June 13 – 25, 1983

 

  • Kawaguchi Tatsuo
  • Sekine Nobuo
  • Takayama Noboru
  • Muraoka Saburo
  • Lee Ufan
Lee Ufan
Lee Ufan “Relatum” 1983

 

彫刻なるもの

1983年6月13日–25日

 

  • 河口龍夫
  • 関根伸夫
  • 高山 登
  • 村岡三郎
  • 李 禹煥

彫刻なるもの展 カタログ (PDF 26.5 MB)

 

中原佑介

当画廊が選んだ五人の美術家の作品を集めた今回の企画展は、「彫刻なるもの」というタイトルが与えられている。作品はいずれも三次元的だが、それらを「彫刻」といわず、「彫刻なるもの」という一種の含みのあるいいまわしを用いているところに、この展覧会の企画の意図の一端が示されているといえよう。

五人の出品者のうちの一人である李禹煥がかつて出品した別の立体作品の展覧会 ── 1978年から79年にかけてフランクフルトで開かれた国際展では、「z.B. Skulptur」というタイトルが与えられていたことがある。直訳すれば「たとえば彫刻」ということだが、「いってみれば彫刻」というような意味合いとでもとればよいか。今回の「彫刻なるもの」といういい方と同じ訳ではないが、いずれも三次元的作品を指して「彫刻」と明言せず、屈折したいいまわしをしている点では似通っている。

今回の五人の作品のうち、黒御影石を用いた関根伸夫のそれは石彫といって間違っていない。しかし、李禹煥、村岡三郎、河口龍夫、高山登らの作品は、それらを素朴に彫刻と呼ぶにはためらわせるものがある。とすれば、ひとつの便法はわれわれが彫刻という言葉(概念)に拘泥することから自由になることであろう。新語をつくりだすのもよい。ところが、こうしてそれらの作品を一堂に集めてみると、それぞれにずいぶん異質と見える諸作品が、なにかあるひとつの共通性ともいうべきものを浮かび上らせることを感じる。その共通するところに、多分「彫刻なるもの」という言葉が貼られたのである。個別的には「彫刻」と明言し難い諸作品のいわば最大公約数的なものとして、「彫刻なるもの」という言葉が浮かび上ってくるといっても同じである。

この場合の「彫刻なるもの」という言葉には、「彫刻」という言葉がそうであるような特定の技術の内包ということがない。いいかえれば、「彫刻なるもの」といういいまわしには、一義的な製作技術の指示が見られないのである。具体的にいえば、五人の製作技術は五人五様であって、共通するところ零といっても過言ではない。それなら、いったい何が共通するのか。あるいは共通性として浮かび上るのは何か。

それは、さまざまな技術を非効用的な場において用いるということではないかと思う。技術の芸術化といってしまえばそれまでだが、技術を異った次元に転位させるというようにでもいえようか。(その点、絵画はこういう現象が起りにくいというのも、絵画と絵画技術とはあまりにも一義的に密着しているように見えるからである。絵画技術といえば、「描く」技術につきるが、彫刻なるものの場合、その技術は一義性をもたない。)

「彫刻なるもの」という言葉は形態の規定とは無関係である。それは作品の形態と形状にどのような制限も加えない。当然、素材に関しても無規定である。この2つの点において、作品は多様性をもたらすことになる。五人の作品はまさにそのことをはっきりと示している。ただし、これら五人の美術家を選ぶことについて意図的であったか、それとも偶然そうなったのか、作品は「関係」を重視したものが多いように感じられる。李禹煥の作品が「Relatum」と題され、河口龍夫の作品が「関係一気」というのは、この「関係」への関心がタイトルにも表立って示されている例だが、それは他の出品作品にもインプリシットに示されている。銅パイプのなかに酸素を注入する村岡三郎の作品は、インプリシットな関係を示す一例である。

「彫刻なるもの」はやがて、より大きなレベルでの「彫刻」概念へ包含されるのだろうか。「彫刻」概念は、作品がそこへ(to)向うものなのか、そこから(from)始まるものか、問いはきわめて深いように感じられる。

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