クロード・ヴィアラを南仏のカリフォルニアといわれる生まれ故郷ニームに訪ねたとき(1982年秋)、アトリエに入って驚いた。アトリエといっても二つあって、ひとつは、ニームの広場に面した住居のアパートにある、小さなアトリエで、ここには、牛の骨や角、木の枝、流木、鉄片、鉄の輪、石などをカーテンの飾り紐や縄や紐をくくりつけたオブジェがいたるところに吊るしてあった。ちょうど、パリのポンピドー・センターで、1966年から81年におよぶ大回顧展を終えたところで、しばらく絵をやめて、この種のオブジェを作りつづけていると、作家は語った。絵の小さな切れ端をオブジェと一緒に吊るしてあるものもある。ヴィアラは、ドズーズ、パンスマン、セトウールらと、“シューポール/シュルファス”の運動を起こしていた60年代末から70年代はじめ頃も、結び目に色を塗った紐や大きな網を吊るした作品を作っているが、その頃の試みは、カンヴァスが繊維で出来た布という支持体(シューポール)であるという意識が反映したもので、その繊維性ともいうべきものを拡大して見せたものだった。この観念的な志向に比べると、最近のオブジェは、もっと即物的というか、布と紐と木の枝がものとして絡みあい、なじみ合っているように見えた。
驚いたのは、もうひとつのアトリエの方である。ニームで若い作家たちのアトリエをいくつか訪ねた後に、車で父親の故郷オーベイ近くのエーグ=ヴィヴにある大きなアトリエまでドライブした。もと葡萄酒の醸造工場だった、体育館ほどに大きい空間で、醸造用の樽や機械がいくつかころがっている。ここには、大きなカンヴァスの作品が山と床に積まれていて、まるで布の工場のようだ。(そういえばジーンズの布地のデニム-denim-という名稱は、
布には、例のパレット型が、くりかえされ、じつにさまざまなヴァリエーションの色で塗られている。タピスリーなどの模様がそのまま残ったものもあれば、パレット型を生地のまま、残して、まわりを塗ったものもある。筆触は、以前よりも豪放となり、それが分厚い布の粗々しさと重なって、かなり粗暴で開放的な作品が多い。ヴィアラは、じつに熱心に、休まずに、布を運び、ひろげ、たたむことを繰返しながら、息もきらさずに、いろいろなことを語ってくれた。一日に一枚ぐらいは仕上げるらしく、描き出すと、出来るだけ考えないで素早く描くという。そして、既成の布の、それぞれにちがった模様や厚みや触感や物性が、パレット型をくりかえすというきめられたアクションに、その度にちがった抵抗を与え、それが色彩や配置の向きやパターン間の距離を自然に決定する、というのである。そこには、同じ単位を次々と繰り返すミニマル・アートと、床にカンヴァスをひろげて身体ごと入って描くアクション・ペインティングが、70年代の南仏の画家の観念性と身体性の結合という形で、独特に同化されていた。いや、南仏の原始遺跡ガルガスの洞穴にある、原始人の手の押痕に打たれたのが、この押印絵画のひとつの出発点になったというのであってみれば、そこには、同じパターンと繰返すという装飾の原理が、原始の身振りをともなって、現代絵画の領域で恢復されている、と考えた方が、より自然だろうか。何百枚という布の作品が荒々しく積まれてあるのを見ながら、ぼくは、ヴィアラが、世界中の表面あるものに、永遠にパレット型を押しつづけてゆく様を想像し、かれにとって、作品とは、その切れ端の部分にしかすぎないのだろう、と思った。いや、この身振りの洗札を与えられることによって、布が、世界の表面が、絵画となることによって、立ち上り、生き返って、見えてくるのである。
ヴィアラが、自分の作品を「仕事のイマージェ(l’image du travail)」だ、と言う意味も、ニームのアトリエで、あらためて分ったような気がした。そこには「仕事」の見えない全過程が、潜在的に
(とうの よしあき) 美術評論家