アーティストトーク

馬場健太郎 × 北川聡(画家) × 齊藤智法(デザイナー)

2019年9月14日 鎌倉画廊

 

Baba Kentaro, artist talk

 

鎌倉画廊

司会: 本日はお忙しい中ありがとうございます。早速ではありますが、トークイベントでお話しくださいますお三方をご紹介させていただきます。

まずはメインの今展覧会の作家であります馬場健太郎さんです。よろしくお願いします。今日ご一緒にトークしてくださるのは、馬場さんとご親交も深く画家の先輩でもある北川聡さんです。よろしくお願いします。また同じく、馬場さんとご親交の深いデザイナーの齊藤智法さんです。よろしくお願いいたします。

簡単に馬場さんのご紹介を。馬場健太郎さんは長崎県長崎市のご出身、文化庁の派遣研修員としてミラノにご滞在の経験があります。90年代初頭から個展を中心に国内のギャラリーはもとより、イタリア、フランス、ポルトガル韓国などで海外での発表も精力的にされています。

また2000年に昭和シェル現代美術賞展、本江邦夫審査委員賞を受賞されています。2004年に資生堂のADSPへ選出されるなど25年のキャリアを積み上げていらっしゃいます。本日は会場内の作品を眺めていただきながら馬場さんの作品についてより深く知っていただける機会になればと思っております。

北川さん、齋藤さんにつきましては、これまでのご活動も含めてこちらのトーク中に馬場さんからのお話を交えて触れていただきますので、さっそくアーティストトークを開始させていただきます。よろしくお願いいたします。

馬場健太郎

ありがとうございます。こんにちは。馬場です。今回の展覧会のアーティストトークということなんですけど、ちょっと古い作品を90年代からの作品、僕の作品ちょっとまとめてきましたので、それをこう見てだきながら、途中で北川さんと齊藤君と話を交えてやっていきたいと思います。

齊藤智法

94年くらい、最初は一言、トークテーマみたいな一応設けられているんですね。

進行をやってくださいます、一応僕がじゃあ進行を仰せつかいましたので、進行のほうをさせていただきます。

馬場さんから今回お声がけいただいた経緯としては、ずっと馬場さんの個展があるたびに僕も伺って作品を拝見したりしていたんですけど、年の離れた友人という風にいつも言ってくださっていて、僕は普段デザインをやっているんですが、そういう人も交えて是非トークをしたいということで、北川さんと一緒にお招きいただきまして

一応トークするにあたってはテーマがあったほうがいいだろうということでいろいろ少し飲みながら議論していって、象徴と抽象というテーマを設けてトークをさせていただくことになっています。

馬場さんの作品をみなさんと見ていきながら、抽象絵画ということに造詣の深い方もいれば、そんなにこうジャンルとしてご存じない方もいると思うので、抽象絵画っていったいどうゆうものなんだろうとかそのへんもぼんやり馬場さんに伺たりしながら進めていければと思います。象徴とか抽象っていうことを概念としてどう画家の方たちが考えてらっしゃるのかということを少し伺っていけると面白いかなと思っていますので、よろしくお願いします。

90年代の作品です。

馬場健太郎

その前に一つ、学校、美術学校で油絵科っていうところに通って、初めて個展をした時のメインというか作品なんですけど、普通美術学校とかに行くとデッサンをしたり、絵画とはこういうものです、ものを見てそれを、わりと似てるといいますか、形を描いて表現するということなんですけど、僕自身はそういうところからいろんなことに疑問を持ちながら制作をしていったわけなんですけど、絵に対する疑問みたいなものがあって、絵って何だろうという風に考えた時に、自分の体と画面が純粋に関わりあう行為だと僕は考えていて、それをこう表すためにはたくさん線の集積といいますか、線をたくさん描いて絵画的なもの。絵画のようなもの。であったらいいなと考えていたの時期の作品です。

なので、目指していたものといいますか、自分にとって絵を描くこと、もうちょっと大きく言うと絵をかいて表現すること自体はどういうことなんだろういう風に考えていった時期の作品です。

この辺りをちょっと【12:06】もうちょっと前に・・・

たくさん線を描いていくうちに、この時期っていうのは、すごく大きな作品を中心にやってきたのですけど、なぜ大きなものかというと自分の身長が一応172cmなんですけど、162cmそれより10cm短い、この辺の位までがそうなんですけど、高さのパネルを最初作って、そこで線ストロークを引くということをやっていったわけです。

それは、どうしてかっていうと、絵を描いていくとどうしても支配してしまう。画面が自分の絵具や思いでいっぱいになってしまうので、画面からも何か問いかけが来るような大きさとはどういう大きさかというと、ちょうど162cmのわりとこうしっくりきた大きさでしたので、その辺の作品を中心にこの時期やっています。

あと、見ていただいて、ちょっと小さいこぶりなのが、気持ち【13:30】

齊藤智法

馬場さんは当時から抽象絵画というそういうカテゴリを自分で意識して作品を作られているんですね。

馬場健太郎

抽象絵画を描きましょうというよりかは結果的にこうなったというのが正しくて、自分の思いみたいなものが具体的な形が表れていないほうがいいとは考えていたと思います。なんか作品を見るとその時の思いがよみがえってくるんですけど、1995年の当時、そのギャラリーというか現代美術の世界の銀座の画廊っていうのがたくさんあったんですけど95年に商社のスペースで展覧会をする機会をいただいて絵とともに思い出してくるのが商社の本社が神戸にあったので、搬入の日が神戸の震災で震災の日に搬入をしたという記憶がこの絵を見たりするとよく思い出したてきますね。

北川聡

馬場さん画家としてのキャリアは何年目くらいの。

馬場健太郎

個展は2回目なので、北川さんはもう大先輩なのでその時期北川さんはすでに抽象絵画をずっと・・そうですね。

北川聡

どうも、こんにちは。馬場君とはさっきちょっと確認したんですけど2003年に一緒に展覧会をさせてもらってそこからの付き合いで、飲み友達みたいな風になっているんですけど、今回トークを頼まれてもうちょっとちゃんとしゃべれる人にしたほうがいいんじゃないのって言ったんですけど、飲んでいるノリでいいからと言うのできたんですね。そしたら何もお酒もないし、2、3人ですよ2、3人しか来ませんよ、そんなふうに言われてたんですけど、ずいぶん来てみたら違うなって感じで、どうしてくれるっていう感じなんですけど。(笑)

齊藤智法

北川さんの作品をご紹介しても大丈夫ですか。

北川聡

これは、2年くらい前のもので、木炭で書かれていて、結構大きい作品です。こんなものでっていうところでもういいです。僕のあれじゃないんで。

馬場健太郎

僕は90年代に当時美術雑誌とかをよくマメに見てたんですけど、実際展覧会の話が来て一緒に展覧会をしたのは2003年なんです。それ以前になんかえらい人たちの難しいトークみたいなものがある雑誌に載っていてその時に北川さんの記事が載っていて、戦後の日本の美術の中で裸電球から蛍光灯に一般の住宅の光源が変わってきたと、そこで、日本の絵画が絵画というか絵とか作品自体がものすごく大きく変わったんだっていうような内容のトークを読んで、北川さんという人にぜひ会ってみたいなと当時から思っていたのが始まりです。そして一緒に展覧会をするようになったということです。

北川聡

それ以来はもう飲み友達、そうです。

齊藤智法

僕との出会いみたいなのもみなさんいいですか。

馬場健太郎

そうですね、このあと2005年から2006年くらい僕はイタリアのミラノっていうところに行くんですけど、

齊藤智法

ちょっと97にとんじゃっても大丈夫ですか。

馬場健太郎

大丈夫です。

齊藤智法

2005年出します。開きましょう。このあたりでちょっと、ここで大丈夫ですか。

馬場健太郎

そうですね、帰国してすぐくらい。ちょうど行く前の自由が丘でやった時の展覧会で比較的色彩が強めの、今回も出品している2007年の作品です。

齊藤智法

このころは初期から比べると制作に対する考え方とか変わってきているんですか?

