Kamakura Gallery
「アウシュヴィッツのあとでも叙情詩はある」と語ったのは、現代ドイツの著名な画家ゲルハルト・リヒターである。その発言が、アウシュヴィッツのあとに叙情詩を書くのは野蛮だとする高名な哲学者、テオドール・アドルノに向けられていたことはいうまでもない。この場合、アドルノの主張したいことは誰にでもすぐにわかる。だが、リヒターの言い分が了解されるには、いささかの時間が必要だろう。というのも、アドルノは芸術の倫理を問うているのに対して、リヒターが問題にしているのは芸術の本質だからだ。「叙情詩はある」とは、叙情詩が大量殺戮という現実とは無関係に生き延びるという意味ではない。リヒターは、たとえ大量殺戮という現実をその内部に繰り込んでも、叙情詩は本質的に叙情詩であり続けるほかないという認識を語っているのである。何よりも絵画の使徒であるという自覚から、リヒターは叙情詩にことよせて、絵画の可能性に対する念を表明したのだといってもいい。数え切れないほどの文化の破壊が繰り返されてきたあとでも、また日が昇るように、カンバスに新しい何かが生まれるのだ——と。
絵画を「死せる芸術の形骸」と呼びながらも、その絵画を蘇生させるフランケンシュタイン博士であれと自身に命じ続けた中村宏。あるいは、交響楽のような「自分の資質を総合してある世界」を実現すべく、自前の論と実践で時代と格闘してきた菊畑茂久馬。戦後日本はこのような特筆すべき絵画の使徒たちを幾人も輩出したが、絵画の可能性に対する信念の深さと、時流に惑わされない着実な積み重ねの強度において、赤塚祐ニはまぎれもなくその系譜を受け継ぐべき資格を有しているだろう。世代的には、1980年代の大きな波頭をなしたニューウェーブの作家たちと重なり合いながらも、絵画に対する姿勢において赤塚は、彼らとは決定的に違っていた。ニューウェーブの作家たちが、いかに素早く時代を映すイコン(図像)を見つけ出すかに腐心していたのに対し、赤塚はあらゆるイコンが生まれる以前の混沌から、じっくりと歩を進めようとしていたからである。赤塚の絵画が90年代に入ってようやく注目され始めたのも、このことと決して無関係ではない。
いうまでもなく始まりの混沌とは、形は無数に存在しているが、それらが無秩序にひしめいて像や意味がいまだ生成に至らない世界を指す。赤塚が「画面に点を打つ。するとそれはすでに見るべきかたちを持っている」(「制作ノート」武蔵野美大研究紀要No.32)と記したのも、混沌に手探りを入れた最初の驚きを物語っていよう。そこから始まる創造行為のダイナミックな軌跡については、結果としての比類なく特徴的な画面からただ想像するよりない。90年代以降の赤塚絵画に一貫する特徴とは、動きや速度をはらんだタッチの作り出す情感豊かな色彩層と黒く塗りつぶされた茫漠たる形象、もしくはその色彩層とやはり黒い線で描かれる歪んだ形象とによる画面の二元的な構造である。しかも、それらがいわゆる地と図に分離されず、あくまでハーモニックな一体像として表現されていることも見逃してはならないだろう。たとえば「hana 119111」(92年)では、褐色味を帯びた色彩層とそこに出現した一対の黒塗りの不定形態が、水平方向に疾駆するようなスピード感あふれるタッチで違和感なく統合されている。
また、黄や赤みを含んだ色彩層に植物か人体めいた直立する黒い線形が現われる「Canary 159608」(96年)でも、縦横にひしめき合うタッチの動勢と黒い線形のそれとが一致して、画面に絶妙なハーモニーがつむぎ出されているのが確かめられる。こうしたタッチの動勢と出現する黒い形象との緊密な関係を、一段と鮮明にしたのが近年の作品群だろう。その典型例として、「Untitled 229909」(99年)を挙げておけば十分である。赤みとグレー系の入り交じった色彩層に、いくぶん丸みのある黒で縁取られた歪んだ矩形が、小さい順に画面の上部から下部へ三体描かれた作品だ。ここでは、かつての縦横にひしめいていたタッチが交わりながら連なって、旋回的、循環的な複雑な動きを呈し始めている。従って三つの黒い矩形は、その旋回的、循環的な動きの中のある部分が、一連なりになって生み落とされたという印象を与えるのである。それはあたかも何かの拍子に、忘れていた記憶が湧き出してきたような任意感の強いイメージを呼び起こす。
今回の発表作でも、赤塚絵画のこうした基本構造は揺るぎなく一貫されている。にもかかわらず、その表現は従来の領域から一歩も二歩も前方に踏み出したといっていい。具体的に何がどのように変わったのか。たとえば黄色い光をはらんで揺れ動く色彩層に、不定形に歪んだ黒い線形群が出没する「Canary 260210」など同シリーズの大作三点から見てみよう。旧作との対比を介してすぐに気づくのは、色彩層や黒い形象の表現がすこぶる雄弁にして、かつ自在感を際立たせてきたことだ。色彩層のタッチそのものが多彩を極めているばかりか、随所に白の鋭い線片が打ち込まれ乱調の限りを尽くす。それと呼応するように、黒い線形もしく身をよじって画面の風波をいっそうつのらせている。だが、それ以上に驚かされるのは、「Two」と題したもう一つの系列である。「Canary」シリーズとは対照的なきめ細かいタッチの色彩層に、目鼻口を備えた女性の顔や草花らしき影が対をなして明瞭に描かれているからだ。
この注目すべき変化は、「画家は延々とくり返し画面に蝕れる。極端に言ってしまえば、ただそのことによってのみ絵画は生まれると言える」(「制作ノート」同前)と記述された果てしない反復作業を経て、いまや赤塚絵画がイメージの迸りをはっきりと自覚した段階に入りつつあることを、何よりも如実に物語ってはいないだろうか。
(さんだはるお/美術ジャーナリスト)