ウルリヒ・リュックリエムは、巨大な採石場から長方形の石を切り取ってきて、さらに何等分かに切り合わせて展覧会場に置く。リチャド・ロングは、山から手ごろな石の、多くの破片を集めてきて、画廊に並べる。僕は川辺や石屋の無数の石の中から何個かの石を引き出してきて、美術館で鉄板と組み合わせる。

 どれもみな石を使っていることで共通しているが、もっと根本的なところで似ている。それは作品が大自然からの借用であり、引用であるという点である。だから作品を見れば、眼差しの波状はただちに眼前のものから採石場へ、山へ、川へと延びてゆき、さらにそうゆう場所を超えて無限に広がる。石をユニット化したり、ニュートラルに並べたり、鉄板と組み合わせたりするのは、逆にその無限性への暗示なのである。

 そもそも石を用いることは、時代を超えた営みであるとも言えるが、その引用の仕方、並べ方、組み立て方において、作家は当然、自分の位置や今日的な手続きを取る。そして作家の目論見は、石を石らしくするとか、何かのイメージを表すとか、彫刻らしくするというところにはない。石を通して石を突き抜けて、そして見るものをも連なっているより開かれた世界に立ち会わせることにある。

 それにしても僕の作品と二人の作家のそれとの違いも大きい。リュックリエムとロングの作品は、石が特定地域の物とはいえ、どこまでも石一般であって、それらの個別性は無視されている。むしろ一般概念として確定された明証な石に留まることが重要だろう。そう言う意味では石は極めて透明に映る。従って石を並べる空間によって、作品が違ったものにみられることは起こらない。それに対し僕の用いる石は、特定なイメージや形を必要としないが、曖昧で規定し難いもの、まさにその石といっていい。この不透明で個別的な存在性が、見る者との対話をより直接的な物にし、概念性、抽象性を越えて、外界との連絡を一層リアルなものにするのだ。石は鉄板と組み合わさったり、空間と関係する事によって、その個別性を更に固有なもの、まさにそこにあるものに高めているわけである。

 ともあれリュックリエムもロングも僕も、石の意味や存在そのものに関心があるわけではない。ましてや自立的な彫刻として石を作品空間に閉じ込める発想から遠く離れている。眼前の作品によって、現実をより刺激的な新鮮な目で見る事を可能にし、連動する世界の無限の扉を開きたいのである。

1999年 李 禹煥




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