馬場健太郎

基本的に何か大きく変わったってことはあんまりないんですけど、イタリアに行って何か劇的に変わったっていうよりかは、なんか自分がそういうことをやっていてもいいんだなっていう確認作業ができたということなんで、ちょっと落ち着いて時間をかけて仕事をしているといった時期でした。

齊藤智法

初期の作品は結構、線を強く描いて出てたと思うんですけど、その後わりと溶け込んでいくというか、柔らかい印象に仕上がりがなっていっているという風に。

馬場健太郎

そうなんです、僕は何というか時間の堆積というのに興味があって、時間というのはいくらかけてもなかなかつかまえられないものなんですけど、この線の集積の後に徐々に面的になっていくんですが面で下の層を覆いつくそうという風な意識がちょっとずつ変わってきたんですね、なので絵の中に絵がいっぱいあるような状況、その下にも全く違う色があってそれを塗り重ねて隠ぺいするっていうような仕事に徐々に変わってきたなと。

北川聡

画廊さんの紹介文でエマルジョンキャンバスを自分で作って古典技法をその中に取り入れてというのがあって、それとちょっと今の話とは結構関係があるかなという風に思ったんですね。それは油絵の具は本来透明に古典的には透明に使うんもので、薄いガラスを色ガラスを重ねていくように、そういう風に使っていくようなのが古典的な技法なんですね、ですから、そういう意味では時間の体積というのが前の絵の具を完全に隠蔽しないで次々に重ねていって、一つの空間になっていくそういうことだと思うんですけど、そこにたぶん彼は油彩だけではなくて、蜜ろうを使っている。おそらく今隠ぺいしていくような作業に代わっていったのはもともと最初の時期から蜜蝋は使っているみたいですけれども、蜜蝋っていうのはそういう意味ではろうそくのろうみたいなんですけども蜂蜜・・ミツバチの巣から取っているんですよね。ろうみたいなものですから、ですから、たぶん馬場君の作品を前から見てられる方はよくわかっていると思いますけど、ちょっともたっとしたような、どろんとしたような質感みたいなも特に2階から下の作品ですかね、2階あたりにある作品はそういう風になっていると思うんですけども、そういう時間を堆積していってそれを見せていくっていうのは透明な油絵の具を使うことだと思うんですね。それと、隠ぺいしていくっていうのは、そういうものを一度封印してしまうというか、時間を閉じ込めちゃうみたいな感じがあって、ちょっと矛盾することを何か一つの画面でやっているのかなという風に僕はその辺が作品の不思議さにつながっている感じがするんですね、その辺はどうでしょう。

馬場健太郎

まったくその通りで、何か明快な答えっていうのは出せないんですけど、目的の場所までたどり着くのに少しこう遠回りをしてみたり、何か違うところに行ったりしてるほうがよりその到達点といいますか、作品ができる手から離せるといった状況に近づくのではないかという考えがあるんですけど、何か合理的に最短距離を進むというよりかは雑な言い方をすると無駄なこととか遠回りをするといったようなことを制作の中に取り入れるほうがより自分の中でしっくりくるといいますか、終わったぞとか、よしできたぞ、といえるところに行くような気がします。

北川聡

よしできたぞ、という所ってどういうところなんですか。

馬場健太郎

それは、2003年のすごく僕の中でもよく覚えてるんですけど、北川さんとトークをした時に北川さんがほかの方に質問を受けて作品が終わったぞというところはどこですかといったときに、北川さんその時に、作品自体が飽和するという表現を使ったんです。

確かに、自分も飽和っていうか、これ以上やってもよくならないといいますか密度が高まるといったような状況が終わったという風に北川さんおしゃってた、あ、なるほどな、と思ったんですけど。僕の場合ちょっとね、ちょっと違っていてこれ全部僕が作っていて自分で作っているんですけど、うまく言えないんですけど、自分が作った状況じゃないような状況というか、自分の作為とか意図みたいなものがふと消えるような瞬間があって、他人が作ったというか、

北川聡

飽和する感じですね。(笑)

馬場健太郎

飽和する感じですかね、なんかうまく言えない、別の人がやってくれたような感覚になる瞬間があるんですよね。その時、ある種手からもう離れたといったような状況です。

北川聡

齋藤さんはデザインやられていますけど、齋藤さん、デザインの場合完成というのはそれとはまったく違うんですよね

齊藤智法

飽和しちゃうとデザインの場合はダメかもしれないですね。

ただ、僕も予備校時代は美術予備校行って、受験しているんですけど、当時やっぱりデザイン科だったのでデザイン科なりの平面構成というのをやるんですね。

僕、意外と高校生のころから美術の本とかぺらぺら見ながら、抽象絵画が大好きだったんですよ。例えば、同じ抽象絵画というとマーク・ロスコとかすごく見てたんで、こういう絵があっていいんだってすごく思ってたんですね、予備校行ってからも、芸大系のデザイン科の平面構成の課題で絵の具をずっとこうやってぐちゃぐちゃやっているわけですよ。モチーフを最後ここに描かないと仕上がらないっていうときでも、なんかわかんないけどぐちゃぐちゃと終わっちゃって、すごい「D」という評価をつけられた、そういう経験すごいあったんですけど、でもそれなりに自分で終わらせていかなきゃいけないっていう意識は芽生えていたんですけど(笑)

それで大学に入ってデザインを学んで勉強するようになってからようやく、デザインて決めれば終わるんですよね、自分が。自分でそれをこう、こういうことだって定義して、人にプレゼンテーションできる形にすれば、終わりなので。そのやり口が自分で身についてから初めて終わらせられるようになったんですよね。だからデザインっていう、ある種のスタンスで自分が表現することで終わらせられるようになったっていうタイプなんですね。

僕も絵画をやっていたら、馬場さんとちょっと同じようにわりとこうぐるぐる回りながら飽和点を自分で迎えて終わる、そういうタイプなのかなというのは出会ったころから少し話を聞いて思っていました。

馬場健太郎

話、だらだら長くなっているんですけど、イタリアにいて帰ってきて、僕、所沢にアトリエがあって、その近所でバーみたいなところでお酒を飲みながら素人相手に芸術論をぶったりするわけですよ。そこに当時学生だった齋藤青年がいまして、一生懸命語るわけですよ、とすると彼も負けじといろんな話をしてくれるわけですね、面白いと思ったわけです。あれは何年くらいでしたか。2007年か8年くらいでしたよね。

齊藤智法

そのころ馬場さんと、そうですね、僕の美大の卒業制作の話をちらっとだけいいですか。当時、こういうものを。大学の4年でデザイン科だったんですけど、卒業制作を作っていて、僕実家がお寺なんですね。父親がお坊さんをやっているというのもあって、そういう生まれだったのもあり、デザインを学んだうえで、自分が卒業のタイミングで、自分として点を打つんだったら、仏教というテーマとデザインを結び付けたことをやりたいなって思って、「瞑想の見立」という本を作ってたんですね。ちょうど所沢に僕が行ったときに、良く行ってた【モジョ】というバーがあって、そこも瞑想が日常の中にあるんじゃないかという一つの見立てをして、仏教のシンボルをいろんな場所にもっていって写真に撮って、これも瞑想なんじゃないかということを一冊の本にしていったんですけど、モジョのバーカウンターの中にでっかいパネルを入れて撮影をしたりとか、そんなこともして、馬場さんともモジョでいろいろ話をして、お互いの考えていることを共有しあっていたというわけです。

馬場健太郎

当時こんなものを作っていて、瞑想であるとか、一生懸命集積してそれが形になるんですよってことを言葉にしても、とても伝わりづらいことを自分はやっているという自覚はあって、それを何か言語化することはとても難しいことで、そもそも言語化できないようなことをやろうと思っているわけですから、なかなかそういうこう、何ていうかやりきれない思いみたいなものがあるわけですよ。それをこう飲み屋に行って話しても、だいたい、ほとんどの人が理解してくれないし、相手にされないんですけどまあなんとなくこの青年は非常に近いところにいるなと思ったのが出会いのきっかけでしょうかね。

