日本も含めたアジア全体で、真に信頼できる大器量の芸術家を数人挙げろと言われたら、私はためらいなく真っ先に頼純純の名を告げようと思う。台湾で生まれ、台北、東京、ニューヨークで学んだことのある彼女は、いま、家庭の事情でサンフランシスコに住み、そこの静謐と隔離を制作の利便としながらも、猛烈に台北を恋しがっている。東京はその中間。学生時代から若干の足跡を印してきたとはいえ、今度の鎌倉画廊、なびす画廊での両個展が、事実上最初の接触となるだろう。この逸材が日本のすぐれた観客との良き出会いに恵まれるよう、私は心から願っている。頼純純は、まず、色と光とマティエールの感覚に格別秀でた画家だった。七年前、台北で私の講演の通訳をつとめてくれた彼女の、当時敦化北路にあつたアトリエをたずね、初めて絵を見せてもらったときの感動を、私は忘れることができない。絵具がのびやかに層をなして広がっている画面は、豊かな陰影のなかに溢れるばかりの光を湛えていて、一片の具象的なイメージも含まないのに、抽象画と呼ぶのがはばかられるくらい、それは自然だった。色も光もマティエールも、徹底的に絵画的であると同時に、自然的だった。暗い色調の作品の場合にも、光の旺溢は変わらない。絵具粒子と線条の、規範的であると同時に自発的な震えと走りが、画面の奥底から靄とも霧ともつかぬ光のコロイドを滲み出してくるのである。後年、私は台北の故宮博物院で元の画家の無款の大幅「寒林図」を前にして痺れるような感動を味わい、北宋画の観念よりも元画の官能の方が絵画としてより真実であると確信するのだが、私にそう認識させた機縁の一半には、それに先立つ純純の絵との出会いがあったのではないかとさえ思うのである。

この出会いは決定的だった。とはいえ、その時の私は、まだ頼純純の器量のせいぜい半分しか目に入つていなかったと言っていい。絵の前で茫然とする私を尻目に、彼女は新たに取り組み始めたばかりのアクリル板による立体造形のことを、熱に浮かされたように喋りつづけた。当時(1985年)の私は、日本で量塊彫刻の再生をめぐる議論の渦中にいたこともあり、また、彼女がその類いまれな絵画の資質を捨てて顧みなくなるのではないかと恐れもしたので、彼女の新しい展開を本当には理解しようとしないまま、帰つてしまったのだった。

三年あまりの月日がたち、1988年の秋、一冊のカタログが送られてきた。台北市立美術館が、彫刻コンクール展で大賞を得た彼女に個展の機会を与えたのである。実に美しいカタログだった。この三年間に、彼女は堅忍不抜の歩みで独自の彫刻を論理的に開発し、一年間のバーゼル遊学の間に、アクリルからプレクシグラスヘ、さらにグラファイトを塗布した本のレリーフヘと着実に前進してきたらしい。そのさまが、手に取るように分かった。と同時に、彼女がなぜ彫刻に取り組まなければならなかったかを、私は初めて理解したのである。

彫刻の契機は彼女の絵画自体のうちに孕まれていたのだった。頼純純の絵画は、昔も今も情調の統一において卓越している(なびす画廊カタログ参照)。生命感情と宇宙感情の一致と言い換えてもいい。しかし、そうすると、―枚のタブローがある一つの色調で統一され、他のタブローが別の色調で統一されるという事態は、どのように考えればいいのだろうか。イヴ・クラインは、他の色を一切捨ててウルトラマリンだけを残し、IKBの色調の支配で彼の宇自感情の純粋さを代弁させようとした。純純は、純粋への希求において誰にもひけを取らないとはいえ、そのような一神教的な択一の方法は採らない。彼女は、色が物質であり、事物の様相であり、感覚感情に対応する空相であることを明察しているから、色を変化として捉える。存在の絶対性が時と場所に応じて見せる変化の相、それが色であり、形であると。

つまり、彼女は、一つの色あるいは一つの形が個として自立しながら、なおかつその一つ一つか究趣の存在の現実における変化の相であることを開示するような、そんな個体のあり方を求めて、ごく自然に、彼女の感性の論理に導かれて、物体の彫刻に踏み込んでいったのである。ごく自然に、とはいえ、絵画から彫刻への道がそう簡単なわけはない。彼女はまず、あれほど秀でていた色の活用をひとまず脇に置き、光と形態の関係に的を絞って、すべての形態を円ないし円の部分の投影から得ることにした。その最も密度の高い成果が、グラファイトを全面に塗布した本のレリーフ(のちには完全な三次元性を獲得する)であろう。光が生み、光によって条件づけられた真円のかけら(断片)とも形容しうるこれら黒鉛色の本彫は、月影の満ち欠けや鍛え抜かれた東洋の舞いにも似て、厳しさと柔らかさ、緊張と伸びやかさを同時にそなえており、少しも図式の硬直を感じさせない。それは一個でも完全に自立しているが、複数点並べられたときに、それらの本源を指し示す運動を催して、いっそう生き生きとし、根拠づけられて見える。ここに同時代のインスタレーション(中国語では装置と書く)に対する関心が影を落としていることは言うまでもない。しかし、純純の場合、インスタレーション自体は終点の様式なのではなく、あくまでも彼女本然の存在と変化の哲学がそれを必然としたのである。

