ヒエラルキーなき空間

建畠 晢

エズラ・パウンドによれば、(芸術家としての)人間については二つの相反する考え方がある。一つは環境からの印象を感受する(receive)可塑的な存在であり、もう一つは能動的に生み出し表現する(conceive)存在であって、この二つの陣営はつねに共存しているというのである。イマジズムとは、あるいは俳句における描写の力とは、いかにも両者の均衡の力学に立つものであろう。より一般的に「凝縮された表現」とはこの不断の両義的な緊張に支えられているといってもよい。しかしそこには暗黙のうちに一つの前提が必要とされてるように思う。それは空間を所有しようとする欲望の存在である。あるいは自らが世界の台座であろうとする意志。この前提を踏まえなければ、両者は必ずしも相反するものではない。いやreceiveとconceiveの弁別という問題のたてかた自体に意味がなくなってしまうのである。

だが、この前提はある矛盾をはらんでいる。たとえば空間を所有しようとするわれわれ自身もまたその空間の一部をなしているといわざるをえない。したがってO.F.ボルノーの指摘するように「われわれは空間にたいして所有と存在の中間にあるような独特に未決定の関係を」もたされていることになる。またわれわれが世界の台座であればそのわれわれを支えているのは何かという問題がある。要するにわれわれは両手で逆立ちをして世界を支えていると称しているにすぎないのではないか。まさしくピエロ・マンゾーニが「世界の台」(SOCLE DU MONDE)の上で地球をひっくり返してみせたようにである。世界の受容と創造のこのトリッキーな転倒は、最終的には自然が彫刻となるという立場(「自然との一致は芸術における完成の尺度である」とイオレ・デ・サンナは言う)に行き着くのだろうか。あるいは逆に芸術の無根拠性(台座には台座がない)による世界の観念化を招き寄せるのだろうか。

パウンド的な「内的凝縮のダイナミズム」とは無縁の地平に成立する表現。あの特権的な前提、視覚的、触覚的な所有欲に冒されることなく、したがって世界の受容にも創造にも関りのない営為。自然と一致する彫刻でもなければ世界の観念化でもない作品。菅木志雄の一貫した立場は、空間(ものとその状況)における両義性を徹底して拒絶することにある。それはただちに世界の“無前提”の肯定を意味しているだろう。ミニマリズムもまた内的凝縮のダイナミズムに対抗しようとする思想であったが、それは逆に“前提”の矛盾を暴くことに向かい、所有と存在の中間にあるような「独特に未決定の関係」を還元的な方法で顕在化させることになった。あらゆる造形的な要素を単なる物質の属性にすぎぬものへとさしもどすという排除の論理は、結果的に美術作品における素材の両義性(物質であり媒体であるという)をメタフォリカルな偏差として極端化することになる。ゆえにそれは「物体」ではなく、「特種な物体」と呼ばれざるをえなかったのである。そこに姿をみせるトートロジー(芸術といわれたものが芸術である)は、むしろ操作の主体の恣意的な特権性を明らかにしているといってもよい。

菅はこのような操作の主体としての自己という近代主義的な立脚点を否定する。彼が70年代の初めに、排除や還元ではなく「放置」という言葉を記したとき、そのことはすでに鮮明であった。しかし放置とは過激な概念である。それは「見る」ことではなく「ながめる」ことと、「世界」を「状態」としてとらえることと対応し、「人間の『概念』のリミットを超えた、その時点から始まる位相をさして」いるのである。それは無作為ではなく、空間の無名性の状態を認識(我々は認識しうるにすぎない)するための「媒体として」必要とされる「人の行為」である。「物が一般的にある状態から極限として『在る状態』を認識するには」と彼はいう。ものとその状況を「放置」し「もの自体の持つイマジネーションを抜きさしならぬ状況でぶち壊さなければならない」のだと。

人為的に素材に関りながらも、それが世界の受容でも創造でもなく、「極限として在る状態」へのおきかえであること。つまりその「場」が「自然」と等価であり(「同種異相の根」であり)、なんら意味論的な葛藤をもたらさないこと。80年代に入って彼は、「放置」の性急さにかえて、ものに関わる三つの段階を踏みながら、同じことを次のように述べている。

そこにある広がり(空間)は、さまざまなものが順次に接点をもって連なっているから、それをたどって自然にものと共に空間を認識できる。ものを現わすことは、ときにこの自然な接点を入れかえたり、消し去ったり、拡大、縮小したりして、<自然でない>空間感覚をえようとする。さらに、人為的にもの同士を接しようとする場合、もののどの部分でもいいというわけではなく、決った場所があり、そこをみつけるのはなかなかむずかしい。

自然にあってはすべてのものは相互的な依存関係をもってそれぞれの位置をえており、「ものを現わす」(ミニマリズム?)ときには、その関係を排除すればよいが、人為的に自然と等価であろうとすれば、再度、接点を見い出ださねばならないというのである。とすれば当然ながら彼の具体的な作業は、諸要素間の関係の“発見”に向けられることになる。しかしそれは自然の再構成といったこと(受容・創造)ではなく、仕切ること、繋げることの相互性を、納得のいくリアリティーをもってとらえること、見方をかえれば、関係そのものの直裁な実体化である。「あらゆる存在は例外なく相互依存の関係においてあり、それ自体は空である。」

だがなおかつものはあり、われわれはそれを見ないわけにはいかない。最近、彼が「表面」(視線をはばむ不透明なもの)ではなく、「周辺」「周囲」という(存在論的なヒエラルキーの外に立つ)言葉で把握しようとしているのは否定しがたいものの即物的な力から(安直な観念主義に逃避することなく)いかにして空間を救済するかという方途ではなかろうか。菅にとってインスターレーションとは、つねに具体的な認識の場そのものである。それは造形でもなければ観念的な遊戯でもなく、また物質の力におもねることでもない。彼が囲うとき、その思考とともにある現実が可視化され、彼が繋ぐとき、ある現実がその位置、その方向、その強度を定められる。それはわれわれの目にヒエラルキーなき空間として開示されるはずである。

1988.12.

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