齊藤智法

なんかこうそういう共通項みたいなものが馬場さんが見出していただいているところは僕はすごくうれしい部分もあって、ただデザインっていう世界だと、デザインって答えを毎回出さないといけない部分もありますし、問いを立てたりしていかなきゃいけないので、日々の仕事の中ではなかなか自分のそういう考えは表に出てこないんですね。でも当時からずっと今仕事をしいても、そういうものっていうのが根底にあるので、今回久しぶりに馬場さんからお電話いただいて、トークっていう形になる時に、馬場さんとどんな話をして、しかもお客さんがいて、人が聞いた時にどうやったら面白い話ができるかなっていうのは結構真剣に考えました。後半そのへんも掘っていければと思うんですけど。馬場さんの作品に戻らせていただいて、今のが2008年7年、8年くらい、次どこいきましょうか。アクリルスプレー・・

馬場健太郎

油絵の具っていうのは制作上どうしても乾く時間があるので、プレゼンスってやつです。これですね。同時進行でいくつも並べてこう進めるわけなんですけど、どうしても乾く時間はある一定必要で、その間に何か同時に何か進めていきたいなったときに考えたシリーズがこのプレゼンスシリーズで石こうで最初でこぼこを作って、そこに絵の具を塗り重ねていって、ペーパーで削り出す、削って出すといったのが、さっき話をした時間を隠ぺいするということを見せられる、視覚的に見せられるような表現はできないかなというときに、このシリーズを思いついて、ずっとコンスタントに同時にやっているというわけです。というシリーズです。

でこぼこは最初見づらいんですけど、白いところが出っ張っているわけです。絵の具を重ねていって、青の下が緑、緑の下が赤とか微妙にちょびっと見えるといったような。なので、絵を描くよりも、作業が、考えずに仕事を進めていっていけるので、オンオフじゃないですけど、やり取りがすごく都合がいい感じ。

北川聡

そういう計画性というのは絶対に絵画の中にありますよね。例えば下地を作って下塗りをして中層があって上層があって、そういう計画性とその共生のようなものが絶対入ってくると思うんですよ。馬場さんの作品なんかはそういう即興性という部分が結構重要で、例えば今のこういう作品なんか見ると、そういう計画性みたいな作業性とシステムみたいなものがまずこう見えてきて、そこに即興性というのがどれくらい入り込めるかとうところで何か違っていくんじゃゃないかなと言う風に思うんですよね。

ドローイングからいろんなきっかけをつかむんですけど、油の場合はかなりずっと持続しているものがかすかに動いている、少しずつ動いていってどちらかというと展開するっていうよりも、もうちょっと垂直に掘り下げていく、そういう種類の人だと思うんですよ。そういう中でドローイングっていうのはもうちょっと実験をして触れていきたい、変わっていきたい自分と変わらない自分とみたいな、そういう間で仕事しているのかなっていうそんな風に僕は感じるんですね。それで間違ってない?

馬場健太郎

かなりしっくりくる言葉をもらったなと思います。この重ねていく中で、システマチックにある決めごとを自分にこう決めておいて、今日は六層を塗り重ねていって、アクリルはすぐ乾きますから、一回削って寝ようと、翌朝みたら、ちょっと変わっているからやろうという中で、どうしてもエラーというかズレが、いっぱい削りすぎちゃったりとか、塗れてって塗りすぎてちょっとこうへにゃっといったりとか、そういうものが僕はすごく大事で予期せぬ出来事みたいなものが画面上で起きたときに、とてもラッキーだと思うというか、それが自分じゃない人が作ってくれる。無責任に聞こえるかもしれないんですけど、そういう所につながっていて、そういうものを上手に拾い集めながら着地点を探すといった仕事になっています。

これが、プレゼンスシリーズ。

実験的なことっていう意味ではアクリルスプレー、これはちょっとある一年間は筆を使わずにエアブラシみたいなのだけで、仕事をしてみようと思っていた時期の作品で、例えば全然材料がないところに身を置いて、はたして自分は作品というか絵は作れるのかということを常々考えていて、筆が無くても絵は成立するのかと思っていた時期の作品ですね。

数は作ったんですけど、なんかあんまりしっくりいっていないな、発表してなくてアトリエの隅っこにおいてあるっていう風な感じですかね。

齊藤智法

抽象絵画ってひとくくりにしていいかわからないんですけど、抽象絵画の作品と対峙した人には、特に作家さんではなくて一般の鑑賞者が対峙したときにそれが何を意味しているかとかそういったことというのは、図形があればその図形を認識していると思うんですけど馬場さんスプレーのやつとかは、霧のような何とも言えない、そこに何があるのかもとらえられないものだったときにどう受け止めればいいんでしょうか。

馬場健太郎

どう受け止められるかは正直よくわからないんですけど、何か具体的なものに見えるとまずいな、という認識で製作を進めていったんです。富士山に見えたりとか人の顔に見えるのは意外とよくあったりするんですけど、なるべくその具体的なものにメッセージ性を消すというか、自分の思いを出さないって言ったような方向に進めていくとか。

齊藤智法

作品から受け取れる情報っていうのが例えば見る側がものすごく感度を上げて、微妙なテクスチャーだったりとかグラデーションや粒子みたいなものにここがすごくきれいだなって、こちらから感度を上げて突入していけば、物質としてのアート作品として楽しめるのかもしれないですけど、どこまでいってもわかりにくいものではあると思うんですよね。特に抽象絵画の歴史とかコンセプト、理解してないと思うんで、そういうときって作家自身がどうしてこれを描いたのかとか、今作家はどういう時期にあるのかとか、そういうこう裏側のヒストリーみたいなことは、すごく見る側にとっては重要なことなんじゃないかなって僕は思うんですけど、その辺は見てもらう鑑賞者の方に意識的に伝えようとかそういう風にされてたんですか。

馬場健太郎

絵を描いた時の思いというか、具体的な記憶の一部であるということは僕の中でははっきりしているのでそういうことは絵を僕は【板張り】の絵の前で聞かれたら話すということはあるんですけど、自分のパーソナルな記憶の部分というものがある見てくれた人の中で共通認識に見たいな感じで、わたしも似たような経験がある、小さいころに鉄棒を大きいと思っていたけど、大きくなったらそれを見たらすごく小さく感じた。という経験はだれしもある。同じ場所を見て時期や心境が変わったときに、風景を見たときに違ったような感覚になる、という状況が伝わればいいかなと、わかりづらいんですけど、なんかよくわかんないけど懐かしい、とか人の経験なんだけど、自分の経験のような気がするといったような感じ。

齊藤智法

今回の展覧会のタイトルは記憶と忘却の間、というタイトルですけど、馬場さんの作品は一貫して、馬場さん自身の記憶の中から風景というか稜線みたいなものを全部記憶の中から引き出してキャンバスに定着されている。

馬場健太郎

そうですね、すべて作品を手から離すときに、何か飽和するとか自分じゃ無い人が書いたという感覚になるっていったようなことって、自分の中の記憶と結びついている気がするんですよね。それを違う人が見たときに同じような感覚で感じてもらえればいいかなとおもっています。それはそう感じる方がたまたまその作品と出会えればすごくいいというか、ハッピーな出会いだなって思うんですけど、出会える確率も結構低い。馬場さんの記憶の中のどこかにある感覚っていうのは、ピンとくるというか、自分が感じたことがあることとは別物だと思うんですよね。何ていうか、違う風な経験が結びついてもいいわけですから、見るということを通じて何か経験というか記憶がリンクする瞬間があればありがたいなと思っていて、そうしなさいと言っているわけではないです。

齊藤智法

ちなみに今日は馬場さんの絵を始めて御覧になった方って、どのくらいいますか。何か記憶に引っかかる部分みたいなものが、何かしら感じるものがあったかどうか。もしあった方がいたら、こんなこと感じたみたいなことを、ぜひちょっと、あんまり発言したくなかったら全然大丈夫ですけど。

女性

私は、結構、大丈夫です、そのまま、【46:00】

青いから水でばばーっていう感じで、ちっちゃいころ水の中に潜ったときも、冷たい感じとか、その景色があって思い出したりはしました。音が聞こえなかったですね。

温度とかそういう記憶がなんかちょっと【46:28】

とてもありがたい。

馬場健太郎

今回は今年に入ってから重力というかそういうことばっかり考えていたので、たまたま着地点がこういう風になったんですけど、すごく無音というか、無音かものすごく爆音過ぎてなんだかよくわからないといったような状況に近いようなことなんですけど、なんかすごくよく伝わっているというか、よく見てもらってあります。

ちゃんと伝わってますね。

女性

はじめて見ましたけど、伝わりました。

齊藤智法

一見、引いてみたら何もないようにも見えるくらいなんですけど、その中にものすごい情報量が馬場さんの絵にはあるので、それをたぶんいろんな人の感度のセンサーがある、人によって違うと思うんですけど、すごくその自分の持っているセンサー、周波数みたいなものと合う絵が馬場さんの絵の中にあったときに、すごく何かを感じるのかなって、僕も馬場さんの絵を今まで見ている中で、やっぱり自分がこれ好きだなーとか、なんで自分はここに吸い込まれる感じがするんだろうなって考えることがよくあるんですけど、そういう感覚が多分抽象、抽象絵画というのが正しいかはわからないんですけど、見る側にある種ゆだねている部分を大事に制作されているから生まれるのかなって思って、やっぱりデザインやっているとそういうわけにはいかない部分もあったりするので、抽象絵画っていいなって改めて思います。そういう話を聞くと。北川さんはご自身で鑑賞者に対してはどう考えていらっしゃるんですか?