ここで指摘しておきたいのは、このようにして絵画から発展分化してきたにもかかわらず、彼女の立体には絵画の不純な名残りがまったく見られないことである。ジャスパー・ジョーンズや日本の60年代の主知主義的傾向の例が示すように、絵画的視覚が存在の問題に関わろうとするとき、それはしばしば存在自体と存在の様相・様態との間の多義的で目だまし的な関係を知的遊戯の形で提示するという罠に陥る。彼らのつくる物体は、存在自体を指し示すよりは、存在についての片々たる思考、物体に封じ込められた矮小な存在についての思考を示すにとどまっている。頼純純の彫刻にはそうしたさかしらな知の遊びは影ほどもない。作品を形成する個々の物体は、みずからを生み落とした根源の存在の全一性を何のけれん昧もなくまっすぐに暗示し、見る者に、部分のなかに全体があらわれることの稀な喜びを与えてくれるのである。跳ねたり、傾いたり、垂れたり、うずくまつたりしている彼女の彫刻は、個として自立していながら、いずれもそこには見えない根源の全一性を恋うている。このような、緊張にみちてひたむきに本源を指し示す力は、唐突な比較だが、彼女とは正反対の量塊の側から彫刻に入った黒川弘毅のそれを私に思い起こさせずにおかない。

それからまた、暫時が過ぎた。体むことなく前進する純純は、彫刻によつて確立した存在と変化の命題の現実化の方途に、こんどはいよいよ色の要素を介入させる決心をした。1988-89年あたりであろう。色だけでなく、描く行為、マティエール、平面性など、絵画的要素のすべてに大きな役割を与えているから、同じ命題をインスタレーション絵画で現実化したと考えた方が適切かも知れない。鎌倉画廊で紹介されるのはこの系列の作品である。

およそ五年間、禁欲的なまでに――とはいえ彼女本来の純粋さへの希求に沿つて――色彩や手の跡や偶然的要素を排除し、求心的な造形に沈潜してきた頼純純は、人生の大きな満ち潮に促されたのでもあろうか、いまや感覚と感情に適うあらゆる要素を迎え入れ、それらを限りなく展開性に富んだ空間構成のなかで患づかせることができるようになった。実にうまい、というか、知情意のすべてにわたって成熟を感じさせる仕事である。この系列の作品のなかに、純純の十数年間の造形体験と思考が丸ごと参集し、再編成され、新しい総合的な生命を得ているように思われる。

総合とはいえ、それは死んだバランスからは程遠く、思いがけなさと機知に富んでいる。対立する要素が生きた対話を交している。すなわち、絵画(あらわれ)と彫刻(存在)が互いを刺激しながら結びつき、有機的な要素と幾何学的な要素、バロック的自由とクラシックの理念、滑らかな表面と波立つテクスチャー、非物質化への意志とマテイエールの喜びが存在している。コントラストの強い色が、空間の天びんの両端でともに揺らぎ、輝いている。こうした緊張にみちた対話の構造に、東洋と西洋、伝統と現代の対立ないし和解を見ることは可能かも知れないが、純純のやり方はけっして表層的ではない。東の表徴と西の表徴を置き並べるような記号操作のレベルではなく、すべてを造形言語の陶冶をとおして知党のレベルで関係づけ、作動させているから、見る者は、たんに東と西、古と新だけでなく、あらゆる対立の事象、分裂の徴候に直面し、それらが稀な柔軟さと全―性への意志によって抱擁され、癒やされ、喜びに転じているのを感じるのである。

以上で明らかなようにt頼純純の芸術の本質と力は、私たちを全一性が回復されるときに固有の喜びで浸してくれるところにある。彼女が絵画、彫刻の区分に縛られずに活動しているのも、また対立する要素を好んで取り入れるのも、そのゆえであり、だからこそ、その仕事は無分別な混合体ではなく、むしろ、明晰に識別されたものの喜びにみちた結合、あるいは、識別されつつ結合することの喜びという性格を帯びている。この性格は、異質な文明同士の交渉、共存を運命づけられた今日の芸術、とりわけアジアの芸術に対して大きな可能性を示㖫しているのではなかろうか。

1991年9月9日

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