鎌倉画廊、鎌倉移転後初の展覧会である今回の赤塚祐二の個展に先立って、本年(1999年)駒ケ根高原美術館(長野県)において開催された個展(「赤塚祐二展 WALK ABOUT 1991–1999」)には、今回も出品されている「Walk about 189812」が展示されていた。

私は、この作品を見た時に今まで赤塚作品にいだいてきた印象とは異なる意外性を感じた。というのもこの作品について、画面上の形象の強烈な直接性を感じたからだ。画面上の形象は、長野の、活火山が嘖火を繰り返し、赤く長い舌のごとき溶岩の流れをでろリと、まさに頂上から滴らせているかのようだった。

それまでの赤塚祐二の作品といえば、蜜蝋などを積極的に用い、ペインティングナイフによって、画面を堅牢な壁画のように丹念につくリあげる作家だと思っていた。そして、そのような堅牢さを保持する画面の内奧ヘと形象がしずかに塗り込められ、それによって逆にイメージグが、描かれた形象から見る者の方ヘとゆっくりと送り届けられていた。赤塚祐二の作品は、絵画という二次平面上の虚構の奧行き表現が帯びざるをえない、イメージ生成上の独特の緩やかさを捉え得ることによって絵画のイメージ発生のシステムの本質に肉薄し、それによってイメージ喚起力に富んだ絵画表現を、自らの作品画面上に獲得してきた。

描かれつつある画面と描きつつある画家という二つの項の間に生じる関係、それは一般的には、画面に挑みかかるような画家の画面ヘの一体化、一元化と考えられやすいものなのだが、実は画家は常に絵画面上に描かれ、そこから発生するイメージに対して冷静な観察者であることを免れ得ない。そのような絵画に対してのある種の問接的な距離の認識について、絵画制作途上において赤塚祐二は終始厳密であり、それゆえに自ら描く場合の描き手としての位置を正確に把握することに成功してきた。そのことで、独特の静かな奥行感を伴った絵画表現を実現してきたのだ。私たちは、赤塚祐二の作品を見る時、眼前の絵画だけではなく、画家と画布の問で絵画が醸成されゆく時のゆったリとした時の流れと空間の拡がりにも対面するのである。

そのような、絵画と画家との間に生じるたたずまいの尊重、絵画と画家、あるいは見る者をも含みこんだ両者の間の、ある種の満たされた「間接的」な関わり合いのことを考えると、今回出品された「Walk about 189812」は、はるかに「直接的」な印象の作品に思われたのだった。

しかし、そう感じたのも、赤塚祐二の作品が、今ーつの大きな転換期を迎えているからではないだろうか。それは、一言で言えば、「形象の明確化」と言うことができるだろう。

たとえば、今回の出品作品「Untitled 239909」の大きな斧のような形や「Walk about 119812」の舟形と松のような形象、そして「Untitled 229909」上に現れている三つ矩形の表現などについてそのことが言えるだろう。

これらの画面上の形象の明確さは、作品に強いインパクトを与えている。しかし、この形象の明確さとは、今に始まったことではなく、実は赤塚祐二作品の中に、もともと強くあったものでもある。今回の地下の絵画展示スペースから螺旋階段を上がった一階の展示スペースには「Cage 7」というアクア・ティントに水性木版による1995年作の作品が展示されていた。この作品上の形象の明確さとは比類のないものであろう。ひしゃげた長方形が積み重なりできあがった鳥かごのような形象は、どんと置かれた握りこぶしのようでもあるが、それは、明瞭な輪郭の印象を見る者に与えてくる。と同時に、鳥かごは、空のようでいて、内部に無限のイメージを内包し、そこから力強い何かを発生させてくるように感じられるのだ。

そして、「Cage 7」に見出される形象の矩形性の持つ意味合いとは、現在の赤塚祐二の作品にとっては、非常に重要な意味を持つものだろう。その矩形性は、具体的な形を伴って、今回の「Walk about 109807」や「Canary 249909」の中にも登場しているように思う。

今、赤塚祐二の作品では、それまで絵画面上でペインティングナイフなどによって繰り返し模索されていたイメージ探求の動きが、求心力を伴って矩形のフレームとして凝縮しより密度を高めつつあるのではないだろうか。それは、いわば、画面上をどこまでも平面的に滑っていこうとしていたナイフが、ある固まりをめがけ集中、集合し、そこに凝縮した矩形の図像を、描くことの痕跡として残していると言うこともできるだろう。

そこに描かれた矩形とは、イメージを内包しそれを凝縮する、画家にとって欠くことのできない抽象的なイメージの器とでも言うべきものだ。それは、画家にとって、描くという営みによって画家の内部に時間をかけ振り払いがたく刻まれてゆくイコンの姿の現れでもあろう。そして、赤塚祐二は、そのような、赤塚祐二ならではの、イメージの器をはっきリと獲得しようとし、そこから今まで以上に強いイメージ喚起力を作品に付与することができるようになりつつあるのではないだろうか。私が、「Walk about 189812」を見た時に感じた意外性も、そのような、赤塚祐二作品のイメージ喚起力仁関するより強力な発展段階ヘの遭遇によって引き起こされたに違いない。

今回の個展開催に際して、千葉県山武郡大網白里町の赤塚アトリエを初めて訪ねた際、赤塚氏は、初めての訪問者に対してはいつもそうするものとして、まずは車で白里町の九十九里の浜ヘ私を案内してくれた。三浦の箱庭のような海岸ばかり見ている筆者にとっては、それは確かにとても大きく、無限の容量を持つかのような海岸線には、太平洋からおしよせる波涛が白い波しぶきをあげていた。「どうです。海面の方が高くみえませんか。」との作家の言にしたがってもう一度眼前の海を見てみると、確かに、海面は浜に立つわれわれよりは高く、一種われわれを飲み込み続けようとするかのように打ち寄せていることがわかった。今回出品の「N」を見るとその時の印象が再び思い起こされてくる。無限のひろがりと体感すらできる確かさ、この二つの要素をあわせ持つイメージが作品の上に存在するとしたら、それは人間の生きる兆しの表現と絵画の持つ可能性として、とても強力なものとなり得るだろう。そしてそのようなイメージ発生の器を目指し、赤塚祐二の絵画は今新たな発展段階に、意を決し、入りつつあるように感じられるのである。

1999年10月

(しみずてつお / 美術評論)

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