北川聡

あんまり考えてないかかもしれないです。あんまり考えてないかな。

馬場健太郎

僕は北川さんをとても好きな理由の一つに、お酒を飲むととても面白い話をするんですけど、北川さん小さいころに売れない画家になろうと思ったという話があって、僕は一番好きなんですけど。小さいころに向かいの家に引っ越してきた画家がいて、昼間から拾って来たテーブルや椅子を庭に出してコーヒーを飲んでいる。そこを毎日のぞき込んでいると、ある時、おいでっていって家の中にアトリエの中に入れてくれるようになって、いろんな絵のことを話してくれるようになって、僕は大きくなったらこういう風に売れない画家になろうと思ったって話があるんですけど、まあ面白いですね。(笑)

北川聡

テーマが象徴と抽象というテーマで、ちょっとはそういう話をしなきゃならないんですよね、たぶんね。テーマの発案者としての齊藤君の話を聞きましょうか。

齊藤智法

象徴と抽象に関してですね。ちょとだけ、僕は象徴と抽象ってテーマがあったときに、自分が知っていることだけで、解釈、まったくできなかったので、絵画の世界の観点と自分が持っている世界の観点が違う部分もあると思うんです。絵画の中でいう抽象とデザインの抽象ってまた違うと思いますし、象徴のとらえ方も人によって違うんで、ちょっといくつか質問というか一つのことに対して、みなさんのお考えを伺えればと思いまして。象徴と抽象ってどっちが新しい概念なのか、時代的に。

馬場健太郎

これは後から。この中世美術とか勉強されている方がいたら違うよっていわれそうですけど、象徴主義っていうのは印象派の前ですから、シンボリズムみたいなものは抽象表現主義よりずいぶん前。歴史的に、しかしシンボリックなものと抽象的なものはたぶんどちらが先っていうよりかは、ほぼ同時期に出てきた概念だとは思うので、対極はしていないと思う。

齊藤智法

抽象絵画っていうカテゴリで美術史上くくられているアーティスト、日本も海外も含めてですけど、例えばバーネットニューマン、ああいう、一本の線がビシッと画面の中に入ってくるようなものって抽象絵画なんですけど、結構象徴的だなっていう風に感じる部分があるんですけど、それって感覚としてあってますか。

馬場健太郎

どういうところが。なんの象徴?

齊藤智法

おそらく、人間としてその超えられないものみたいなものを絵画の中に作家自身が表現して、または、したいという欲求が、ひとつのモチーフを象徴的ないわゆる、宗教的なものかもしれないですけど、象徴主義ってやっぱり宗教の統治があってそこに一つの象徴が生まれて、それからの流れがあるとなんとなく理解してしまう。そういうものを人間が超えられない宗教みたいな力を一本の線にしよう、だけど表現は抽象。みたいな、ところなんですけど一本の線って強いじゃないですか、ものすごく、表現としては。なので、馬場さんのこう線ととらえられるものがない、わーっとしたものよりも、ズバッと一本線があるものって象徴的だなって感じたりするんですけど、それはなんていうんですかね、抽象とか象徴って入り混じった概念になるのかなって思ったりしたんですけど、そのへんはいかかですか。

馬場健太郎

すごく私的な斬新な切り口で面白いなって思います。バーネットニューマンの作品が象徴的だっていうこと自体もすごく僕にとっては新鮮な面白い意見で、漠然としてるものが実は漠然としていないといったような意見だと思うので、おもしろいと。

齊藤智法

抽象の反対は具象、そうですね、いわゆるアート的な話といえばそういう風になって、絵画の世界では写実的なもの、具象の中で写実的なものととらえられるのが、いわゆる抽象絵画といわれるような抽象的な表現の反対ととらえる。象徴っていうものの反対って何でしょうね。僕、考えてもわかんなくて抽象の反対はなんかわかるんですけど、象徴の反対ってなんだっけってなってわかんなくて、北川さんとかに、どう思われますかとちょっと伺ってみたいんですけど。

北川聡

僕は絵画を代表できないんですけど全然、抽象はこうで具象はこうでっていう風に言えないんですけども、例えばテーマを聞いた時に象徴と抽象ってあって、僕の中ではもうちょっと具体的なものが象徴、何かを象徴するというか例えばどくろが死を表す、というような何か具体的なものが浮かび上がっていくと、それを通して何か象徴的なものを表すという考え方でバーネットニューマンは象徴っていうことを自分でも言ってますよね。でも、何かどうなのかな、宗教的な感じはすごくするし、ニューマンがそういえばそうなのかなという気がするんですけど、僕自身は、さっき見る人のこと考えていませんなんていうことを言ったり、象徴ということを考えてこなかった、それはすごく無責任だと思うんですけど、自分の中でやっぱりよくわからない。だから例えば色でも赤、赤が何を表すかは国によって、文化によってまったく違うわけですよね。それはある形に対してもそうですけど、だから例えばある時期のヨーロッパの静物画なんかはそういう約束事を知らないと、わからない。何を象徴しているのか、全部意味があるわけですよね。でも、だからそういう約束事を知らないとわからない絵、約束事を知らなくても見ることはできるんですよね。そしてもしかしたら象徴を形成する精神みたいなものが伝わる、とういうことなのかな、と。何を象徴しているのかという、それ自体が問題ではなくて、ぐらいにしか考えたことがない。なんかすごくあいまいな話なんですけど。

齊藤智法

なんで抽象表現、抽象絵画が好きなのかって結構ことあるごとに考えるんですけど、その答えっていうのはでないんですけど、北川さんがおっしゃった何か象徴的なもの、やっぱり圧倒的な存在が自分の中にあって、そこをやっぱりとらえきれない、まだ。すべてを自分でとらえきれていない部分があって、それが何か抽象ってある種包み込んでくれる部分があるなって思っていて、自分の感覚をすごく抽象が受け止めてくれる感じがあるのかなって思ったりは少ししたんですよね。

北川聡

うまくスパッとこういう時に言える人がいるんですよね。

馬場健太郎

なかなか一言でむつかしいですよね、そうですよね。

齊藤智法

もうちょっと少しずつ、外堀からいろいろやってってみようかな

馬場健太郎

すごく大きなテーマを選んだので、シンプルでピシッとした結果をトークの中で話そうというよりかは、僕の作品があって、シンボルとアブストラクトということを話すということが面白いんじゃないかと思ったので、いいテーマだと思ったんです。

北川聡

例えば自分で作品を作る、作り手が自分の幻想を濃厚にするために、象徴ということを使っていく、ということはありうると思うし、自分の外部を取り入れるために象徴ということを使うことはあるな、と確かに思いますね。象徴っていうテーマ?馬場君に、象徴的なものって描いたことあるのって電話でちょっと聞いて、そうしたら、10点に満たないと。

馬場健太郎

そうですね、船みたいな形ははっきり船みたいな形にしようって思って描いてますけど、船を描こうとまぁこれとか【古典的なもの】

例えば、ちょっとこう海を感じさせるような水平線を感じさせるようなものが入ってきたり、そこの中に船を感じさせるようなものが入ってくる。そして精霊流しという長崎の、死者を西のほうに送る精霊流しというかなり派手なお祭りがあるんですけど、こちらの世界とあちらの世界を結ぶ象徴として船みたいな形を画面の中にもってこようと意識的に持ってきたのはあるんですけど、今まで書いた中で10点に満たない。

