周囲有間

菅 木志雄

モノが空間に付随しているのか、空間がモノに付随しているのか、おりにふれて考えるけれど、いまだに結論をだせないでいる。ところが、近頃のある論著では、事物それ自体が空間として存在している、といった内容もあり、これはますますムズカシクなってきたと思わずにいられない。といっても、わたしは第三者が現在どのような規定をしようと、驚かない状態になっている。それはどんな論でも、これまで実作の途中でなんとなく察知していたことだからである。

あるひとつの規定は、そこに具体的になにかを現わしていなくても、モノや空間に対するなんらかの見方であり、ひとつの事実認識をのべている場合が多くある。たえば、<山の端>の認識は、地形的に遠方を指し、視野のハズレを示し、意識のなかに《境界》の認識を呼びおこし、事物や空間を分け、かつ色別する事態をあらわにする。事実認識は、ひとの数だけあるだろうし、むしろ可能なかぎり、第三者の考えを聞きいれ、そのうえで、自分のテーゼをみきわめたい気持が一方ではある。

よく考えれば、モノが空間に付随したり、空間がひとつのモノの内側だけにおさまっているというのは、おかしなことだ。かりにそれらが正当に成り立ち得る思考とすれば、空間かモノのどちらか一方が、それ以上変化のない定まった存在として、規定されていなければならないだろう。これまでの実作における経験では、そのような限定は、実作のさまたげになりこそすれ、あまりプラスの要素として働かなかった。ただ、一見矛盾していると思われるかもしれないが、わたしは実作プロセスおよび結果として表われたモノでもって、<事物を解放し、自由にする>などとは一度も考えたことがない。さらにいえば、思考や観念も<事物>によって自由になるわけのものではないだろう。反対に、<事物>がふえることによって、そのウラにある真理をあきらかにするため、思考も観念もどんどん深めていく必要がある。

わたしのなかには、これは実作をはじめた当初から、二元対立的な発想がない。だから、しょせん冒頭にだしたような疑問に解決をみいだそうとするのは無理な話なのである。そして、いま、より考えなければならない興味の対象は、<周囲>ということである。<周囲>は、モノも空間も共存させていると思われ、それをあるていど論理的に位置づけられれば、これまでにない実体性と構築性をみることができるかもしれない。

そこで、はじめから<周囲>をワクにはめて考えるよりも、周囲らしきものを、知覚できる範囲で、とりだし位置づけていくのがいいように思われる。<周囲>というのは、知覚する次元でいえば、つねに現在の次元でしか成立しない認識にちがいなく、それゆえにこそ実作者にとって、さけることのできないものにちがいない。

単純に考えれば、知覚するひとのまわりすべてが<周囲>であるけれど、実際そうではなく、ひとが見たり、とり扱ったりしてはじめて「周囲にあるもの」という認識が生まれる。関連が強いほど、それは、「周囲にあるもの」として、ひとの意識をささえる。おそらく、<周囲>の形成力は、どれくらいのモノや空間と(量、質ともに)むすびついているかである。モノとモノ、空間とモノ、モノとひと、さまざまな無数のむすびつきによって、空間の特異性がかもしだされ、それが<周囲>の形成に投影する。その場では、ひとも要素であり、素材にすぎない。

<周囲>とはナニか―――ことばや意味としてではなく、わたしは、<周囲>そのものを目にみえるモノとして構築化したいのである。つまり<周囲>そのものを素材、水や木や鉄と同じような役割をになうものとして、考えている。それにはここしばらく時間を要するようである。

1988.12.

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