、メグミ・ナカイ、松尾 尚 3人展

2002年4月13日 – 6月30日

本展は、作風のばらばらな3人の作家によって構成されます。彼らの顔ぶれは全くの偶然浮上したものですが、ふたを開けてみると、思いがけずある共通点が見られました。

それは、彼らの育った音楽背景が非常に重なることです。メイン・カルチャーとは離れたところでお気に入りの音楽を見付け、愛で、のめりこみ、そしてその音楽こそ彼らのつくりだす芸術に多大な影響を与えているという三人の選んだメディアは見事に重ならず、3つの軌跡は離れたところで別々の方向に伸び、そしてここで交わることになります。

三つ編みや白いレースをクローズアップしたり、吉川ひなの、鈴木あみといった、マスメディアに登場する芸能人の顔をモチーフにした絵画を描く岡田 葉。

メグミ・ナカイは、中指を立てた幾つもの石膏の手型を並べたり、雑誌のQ&Aコーナーに寄せられた質問に対する独自の回答集「Q+A」など、人間社会を鋭く風刺する作品を制作する一方で、死んだ飼い犬を百目の犬として蘇らせ、他の犬の反応を写したビデオ作品を発表したり、その対象は様々な生理的コンセプチュアル・アーティスト。表現のメディアは限定されず、今回は陶芸を用いた作品を中心に発表します。

松尾 尚は、ルドルフ・シュタイナーの思想に感銘を受け、アメリカ留学。その後渡独し、独学で写真を学んだ実験写真家です。本展では「時間と運動」をテーマに、組み写真で構成される作品を発表します。

彼らのリスペクトする実験音楽家:ジョン・ケージをタイトルに掲げ、まさにケージ音楽の提唱した“Chance Operation”(偶然性)に導かれて、3つの異なるアプローチはどのような旋律を描くのでしょうか。

鎌倉画廊が数年ぶりに推薦致します若手作家3人による、予測不可能な実験的楽曲をお楽しみ下さい。

作品出展作家: 岡田 葉、メグミ・ナカイ、松尾 尚


「それぞれの旋律」

「美術ジャーナリスト」と称しながら、私は近ごろ、展覧会に足を運ぶのを憂鬱に感じることがある。

それはグループ展のときである。ここでいうグループ展とは、美術館など展示施設の学芸員や、このごろ増えてきたインディペンデント・キュレイターと呼ばれる人たちが、何らかのテーマを設定し、そのテーマに合ったーーと、かれらが信じる。ーーアーティストたちをとりあげた展覧会で、近年、国内外で花盛りである。大抵の場合、選ばれたアーティストたちの仕事は、掲げられたテーマと無関係に終わる。まれに、参加しているアーティストたちの作品がみな、テーマに表れた学芸員やキュレイターの思想に寄り添っていることもあるが、そんな場合、しばしば、その思想が間違っている……。

うれしいことに、鎌倉画廊で開催中の《拝啓 ジョン・ケージ様》は、グループ展に付きまとうそんな概念とは無縁である。

岡田葉、メグミナカイ松尾尚の3人をとりあげているが、かれらに特定のテーマを押し付けているわけではない。展覧会名の由来は、この3人のアーティストたちが“実験音楽家”として知られるジョン・ケージに、それぞれの理由で関心をもっていることだという。ケージの“実験音楽”は、ラディカルであっても聴いていて楽しくないから、私はきらいである。同様に無味乾燥な展示ではないかと心配していたが、杞憂であった。みずみずしく好感のもてる作品が大部分なのである。

岡田葉はテレビなどで見ておもしろいと思った人物の顔を描くと聞いたが、「編む」「結ぶ」といった行為やその結果の形態にも特別な興味をもつようだ。女の子の三つ編みの髪を強調した作品や、白いレースの襟だけを描いたカンパスがあるかと思えば、《しめ縄》なる作品も今回登場した。題名どおり、しめ縄を描いているのである。描き手のこだわりを伝える細かな筆触。視線がそのまま作品に転ずる、若いアーティストのさわやかさが好ましい。

ナカイはコンセプチュアルである点で、ケージに似ているかもしれない。作品のひとつひとつが、社会と文化に対するさまざまな角度からの検分となっている。《僕ハ本デハナク、タダノ陶器デアル》という一点は、陶製の開いた“本”にその文句が英語で彫られていて皮肉な味わいもある作品だが、胸の温かみのある表情が、概念臭さを消しているのがよい。

松尾のモノクローム写真作品は“実験”を写す。試験管の中で沸騰する水、フラスコの中の線香花火。だが、一筋ほどの竹を人の手と二重露光で撮った作品に、自然現象以上の価値を求めるアーティストの志を感じる。アートは自然を人智と重ね合一するのである。

総合の松尾、分析のナカイ、そして直観ならぬ直感の岡田ーーと評せるだろうか。ともかく、それぞれの“旋律”は互いに干渉せず、妙なる対位法を成している。画廊のある山の林の、鶯の声を加えて四重奏……。

名古屋 覚(なごや さとる・美術ジャーナリスト)


「画布は皮のようである」とティッツィアーノの“The Flaying of Marsya”を評したのはフランク・ステラであったが、表皮といえば自然と「顔」を連想する。

「顔」と「絵画」は肉親関係のようだといつも思う。

何か人生を含んではいるが、そこにあって視線を長い時間奪う様相=表面を示している特質。言い換えれば、内容と形式が共存している点に於いて。さらに言語を召喚するとしたら、体でありながら心をも表すという両義性。また臨床病理学の切り口からは、アクチュアリティ(こと)とリアリティ(もの)が混在している状態だと、その共通性を表現することも可能だろう。

そしてここは重要なのだが「仮面」とは異なって、「顔」も「絵画」も「直接」外に触れている点だ。

直接・直接・直接……

私は「直接」に魘されながら(『直接』は痛みを伴うので)、ふと、時間を共有することができない亡骸なのに、構造もすっかり見抜かれているのに、飽きることなくいろいろな見かけのパターンを見せ『直接』外部からの影響を受ける「髪の毛」の「フォーム」=髪型は、なんて絵画的なんだろうとつぶやいた。

絵画は、それに似ているものをモチーフとして引き寄せるのだろうか。

そのくせ類縁関係にあるもの同士は相殺しあうので、わずかな違いからズレが生じ、たとえ身近なモチーフからスタートしたとしても、主体として描いているはずの制作者は思いもよらない画像を見せつけられて、心の底から驚くのである。あんなに手塩に掛けたのに、自分が他人になる瞬間に居合わせたために。

岡田 葉