北川聡

僕は考えたときに、それって馬場君の作品の中で非常に具象的な部分の絵で、それによって象徴を表しているかなと。すごくわりと矛盾するような言葉かな、というふうにちょっと感じたんですよね。それかこう【せいほうせん】、西方丸という風に書いて、死者を送る船があって、ということを知らなくても、それを別の世界に送っていくような何か感覚みたいなもの、精神みたいなものが絵の中で伝わればその約束事を知らなくてもわかる、という話なのかなっていう。

齊藤智法

象徴と抽象、たぶんそれは対極にある言葉ではないと思うんですよね。なんとなくそのへんはさっきのくだりから違うと思ってるんですけど、それぞれ感じることを一応対になるように、僕なりに少しずつ出していくので、僕が感じることを一個ずつおふたりのご意見を伺えればと思うんですけど、まず最初象徴は解釈を固定するかな抽象は解釈を固定しない。これはどうですか。

北川聡

そんな感じですか。ごもっとも、そういう感じです。そうですね、そう思うんですけど。僕はマラルメをそんな読んだことがないんですけど、そういうことを言っていますよね。名づけられたものが見えてくると、何ていうかつまらなくなってくるといった話だったと思うんですけど、何なのかなっていうほのめかし、そういうところを言っているんですけども、馬場君のは、ほのめかしているだけかな、と。だから富士山に見えてくるとまずいわけで、名づけられたものが見えてくる手前でやめていて、でもそういうものは気になっていてっていう、そういう所なのかな、と思う。

齊藤智法

馬場さんの絵は右側っていうことですね、圧倒的に右側。次なんですけど、左脳と右脳ってよくいうじゃないですか。左脳はわりとロジカルな理性的な、右脳は感性というか感覚的な働きをするということで、それでいくと、象徴のほうが左脳的で、抽象のほうが右脳的なのかなという感じで当てはめてみたんですけど、言語ってどっちでしたっけ。言語は左脳。右じゃない?右ですか。言語って右脳ですか?左ですって、良かった。わりとこう美術系、アート系な人は右脳が強いっていいますよね。それで言うとこう、象徴と抽象で言ったら、なんとなく左脳が象徴なのかなって勝手にそう思ってわけてみたというか。

馬場健太郎

言語は左脳をよく左脳で理解したり解釈したりっていうけど、本当に全部かちっと分かれているわけではないじゃないですか、両方使って言語とかビジュアルでも使う。わけるとこうですけど、実際右しかない左しかない人っていないですよね。いないことはないと思うんですけど、それだけしか使ってないことではない。傾向で言うとそんな感じだけど、そのへんが割とあいまい。記憶もひょっとしたら脳の中に入っているとするとそういう部分が多分にある、海馬でっていう話は有名な話だけど、ある美術の先生とお話をしていて、その方の親戚の人が痴呆になられて、痴呆気味になっているという話を聞いて、どういう状態かっていうと、すごくよく覚えているのと、忘れるのを交互に繰り返すんだって、頻度がちょっとずつ変わってくると言ったようなことを聞いた時に、症状になった方がそういう風になっているんですけど、僕とかでも似たようなことは起こるわけで、それが、今回の展覧会のテーマのひとつなっているんですけど、記憶のインプットのされ方ってものすごく面白かったこととつらかったことは明快に覚えているんだけど、日々の日常のたわいもないことは意外とあっさり忘れちゃうな、とそれでも何かちょびっと残っているというようなものが、制作をする上での動機というか、制作上でとても重要なポイントにつながっている、と僕は思っていて、それは例えばいつも通っている道が、あるときがけ崩れですごくこう壊れていた、ちょっと木が倒れていただけでも大事件なわけですよ。そういうものが記憶の中のちょっとした【えだわ】じゃないけど、絵の具がちょっとたれて面白くなったのと似ているな、と僕は思っていて、大切に重ねながら作っていきたいと思っています。

記憶の話に飛んで、すいません。

齊藤智法

飛んでよかったです。展覧会のテーマなんで。

よく時代の象徴っていうじゃないですか。この時代の象徴的な出来事とかって言ったりするなって。抽象は風景の抽象です、みたいな。何かを抽象、風景を抽象、そういう使い方をするのかなって思って、なんとなくこれ思ったときに、象徴って、馬場さんが画家人生まだ全然先も長いと思うんですけど、馬場健太郎の画家人生の中で象徴的な作品っていう風に、後に言われるものが象徴とすると、ある種時間軸をもっているというか、の中の一点みたいなものが象徴的なものかな、と思ったりするんですけど。あとは風景の抽象は単純に目の前にある何か現象というか、それを抽象化している、時間軸のない話というか、その場というか、なんか向き合っているものの間に使うのが抽象なのかなっとちょっと思ったんですけど。

馬場健太郎

時間軸はないような気がしますけど、もっと大きな一万年とかそういう大きな時間て意外と抽象的な表現というか、人類と考えたときには、意外と時間の大きな流れは抽象的なような気がします。それと僕の作品はあまり関係ない。

齊藤智法

僕の普段の話なんですけど、プレゼンはいろんなことを象徴化しないといけない。デザインを考えたり作っているときは、いっぱい抽象化するんです。具体的なモチーフを、馬場さんのロゴを作ってくださいといわれたときに、馬場さんの顔の写真を撮ったのがロゴです、っていったらデザイナーとして大丈夫か、みたいな感じになると思っていて、いかにいい具合に抽象化していったりとか、そんなようなことをやってったりするんですけど。デフォルメしたり削ったりくっつけたりしてやってる行為が抽象だなって思いつつ、馬場さんに、ロゴできましたプレゼンするときにはこれは馬場さんのひげを象徴した形ですって言うと思うんですけど、象徴化しないといけないなってそういうときには思うんですけど、馬場さんのひげの抽象表現ですって言ったら、それどういうことみたいな感じにもなると思って、そんな象徴と抽象、僕にとってはデザインをする中ではそういうものでした。

馬場健太郎

なるほど、おもしろい。北川さんなにか。

齊藤智法

どうでしょうね。抽象というと何かを抽出するわけですよね、取り出す。取り出していると同時に捨てているわけですよね。何か見ないように、見ないようにして。絵を描くときってそういうことをやりますから、具体的なモチーフがあってもそういう抽出作業は普通にあるわけですから、何か自分が描いている絵が抽象画か、具象画かっていうのは考えたことがなくて、全部絵は抽象かなっていう感じもするし、象徴ってことでいうとさっき言ったとおりの話なんですね。リアリティはなかったりするんですけど、ちょっと違う層の言葉かなっていう、そうですね、もちろんさっき言ったように絡んでは来るんですけど、ちょっと層が違いますね、抽象と象徴は。抽象と具象という話だったら、もっと二極的な議論になると思うんですけど、これが面白いのは、違うから面白い、というかそんな簡単な問題にならないっていう。

馬場健太郎

(アンリ・)マチスがさ、ある女性の絵を描いた時に、全然似てなくてその婦人が、とても怒った。すると(アンリ・)マチスがこれは絵ですからと答えたんです。あくまでもフィクションの世界なんだと。あの当時の絵画というものがいかに大きな発言力を持っていたか。日本とは違う状況だということは置いといて、絵に対しての思いを強く持っている人がとても多くて、それと抽象表現とは、はなっから抽象的ですってことを前提にしているので、シンボルではないけども、脳の中での出来事を提示しているということだと僕は考えています。

齊藤智法

抽象画家の馬場健太郎さんです、と認識してから馬場さんの絵を見るのと、何にも画家の馬場健太郎ですって言われてみるのと、またちょっと違いますよね。

馬場健太郎

抽象画家っていう風にあまり紹介されることはないんですけど、絵をかいてますって言うと、すごく細密描写をしている人とかをかってにイメージされることのほうが多いんで、いやいや前衛的なたぶん今想像しているのとは違うんですけど、何か資料とかをもっていないかと話し方をするというか、多くの人が思っているイメージとは違うといったような。

齊藤智法

逆に抽象画家としてのプライドじゃないですけど、抽象画家だから象徴的なモチーフはあまり描かないぞみたいな、そういうのはあったりするんですか?

