この展覧会に集められているのは、70年代に発表された、7人の美術家による写真を用いた作品である。1983年に東京国立近代美術館が「現代美術における写真」というタイトルで、内外の美術家の作品を集めた同種の展覧会を開催したことがあるが、今回のこの展覧会はそのミニ版的性格のものともいえよう。
美術家が表現の媒体として写真を用いるという現象は現在も散見されるが、70年代にくらべるとぐっと少なくなったように感じられる。この展覧会に選ばれた7人の美術家についてみても、故人となった山中信夫を別として、今も写真を用いて作品を制作しているのは半数である。そのことは、70年代に顕著だった美術家の写真への関心が、どういう特徴をもつものであったかを推測させる一助になるかと思う。あるいは写真への関心は一様ではなかったということを物語っているといってもいい。
榎倉康二、眞板雅文、河口龍夫、野村仁の4人は、パフォーマンス、あるいはイヴェントの記録としての写真というものへの関心が出発点となっている。榎倉の「予兆」はそれをもっとも端的に示す作品である。ただし、記録としての写真といっても、ただ単にパフォーマンスを写真の映像として残したものではなく、海岸の波の形と体形とを合致させた一瞬を撮ったこの作品は、榎倉のパフォーマンスが写真を前提とした、いわば写真のためのパフォーマンスであることを物語っている。
眞板の写真による作品も、ほぼ似たような発想から始まった。そのうち眞板は、写真そのものをイヴェント的展示――今でいうインスタレーションの一要素として組込むということをおこなうようになった。「流動」はそのヴァリエイションのひとつだが、この作品では波面を撮った写真と、海岸でおこなわれたパフォーマンスの物質的残像ともいうべき鉛の棒とが組合わせられている。
河口龍夫と野村仁は、時間の推移にともなう現象の変化の記録としての写真が出発だった。河国の「コスモス」は、夜空の星々と地球との空間的距離を時間の隔たりに置換したコンセプチュアルな性格の強い作品だが、その土台には時間という観念がなお根をはっていることが知られる。
野村は「ムーン・スコア」において、対象の時間的変化を記録するという方法に新展開を与えた。これは一定期間、毎夜月を撮ったフィルムだが、手もちのカメラで撮るためにフィルムの枠内の月の位置が変動する。それを五線紙上の楽符になぞらえ、月の写真から音楽をひきだしたのである。その音楽は一見ならぬ一聴に値すると思う。
さて、これら4人に対して、山中信夫、若江漢字、斎藤智の3人は違った角度から写真への興味を示した。それは映像と実在の世界との関係という視党の問題への関心である。多摩川の水面を撮った写真を、再び多摩川の水面に投影するということをおこなった山中の初期の仕事は、それを直截に示している。映像と現実のズレヘの注目が写真への関心の根底にあった。ついで、山中はピンホール・力メラによって写真を撮ることをやりだした。その写真は次第に巨大化してゆく。それは写真の映像の空間と現実の空間のズレヘの着目を物語るものといえよう。今回の作品はパリ・ビエンナーレに出品され、山中の遺作となった一点である。
若江漢字も映像と現実の差異への関心をもちつづけているが、とりわけ写真に撮された物体と実在する物体との比較を中心的な課題としてきた。「Seeing & Looking」というタイトル自体が、若江の関心の特徴を物語っている。とりわけ、写真にある種の操作を加えてさらに写真に撮ることによって、撮された対象は奇妙な相似を示すようになる。
斎藤智は、空間と写真の関係に注目している。たとえば部屋の一隅の写真を撮り、その写真パネルを撮された部屋の一隅にややズラして置いて再度写真を撮る。こうして、空間の一隅にはいくつかのズレが形成されるもそれによって空間が視党化されてゆくのでぁる。この写真をさらに写真に撮るという方法において、写真は欠かせない媒体とならざるを得ない。
写真は原理的には同一のものの量産が可能だが、ここに見られる美術家の写真への興味には、そうした量産可能な媒体としての写真には向けられていない。絵画とは異なったイメージ生成の手段としての写真である。写真はその強い現実の再現能力によって、しばしば擬似現実化する。そこから現実との差異ということが視党の問題として浮上してきたのである。一方記録としての写真は、ヴィデオがその能力を分担する度合が増大している。それに反比例して写真の利用が減少しているのが現状のように思われる。
(なかはら ゆうすけ)