フィリップ・キングが、「今日のイギリス美術」展(1982)を栃木県立美術館に見にきた時、デイヴィッド・ナッシュの大作「ウォーター・ウェー(水路)」を館長室から見おろして、ニコニコ笑いながら、ジェスチュアをまじえつつ、いかにも唐突に言ったものである。「ナッシュのあの作品は、男女両性だね。初めのところは女がこんな風に座ってる感じだし、最後のところは男が股を開いているようで......」。私はその時、キングとは初めてだし、彼がかなりの思索家で理論家であることも飯田善国などから聞いて知っていたので、いくしいん緊張気味だった。そこへ挨拶もそこそこに、いきなりこの発言なものだから、私もいささか面食らったのである。ロイヤル・カレッジ・オブ・アーツの彫刻部主任教授のキング先生も、たしかにその名にふさわしく高度な知識人だが、いつでもどこでも突如としてユーモラスになり得る人物であることは、あとで彼の回ンドンの居宅を訪ねたり、彼の車に乗って郊外のアトリエを見に行ったりして、とくと知ることができた。「唐突に」とか、「突如として」とか、私にはそう思えるのだが、実は、彼にそんな意識はないらしく、ごく自然にユーモラスな話も真面目な話も相互に往き来をしているらしいのだ。などと、さも事ありげに挙げつらって言っているのがどうかしているのであって、キングに相互の区別は本来ないのだ、と言った方が正しい。
どうやらナッシュも同様らしく、彼の意識の中では、したがって彼が物と接する接し方の上でも、また当然のことながら彼の作品の中でも、ユーモアをユーモアとして格別分け距てて区別している様子がないのである。「ウォーター・ウェー」が、両性的だといったことは、普通の人はまず気づかないことだし、私も、この作品のインスタレーションに終始立合っていて、ある時ふと気づいて彼にたずねたら、その時初めて「そうだ」と頷いたので、そこで彼が知っててやっていることが分った程度で、そのことを彼は声高にことさら人に知らせようとしていない。「ウォーター・ウェー」は「ウォーター・ウェー」で、字義通り他に楽しむ部分がいくらもあるのである。しかし、フィリップ・キングがいきなりそのことに触れてきたのは少々驚きであり、と同時に、イギリス人特有のユーモアのあり方について考えさせられもしたのである。「今日のイギリス美術」展に出品されていた多くのイギリス人作家の作品の中に、ユーモラスな気配がどことなく漂っていて、それが明らかにイギリス現代美術の特色をなしていることは、いろいろ話題になっていたところである。
ところで、ナッシュのユーモアだが、彼の今回の日本訪間制作プロジェクトの一つに、宮城県の美術館が計画したワーク・ショップによる現地制作があった。仙台市から西北へ約50kmぐらいのところに、舟形山というのがあって、その山の麓の「ふながた荘」という古風な宿屋に一家4人で宿泊しての現地制作だったが、そこで作つた主要作品の一つに、「Ship Shape」と名付けられた大作がある。言うまでもなく、舟形山、「ふながた荘」からくる「Ship Shape」、つまり「舟形」だが、その「舟形」に強烈なユーモアが装填されていることを、これまた偶然に知ることができた。
彼が徹底した現地制作を貫くようになったのは、そんなに古いことではなく、1980年のヨークシャー彫刻公園でのプロジェクトあたりからである。そこで彼は言っている。「かつて早い時期には、私は製材工場で作られた規格品の木を使っていた。しかしやがて、その木は自らがどこから来て、どこへ行くのか、何も語りはしないことに気付いた。いま私は樹木のところへ行き、その樹の時間と空間に応え、その樹がそこにある環境、私がそこにいる環境に応答することで、ずっとうまくやっている。樹の大きさ、寒さや湿気、家からの遠さ、すべてが情況を形づくっている。樹は新しい可能性の源となる」。まさしく作品「舟形」がそのことを如実に立証しているのだが、問題はもう少し込入っていて、単なる言葉合わせの命名にかかわる次元にとどまる問題では勿論ない。ことは造形にかかわる問題であるから、命名より先にまず造形があるのであって、造形を通じてむしろ命名は即興的に突如として訪れる。一種のハプニングだが、これをナッシュは「Spontaneity」と言う言葉を使って非常に大事にしている。これは、「自然な感性や、努力や束縛のないインパルスからもたらされる、あるいはそれにもとずく行為、もしくは内部的な原因を通じて発生するもの」で、そのことこそが、人間の本性から自発的に自然に出てくるものなのだ、と見ているのである。
「舟形」の強烈なユーモアというのは、美術館の担当学芸員が彼の仕事を手伝っていて、その「舟形」の真中の二つに割れてくびれたところを斧を振るって一生懸命削っていたものだから、「ずいぶんよく手伝ってくれているね」、とナッシュに私が感心して声をかけたら、「いや、彼はあそこを掘るのが特に大好きでね。あれが女性の性器に似ているもんだから」、といかにも楽しそうにケラケラと笑ったものである。日本語の「舟形」と女性の性器が関連していることは言うまでもないが、英語などではどうなのか、よく調べてはいないが、いろいろある筈である。そうした形や言葉が、人の心の自然な状態の中で、どんどん自由に飛び交い、邂逅し、結び合って、イメージが豊饒に生いきと増殖してゆくことを望んでいるのである。何のことはない、シュルレアリスムの世界である。
シュルレアリスムはしかし、マグリットのように、絵空事か人工的な作品によって、それを開示して見せる。ナッシュは、それを、多少は手を加えるが、できるだけ自然の造形の中に発見し、引き出して私たちに見せようとしている。本当は自然の中にこそシュル・レール(超現実的)なものが充満しているのだ。日光の彼の宿舎の裏山の頂上は、それが巨大な男性の亀頭を裏側から仰いでいる形に酷似しているところから、金精山と呼ばれ、いつ頃からか男根崇拝の壮大な民俗信仰がこの地に、定着している。不思議な暗合である。
(おおしませいじ)