馬場健太郎

ないですね。そもそも、自信満々にやっているというよりかは積み重ねているといっているような部分も大きいので、何とかとは違う、違いますっていう意識は色んなところにはありますけど、具体的には。

北川聡

おそらく、美術の中で象徴ということと対比されてあったのは、例えば(オディロン・)ルドンと(クロード・)モネは同じ年なんですよ。それで、モネの感覚性みたいなもの、ルドンの象徴性、それぞれ光を描いているけど、モネは外光を描いているし、もうちょっとルドンは内なる光を描いている。ルドンは象徴という内容を持っていると美術の中では出てきている。それも象徴と抽象というのとはまたちょっと違うかなという感じはするんですけど。

美術の中ではそれはありますよね。象徴主義の出てき方が、印象派の感覚的なものを否定するような。

齊藤智法

なんか考えれば考えるほど難しいテーマですね。

馬場健太郎

そうですね、ちょっと大きいですね。

齊藤智法

なんかこう外国人というか英語圏の会議はわりと象徴的なやりとり、象徴的ってこともないんですけど、物事を決めていくというやり方をするなと思って、日本人の会議は抽象的な感じで運んだりとか終わったりというのは結構するなって思って。

馬場健太郎

そうですね、結論を出さないことでもよしとするといいますか、そういうことは多分に僕でもありますね。結論をあえて出さない。結論のない問題に取り組むことが面白いといいますかね。そうですね。その中でも自然に続いていくというか、勝手につながっていくような感覚のもののほうがとても面白いかなと。長く続けられる、ということでもある。

齊藤智法

本当に嫌だというか厳しいというか、きつかったら続かないですよね。

象徴はシンボルなんで、おそらく先ほど北川さんもおっしゃっていましたけど、共通認識があって成立するというか、この時代を象徴するのは馬場健太郎さんですよね、ということに対して、馬場さんという象徴に対して、みなさんがそうだよねっていう。

馬場健太郎

でも、抽象的なことも共通認識になりうると思うんですよね。確かに。その逆もありうるわけですから、ここはあんまり分けられない。

齊藤智法

抽象だからすべて曖昧かっていうと、そんなことはない。明快に何か霧というものを感じたり、霧というものは決してあいまいなものではない。ぼんやりはしていると思うんですけど。

赤い、赤の中にもいろんなテクスチャーとか、絵の具の塗り重ねる表現があったとしても、ぱっと見赤い画面があったときに、たぶんこれは赤いよねっということはだいたいの人が同じように思うと思うんですけど、馬場さんが赤に対しこういう記憶のコードを込めていたということは、さっきおっしゃったように、ものすごくシンクロして届く人には届くかもしれないんですけど、大体の人には共有認識にはならない、だからどっちかっていうとこれは赤だという象徴性のほうが強く人は認識するものなのかなと。多くの人が共通で認識しているもの。どちらかというと多くの人に認識されるのが象徴で、少ないというのは変ですけど、ある限定的な人に響くのが抽象なのかなって思ったりするんですけど、でも、馬場さんおっしゃるようにたとえば、馬場さんの絵画がものすごく大きな人に認識された瞬間に、すごくそれって共通認識になっていくと思うので、馬場さんの絵画、それって象徴的な存在になっていくと思うんで、そこ、つながっている部分もあるなって。

馬場健太郎

話しはそれるんですけど、北川さんと【1:24】展覧会やったころくらいに、2003年くらい、赤って赤く見えるけど、地球上で赤く見えるわけで。

2003年、どのフォルダですか、2003年はない、2005とか8とか、これより前、その前だと2009、ないです、97、ここにあります?この辺で、これ。

ちょうど写真の現像とかの仕事をやったりしていてフィルムというもの、暗室の中でフィルムを現像するような作業をやってたんですけど、環境によっては赤いものが赤く見えない、かもしれない、僕は赤く見えているけど、本当に赤いのか、という疑問を持ったことがあって、地球上の光源で見るとそれは赤いんですけど、火星にもっていったらそうは見えないわけである一定の条件を地球上の中でみんなが共通認識として赤として持っているんです。絵具とかを触っていると、それ自身が赤だって言っているんですけど、これ本当に赤なのかなっていう疑問があって、隠ぺいをしていくっていうようなことと繋がっていったんですけど。

そのころ描いた作品はフィルムの被り、光が漏れたり、不備な部分を利用して描いたり、そういうものをモチーフといいますか描いたのがこの時期。そうなんですね。それはフィルムの何て言いますか。明確なモチーフとしてあります。

齊藤智法

他、ご紹介したい作品はありますか?

馬場健太郎

その時期。その時期じゃなくて2010年くらい。2010年にここの場所でやった展覧会なんですけど、ざっと今日にいたるまでのつながりの意味では、作品自体もつながっています。色彩もわりと近い。緑はだいぶ、緑系は今回の隠ぺいされている印象を受けますけども、色相は割と似ている。こういったような感じです。2010年。大体なんですけど、すべてがっちり決めているわけではないんですけど、油彩の作品はタイトルをイタリア語で書いていて、アクリルは、英語で。ドローイングは、日本語と。だいたい決めているんですけど、しっくりいかないときは英語のタイトルになったりしています。この辺は、タイトルと作品の技法っていうものを考えていた時期です。

齊藤智法

馬場さんがイタリアに行かれた何年間でしたっけ?

馬場健太郎

一年とちょっとです。

齊藤智法

なんでイタリアに行かれたんですか?イタリア語のタイトルはなぜ?

馬場健太郎

美術の根っこがあるかなって思ったんで、イタリアって。アートの本場はニューヨークだって思ってたんですけど、ある程度長い時間をかけて自分の絵と向き合って、地味な時間のかかる作業を素材を変えて研究というか実験みたいなことをじっくりやりたいなと思って、油絵具がゆっくり乾くような感覚で時間を過ごせる場所っていう意味では、イタリアかなと思いました。作品のタイトルに関しては、しっくりいくとか、いかないとかのあいまいな表現になっちゃうんですけど、やっぱりぴたっとくるんですイタリア語が。これタイトル、「イルテンポ」言います。日本語にすると「時間」「天気」、それとこの絵とタイトルがぴったりいったので英語じゃなくてイタリア語。これは「窓」というタイトルなんですけど、ミラノの僕が住んでいたアパートの窓の記憶を、最初は写真を見ながら、かなりしっかり描いたんですけど、しっくりこなくて、これはあの感じじゃないなと。それで絵具を上からなんども塗り重ねていったときにかなりぴったりきたんです。見えないけど、窓があるという感覚が、この作品に関してはすごくしっくり来たんで手から離れた作品ではあります。これは鳥瞰図というか飛行機の上から見たような感覚の記憶と、そういう風な感じでしょうか。2010年鎌倉、まさにここです。2010年、次2013年、2010年って見ました?

齊藤智法

この後に2013年、はまだ見てません。これですね。

馬場健太郎

6年ちょっと前、2010年と。当たり前ですけど、今と。ちょっとずつ今に、近づいている。そうですね2013年、下の「ARIAKE」という作品が2013年制作です。

【無想】という展覧会タイトルで、その時の黄色い作品は今回も2階に並べています。2013年の作品です。

齊藤智法

こう見ていくと馬場さん初期の作品って、線がかなりいっぱい描かれているというか、線を隠ぺいすることもなく、線を線として定着しているわけですけど、ある程度、2009年以降、ほぼ今のスタイルというか、割と何色かって言われたら、まぁ黄色だろうなって感じとか、その辺の隠ぺいする色はなんとなく共通認識のものに収めながらもその裏側にはすごい色んなものがあると感じさせるというかそんな佇まいを、徐々に確立されている。そうするとやっぱり馬場さんの絵画って、馬場さんに限らず、ほかのアーティストもそうなんですけど、変遷を見ていくと、すごくより面白いというか、そういうものなんですねと、僕は改めて思いました。そういうのが伝わればいいなって思って。この対談をまとめて申し訳ないんですけど線から面を重ねていって隠ぺいをする、時間の概念を自分の中でどう表現というか、自分の作品の中に取り込んでいくかっていうのは、試行錯誤の上にあるといったような形なので、展開はしてきている。この作品はまたこう変化していくわけなんですよね。すごいそれはやっぱり楽しみになります。伺うと。

