Solo Exhibition
ジュゼッペ・カポグロッシの作品が、1950年から死の年(1972)にいたるまで、すべてがSuperficie(表面)と題されて、ナンバーが振られているだけであるのには、いささか驚かされる。もっとも、このことは、1967年に出版された大冊のモノグラフィ(1)や、1986年ローマでの回顧展カタログ(2)を見る限りでいえるのであって、これより古い資料ではこうは一貫していない。たとえばミッシェル・スーフォールの有名な序文のある1954年刊行のカダログ(3)では「アフリカのシンフォニー」「戦い」「分子間の空間」といった説明的な題名が散見されるのだが、それらの作品が、後の資料によると、すべてSuperficieという題名にと勢揃いしてしまうのだ。おそらくは、ある時点で、なんらかのきっかけで、作者がすべての題名を「表面」に統一したのだろう、と思うほかはない。ほとんどの作品にConcetlo Spatiale(空間概念)と銘打つたのはフォンタナだったが、カポグロッシの題名術の方が、はるかに一貫性において、徹底しているのは事実である。
50年代以後の全作品を「表面」という題名に統一する、ということは、それがもはや、個々の作品の題名であることを超えて、すべての作品に通底している、ひとつの普遍的な概念であることを示すことにほかならない。54年のカタログにすでに「表面No.6」「表面No.20」といった50年代初期の作品図版もあることを思えば、この概念を作者が、きわめて早くから抱いていたことは事実だが、もし67年のカタログ・レゾネの際に「表面」に統一したと推測しうるとすれば、当時のミニマル・アートが志向した「表面」意識、つまりは、二次元の画面に奥行きのない平面の表現だけを許容する志向となんらかの関連があるやもしれず、そうとすれば、カポグロッシは、自分の50年以降の作品群が、若い世代の「表面」志向をとっくに先取りしていたことを主張したのである、と考えられなくもあるまい。
限られた時間ではイタリア語の文献の読めない当方としては、こんな下手なかんぐりしか出来ないのに恥じいるばかりだが、経緯はどうであれ、一括して「表面」と題されたカポグロッシの作品を、いま、あらためて見る機会を与えられて、その単純で明快な、繰返しの美学のなかに、爽やかな豊かさともいうべきものを発見するのはぼくだけではあるまい。カポグロッシの作品をはじめて目にした50年代末では、たとえばミッシェル・タピエが「もうひとつの芸術」として結集したアンフォルメル美術の風変りなイタリア種として把えられていた。「身振りの偶然が成就した冒険にたいして、カポグロッシは、もうひとつの形態学的構造化というきわめて自立した探究を対置しているように思われた(4)」という、タピエのもって廻った難解な文章に接していた頃の話である。日本でも、いち早く1963年に東京画廊が個展を開いている。その力夕ログ序文には針生一郎が「あなたの名は、もうわたしたちに親しい(5)」ではじまる、意外にも瀧口修造を思わせないでもない、いいテキストを寄せていて、当時のぼくらが、新しい外国の潮流にまうさらな瞳を柔かく開いていった雰囲気を思い起こさせた。「あなたの記号のもっとも顕著な特色は、心理的生活的な一切のものから解放されながら、生もののように無限に自己増殖をつづけてやまないことだろう。……(6)」(針生)。
それから四半世紀が過ぎて、もはやカポグロッシの名は「わたしたちに親しい」とはいえなくなってしまったが、記憶からたちきられて、いま、彼の画面がみずみずしく見えるのは、さまざまな美術動向の変遷をしり目に、作者が「表面」という概念をアリアドネの糸のようにたどり、たぐりよせ、たわむれてきた、その息づかいと身振りの、生ま生ましさと確かさのせいにちがいない。そして、また一方で、その後ウォーホルやステラや、あるいはヴィアラの繰返しの構造画面に親しんできたこちらの眼差しが、彼の絵を新たに発見し、受け入れはじめているのである。
1900年ローマに生まれたカポグロッシが、あの解読不能のアルファベット、フォークの先、あるいは猛禽の爪跡のような、独特な記号的形態をもとに作品を描きはじめたのは、1949年からだといわれている。それは、奇しくも、フォンタナがカンヴァスにはじめて穴をあけた年でもあった。それまでのカポグロッシは、ポスト・キュビスム風の空間をただよわせた、マネシエらと共通した抒情的な半抽象的画家であった。いや、もっと前を辿れば、1930年代は、ジュンティリーニ、カヴァルリ、オミッチオリらと共に「新ローマ派」に属する、表現主義的な色調の強い具象画家であった。そして、大戦直後の1949年、突然、それまでの作品の記憶を一掃するように、あの歯型の単位記号だけが登場する絵を描きはじめた時、その激変はひとびとを面喰わせたらしい。「彼はこれらのヴァリエーションを追究しつづけてゆくのだろうか、それとも、以前の試みとのなんらかの結びつきを作りあげるのだろうか(7)」と、当時、ある評家は、いささか残念そうに書いている。このとき、カポグロッシに何が起きたのかは、永遠の謎として残るが、いうなれば、キュビズトたちが1910年代に画面に描き入れたアルファベットの文字が、キュビスムの屈折した奥行きのある空間を抜け出て、「表面」である二次元の平らな画面に、独特に変形された、平面的な記号として出現したのである。
「1949年、功なり名遂げた画家の立場を投げ打つて、パイオニアになったとき、カポグロッシには何が憑りついたのだろうか。突如として、全くの予兆もなしに、彼は具象を捨てて抽象に赴き、名声を闇に、安定した生涯を冒険に、技能を夢想に、安泰を未知の危険にと、とり変えたのである(8)」(ミッシェル・スーフォール)。
これ以後、カポグロッシは、ひとによってA、M、Wの字に似ているともいい、あるいは、三又槍、子供の手、花びら、爪跡、地図上の陣地、と、さまざまな連想を誘いながらも、それ以外のなにものでもない、あの力ポグロッシ記号だけを使って、じつにさまざまな配列と組み合わせの作品を描きつづけていった。これほど、たったひとつの単位に自分を托しながら、どれひとつとして、退屈な反復を感じさせない、豊穣な作品群を織りつづけていった画家は数少ないだろう。この単一コードは、ある場合は整斉に並んでいるかと思うと、抗う人体のように絡み合い、あるいは白抜きの地になるかと思うと、カリグラフィックな奔放さを見せもする。紙に切り抜かれてコラージュやレリーフに仕立てあげられることもあれば、向きあった一組ががっぷりと噛み合って、古代の単純な秘文字のように見えることだってある。そして、すべての画面にしみ通っているユーモアの露を見逃さないでほしい。乾ききった均質な色彩を切り抜いたともいえる、あの単純で生ま生ましいカポグロッシ記号の群が、まるで磁場の変化によってうごめき、離散し、蝟集する砂鉄のように、配列や組合わせを変えてゆくとき、ぼくらの眼差しは、けっして奥にひきこまれて焦点を結ぶことなく、この「表面」の上を、爽やかに揺蕩ってゆくだけなのだ。
(1) G. C. Argan “Capogrossi” (Editalia, Roma, 1967)
(2) “CapogrOssi; opere ad 1951 al 1972” (oalleria d’Arte Niccoli, Parma, 1986)
(3) Michel Seuphor “Capogrossi” (Cavallino, Venezia, 1954)
(4) (1)に収録 P. 23
(5) カポグロッシ展カタログ (東京画廊、東京、1963) 頁なし
(6) ibid
(7) Guido Ballo “Modern Italian Painting; Fran Futurism to the Present Day” (Thames and Hudsm, London, 1958) P. 106
(8) (3)の文献 頁なし