北川聡

新作がありますよね、ちょうど横にあるんでお聞きしたいんですけど、1999年のフォーマットで作ったという作品なんですよね。それは何故ですか。

馬場健太郎

同じフォーマットで同じ考え方のものを20年たった今、もう一回作んなくちゃいけないという使命感にかられたんですけど、それはどうしてか・・・その作品自体が無くなったというのもあるんですけど、その時に描いて完成したものを、東京ステーションギャラリーに展示したわけなんですけど、課題がすごく残っていて、宿題というかかなりしっくりいっていない部分が、頭の中に残っていて、あの問題はいつか解決しなくちゃいけない。具体的に何かというと中々言葉にしづらいんですけど、やりきれない思いみたいなものをいつかどこかで結実させなきゃいけないという思いがあって、20年かかってこの形になったということなんですけど。何か劇的にわかったから提示しているわけではありません。

北川聡

僕が聞きたかったのはその作品を描いた時にもうちょっと違うものになるなという考えというか、絵のプランを持っていてその絵を描き上げる。でもそのプランを実現したのか、もしくはそこで問題にしていたことを最後までやり切れずに終わったので、それをやり切ろうという風に、いや、いまだったらできるかなと。

馬場健太郎

両方とも違っていて、99年の「彼方より」は完結しているんだけれども、20年後の「彼方より」は絶対作らなくてはいけないと勝手な自分の中に課しているのがずっとあったんです。うまく言えない何かは。あれはあれで完結もしていたし。プラン通りに入ったと思うんですけど、そうではない何かというか、違う課題みたいな宿題みたいなものがずっと自分の中に引っかかっている部分があったので、今回この形をリメイクというんでしょうか、まったく全然違う絵面というか色も形も全然違うものなんですけど、作りたかったし作れてよかったと。

齊藤智法

そのね、ふちに特徴がありますよね。丸くなっている内側に。

馬場健太郎

90年代の作品というのは、高さが162cmで、壁に掛けるときに、絵から壁まですんなりスムーズにいかせたいなって思って、このあたりは全部大体丸いんです。すべてがそうじゃないんですけど、丸くかったりテーパーを切っていたりとか、作品サイズが身体性と結びつくといいますか、この絵はちょっと違うんですけど、エッジが丸いものを多く作っていました。そこで99年の「彼方より」という作品は丸くなっている。だからもう一回制作しなおそうという想いにつながっていきます。

齊藤智法

象徴は抽象よりも割と貴族的な感じがするなとか、抽象は象徴よりも一般的な感じがするな。これも明確には分けられないと思うんですけど、なんとなく貴族的な感じこっちは一般的な感じ、だれもが享受できそうな感じがする、抽象は。象徴は万人にたいして享受されるような感覚もあるなって、答えが一つの答え、数学的といいますか答えが明快なものとは違い、アブストラクトの方向、多様性がある、いろんな答えがあっていいんです、といったような答え。そうなってくるとさっき話していた話と矛盾していて象徴って共通認識があっての象徴だねって話していたのにこう考えると全然真逆だ。難しいなと思いました。象徴は象徴的な思い出って例えば言ったら、自分の思い出の中で象徴的な出来事、記憶に強く残っているから、ある種記憶みたいなものが象徴的な思い出かなと思ったりとか、逆にこう抽象的な思い出って言うと、抽象的な思い出ってひょっとしたら思う出そうとしても思う出せないくらいの、どっちかっていうと夢とか忘却とか、今回も記憶と忘却の間でいうと、わりと抽象ってそっちのぼやっと思ったんですけど、それはどうですか。思い出、そもそも抽象的な思い出というのが存在するのかなというのもあるんですけど、さっきから馬場さんの話を伺っていると、記憶の中の、普段の生活の中で歩いているときには思い出さないような記憶のディティールを絵を描く中で探って思い出して、引き出してというか、それを定着している感じがすごくするので。

馬場健太郎

そういう所は僕はすごく面白いなって思って、南フランスでヴァンスという場所があって、ベニスからバスに乗っていって、(アンリ・)マティスの礼拝堂があるんです。バスで45分くらい山の上を上っていく。僕20代前半の時にアルバイトをしていて、そこに見たくて見に行ったんです。20年何年後かに行ったときに、歩いてバスから降りて行ったときに、ほとんどヨーロッパって変わりませんから、20年くらいでは。坂を上る感じとか覚えているんですよ。そうそうここ来た来たって思って、あの時犬に吠えられた、という思い出があって、それとこう自分の記憶と現実がぴったりきているところと、全然違う勝手に書き換えちゃって違うものになってる。美化しているといいますか。いい風に書き換えちゃっている部分があって、その記憶のずれみたいなものがすごく面白いなって思ったのが、1回目のこちらでやった展覧会タイトルのコメントに描いたんですけど、記憶と忘却の心地いいズレとうものをむしろ、ネガティブにとらえるのではなくてすごく面白いものとして僕はとらえていて、そういうことも作品の一部になれたらいいかなと思っています。

齊藤智法

馬場さんの作品を見るうえで、その話を伺ってから見ると、すごく見る側は受け取れることが増える気がします。記憶ということでお聞きすると、今隣にある絵なんかは、僕は具体的な場の記憶、という感じがするんですよね。あるいは具体的な光の状態と言うか、はっきりと空間が描かれている。地面があり、下に楕円形の光のような、木漏れ日のようなそういう形があり、その前に立つと、その場にいるようなことが感じさせられるんですけど、そういうものとそうでないものがかなりはっきりあるような気がするんですよね。そういう場が設定されているところとね、下の前回か前々回の「有明」横長の大作もやっぱり具体的な場という記憶があるそこに描かれているのかな、と。

馬場健太郎

そうです。ものすごく明快な記憶をもとに、具体的なものをもとにスタートしている作品もあって、それはなるべく製作していくうえでそれを消していく作業になっていくんですけど、その逆から出発しているものもあるんで、逆から出発していてなんかちょっと具体的な戻していったりっていうのがあるので、そういう初期衝動というか、こういうことにしていこうというものとはちょっと違ってくる。

齊藤智法

だんだんテーマが大きくなってくるんです。テーマというか、感じたことが大きめなんですけど、象徴はどっちかというと死のほうに似ている。抽象は生のほうに生きているほうに似ている。似ているって表現が会っているかともいえるんですけど、象徴ってたとえば、象徴化されてしまったら、1回死ぬわけではないんですけど、象徴になっちゃうというか、抽象化されているうちは、抽象だったら、いつまでも抽象にしていられる、ずっと生きていられるというか、終わらない感じというか、そういう感じもちょっと。

馬場健太郎

死というか、固定化するところに帰結するような気がして、固まる感じがします。そもそも生きている間と死んでからみたいなことをそこで線を引くかというと、とらえ方として線をひかなくてもいいよと、割と宗教とかはそう、そこで線を引かないじゃないですか。死後の世界みたいなものがあることになっていって、そう考えるとある種、死すらも規定せずに、その後のことまで全部抽象的に表現しているところがわりと宗教とかはあるとすると、やっぱりそういうものすごい大きいものを、ぎゅって無理やり象徴にしたものが宗教のシンボルみたいなものかもしれないですし、やっぱりこう象徴化されると、ほんとにもう固定化された完全にフィックスした何かになっちゃうんですけど、それをどこまでもまた抽象化すればひょっとすれば、ある種規定され切らないでまた動き始める、またカオスになっていけるというか、そういう感じが抽象は生きている感じがすごいして、象徴は死んでいる、死というか止まっている感じがするなと思いました。

象徴と抽象の話とは少し違うんですけど、この展覧会の期間中に、僕の友人というか、亡くなった、とても寂しいなと思うんですけど、もう会えなくなっちゃった人のことを考えると、この人はこういう人だよねって、生きている時はあまり考えなかったんですけど、亡くなったとたんに、何か輪郭がはっきりしてくると言うか、人としての記憶がよりシャープな境界線がはっきりしてくるというか、人間の存在ということを考えると、動物から人間になったのかな、という気もしているし、現世で会えなくなったことが象徴化されたのかどうかはわからないですけど、明解な境界線ははっきりしてきたなという感覚はあります。

齊藤智法

樹木希林さんなんかは、急速に神話化されて、なにか急にある形が出来上がった。樹木さんが亡くなってから、広告業界、広告への起用がものすごかったです。樹木さんの生きざまというか、一つのシンボルというか象徴として、広告の表現のモチーフとして、樹木さんを使ったようなものがいくつかありましたね。それはやっぱり樹木さんというある種タレント性、しかもタレントいっぱいいますけど、その中であの方だからできる象徴に、ある種になってもらったような広告表現、結構あの時期多かったので。でも存在が亡くなった時点で、表現自体ももうできなくなったってことですよね。そうですね。樹木希林さん。

ちょっと最後に、話してると結構どっちもいったりきたりしちゃう話だし、逆にこう、画家としての視点でこういうものってあるんですかて言うのは伺いたいことがあって、冒頭にバーネットニューマンの話出たと思うんですけど、抽象絵画なんだけど象徴的に見える絵が僕は結構あるなと思ったんですけど、抽象的に見えるけど象徴的な抽象絵画ってありえるのか、あると思いますかっていうか、馬場さんが思う象徴的な抽象絵画って何だろうなってちょっと聞いてみたくて、別にこの画家がそうだと思う、とかでもいいと思うんですけど。

馬場健太郎

ある種、時間が経ってある神格化じゃないですけど、そういう形になったときに抽象絵画の表現ってある意味もの動くはっきりした象徴的になるのかもしれません。バーネットニューマンしかり。だから、むしろ漠然としていればしているほど、時間が経って、それこそ時間が経って、時代が変わった時に、よりこう明解なそれこそ時代のシンボルになるのかもしれません。

齊藤智法

抽象的な象徴絵画って、そっちのほうは結構厳しそう。

馬場健太郎

象徴主義っていうのも確立されている。シンボリックになっているものがぼんやりしていく、いろんな多様化していくってことはなかなか、なりづらいのかなって僕は思います。

齊藤智法

ありがとうございます。なんかこのテーマでのトークはハードルが高かったですね。 聴いてるみなさんも結構眠くなっている方もいると思うんですけど。なんかこう最後、二分化できないってことはなんとなく分かってきたので、どう終わらせるといいかなって僕も結構・・馬場さんの絵を見る時に、物事のとらえ方みたいなものがすごく広くなった上で、馬場さんの絵を見るとより面白いかなって思ったんで、そういうトークになるといいなって思って、今日はあれだったんですけど、あと5分くらいなので、最後逆にみなさんから馬場さんにこう。

女性

先ほどはふっていただいたのに、同級生として申し訳ない。久しぶりに、馬場くん、馬場さんの、馬場君でいいですか。馬場君の展覧会を見て、本当に驚いたんですね。10年以上前かな、それより前かな、に見た時に、本当に運動の軌跡というのか、ものすごくこう、何ていうんでしょうね、音楽でいうロックのようなパンクのような。ああいうような衝動的な強さというかそういうものを感じたのですが、今回は本当に先ほど言われたように、無音の世界、すごく洗練されていて、しっとりとしていて、お互い年をとったんだなと。抽象、象徴ということでいうと、わたくしの絵の解釈ですと、馬場君の絵を見ていると具象ではない抽象、ものを描いていない、断定していないということで言うと、やっぱり見る側がいろんなもの意味を想起すると思うんですけど、深い意味とか、そういうものの中に目を落とした時に象徴的な何かを自分なりに作り出すんではないか。抽象も象徴も同じ、ワンセットの【1:56:13】だとは思ったんですね。馬場君自身の、先ほど言われたように、すごく大切な方をお二人無くされ、どのような作品を作ったのかなって思いました。やっぱりちょっと叙情的というか、冷たい抽象ではなくて、すごく心のこもった色んなものを含んだ絵を描いて、深く感激しました。

馬場健太郎

ありがとうございます。照れますね。

齊藤智法

ほか、何か馬場さんに。疑問質問。大丈夫ですか?

女性

描き終わったときに自分の手から離れる感覚、という風にさっきおっしゃっていたんですけど、描き始めの時ってどういう感覚で書いてるのかなって思って、私はまったく抽象絵画に知識とかないんですけど、先ほど話を聞いていると、具体的な何かを想像して描かれているんだなっていうのはなんとなく・・

馬場健太郎

具体的なものがはなっからあるわけではなくて、結構最初はキャンバスを白く張って真っ白状態で、結構強いというかそれだけでもういいや、という感じもするんですけど、ただ絵の具をばーって垂らしたりとか、かなり壊す作業を積み重ねていって、その中から自分のイメージとぴったりくるものを探していく作業なので、正直ノープランです。始まりは。何も考えてないです。むしろ、作業というか仕事というか、労働といいますかそういったものから始まっています。

女性

描き始めてからあの時のあの記憶が呼び起こされるなあという風に。

馬場健太郎

そうです。ほぼ9割がた、はなっからこんな感じに、連続してやっていますので、そうなることと、途中から、絵具や画面や色や線や色んなものから記憶や色んなものがぴったり合い始め、すんなりいくこともあるけど、なかなかいかないこともある。

山口藍さんなんかはコンセプチュアルといいますか、アーティスト、山口藍さん。きっちり進めていくわけじゃないですか。すみません。突然ふって。

山口

いいえ、とんでもない。おっしゃるとおり、私の作品をご存じの方ですと、山口藍とは女の子、それも本当に象徴以外の何物でもなくて、逆に女の子がいないと象徴になっていないのかと言えばそうなのかもしれないですけど、例えば、私の作品を女の子がいない状態の例えば風景を描いたとして、それは抽象になるのかというと、そうではないかもしれないし、そうかもしれないですけど、私の中では山口藍たらしめるものが、女の子じゃなくなったとしても、それは象徴になりうるし、いつまでも抽象になっていかないというか、なんでしょうね。象徴の反対は何かな、と思ったときに、崩壊していくような無の状態のようなイメージがしていて。また全然違うんですけど、例えば、男性が男性や女性であることは、一番の見分け方は生殖器であると思うんですけど、そういった意味でのものすごい象徴を持ってい、てそれが無いってなった場合に人間ではない、何者になるのかもわからないになるのかなって想像して、だからそれが果たして抽象かって、そうじゃないし、すごく最初からいなかったのでわからないんですけど、並列してある状態がすごくいつまでもあるのって、すごく気持ちが悪くって、という感覚はあるんですけど。

馬場健太郎

パキっといかない凸凹している感じが、逆に僕を象徴している。そんな感じがしている。

齊藤智法

結論は白黒はっきりつけないほうがいいかなっていう。具象とかも何でもいいんですけど、きっと今日は二項対立のトークテーマだったんですけど、馬場さんのお話を聞いているとやっぱり、制作のプロセスの中でも、そこをずっとぐるぐるぐるぐる回している感じもするし、

馬場健太郎

だから、明解なビジョンがしっかりあって、物を作っている人は僕にとってすごくうらやましくて、でもそれに僕は近づこうとしても到底無理なんですよね。いや、僕もやっぱ憧れて、コンセプチュアルアート的なものをあこがれたものがあって、そういうことをしてみた、チャレンジしてみたこともあるんですけど、まぁ面白くないわけなんですよ、僕みたいな人間がそういうことをやって。一番自分が表現しやすい、やりやすいところでやるのが一番ぐちゃぐちゃしながら、苦しみながら、試行錯誤しながらやるっていうのが一番しっくりくると思います。北川さん最後に締めを。

北川聡

やっぱり僕は、馬場君を擁護する立場でここに連れてこられた。そうだったんですねっていうのが。絵画ってすごくいろいろあると思うんですけど、やっぱり理解できないものを具体的に何か提示できるものが絵画なのかなって感じもするし、だからコンセプトがあって、そのコンセプトを表すために、説明するために絵画があるのではない。それはすごく、だから、試してみたらつまらなくなったという感じもね、馬場君は。そんな気がします。だから、馬場君がはっきりときっぱり言葉をもって言い始めたら、すごくつまらない絵になるのかなって思いましたけど。なんか同級生の方に言われたけど、本当にその通りだと思いますし、そういう風に僕も言えばよかったって思いました。

--- 終 ---

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