峯村敏明「「モノ派」とは何であったか」

第四回


こういう背景から出てきた「李+多摩美系」モノ派であるから、初めのうち、あるいは人によっては後になって再び、その作品に何パーセントかの主知主義の名残りがつきまとっていたのは無理からぬことだった。とくに、関根、吉田、李、小清水の初期の作法は、しばしばシュルレアリスム、とりわけマグリットのデペーズマンの発想に似ているとさえ評されたものである。しかし、彼らは急速に成長し、短期間に認識を深め、その認識の度合いに応じて、ある者は行き詰まって脱落していった。ここでは脱落まで語る余裕はないが、関根の≪位相−大地≫以後語るに足る時点までのモノ派の集団的展開を大雑把に把握しておこう思う。それは、次の3段階に分けて考察することが可能である。

第1段階(異種物質の対照)――異質で対照的な性質をもつモノとモノの遭遇によって、モノの偶有的な様相、様態、属性を相対化し、無化せしめ、その衝撃から存在のリアリティーを感得させる手法。モノを登場させたので、視覚操作を行う必要はもう無くなっていたのだが、モノの概念化された特性(たとえば柔らかいものと固いもの、軽いものと重いもの)に着目しているため、どうしてもシュルレアリスムのデペーズマン、でないまでも、前時代の「見えること」と「在ること」の剥離ということを概念的に行なう形になりやすい。この手法で登場したことが、「李+多摩美系」モノ派が誤解される原因となった。具体例としては、関根におけるスポンジと鉄板、巨石と鏡柱、吉田における鉄管と綿、角材と電光、李における綿と鉄板、綿と石、ガラス板と石、小清水における紙と石、等の組み合わせが典型的である。成田と菅がこの手法と無縁だったのは注目に値する。最初期の成田はモノの可変構造から空間の可変構造へと関心を移行させ、一時的にせよモノから離れていた。また、視覚操作の時期から抜け出たばかりの1969年前半の菅は、無謀にも―なぜなら彼はまだ現実空間の扱い方を知らなかったからだが― 、柱の立ち方を見つめるという形で直接に「存在」の把握を試みていた。しかし、このやり方では存在は概念的にしか扱われておらず、彫刻のセンスを身につけつつあった原口典之が≪エアー・パイプ≫シリーズで自立しがたいものを直立させたあと、鉄管、鉄柱の直立へと進んだ展開の具体性には及ぶべくもなかった。

第2段階(単一物質ないし単一空間の異相化)――同種で均質なものだけと関わるとき、芸術家はモノを第三者の立場から概念的に操作する余地を失ってモノに積極的にインヴォルヴし、インヴォルヴの様式(モード)自体からモノの在りようを引き出してくることになる。「李+多摩美系」モノ派の最も特徴的な様式(スタイル)と目されたのがこれであった。ここでも先例を示したのは関根(≪空相≫(油土))だったが、しかしこの様式は多用・多産であり、一律には論じがたい。およそ次のように類別することが許されよう。(1)ヒトとモノとの身振りによる交渉の強調(油土をこねる関根、木をチョップする寺田武弘、巨石を割る小清水)、(2)モノの位置・姿勢の変容にかかわる仕事(李における角材や鉄板の布置、吉田の角材吊るし、4枚の鉄板の横臥、本田真吾の丸太割り。これらの作品はモノの位置にズレをもたらすことを眼目とした)。(3)モノの時間的変容にかかわる仕事(成田の炭焼き)、(4)モノの分岐と空間の分節(菅のパラフィンによる方陣、セメントによる囲み)。

興味深いのは、(1)のヒトとモノの交渉様式は、それ自体は持続的な構造を持ちがたい一種ハプニング的性格をもつものであったが、純正な物質と直かに交わるという点で彫刻の制作理念に最も近く、事実、関根も寺田も小清水も、遠からず「物体」「制作」という観念を許用することによって彫刻への道をたどったことである。これに対して菅は、物体、彫刻の観念を介さずに、モノ(単一物質)へのヒトの介入から直に空間の異相、空間の多義性を引き出すというきわめてユニークな作法を打ち出し、その時点ですえに、「李+多摩美系」モノ派がモノ派たりうる最も純粋で意味深い制作原理を突きつけたのだった。

この第2段階は、単一物質にのみ関わるというその表面的な特徴のゆえに、またそれがモノ派の最盛期をなしていたために、多くの模倣者・追随者を生んだ。その典型は、蝋、土、煤、鉛、タール、鉱滓といった特異な物質の固まりにひたすら魅せられ、それを多少ともミニマルな形で提示するというものである。

なお、原口がモノ派的な様相を呈するようになったのは、「李+多摩美系」モノ派の第2段階に相当するレベルにおいてである。それ以前、紛争中の日本大学在学中に即物的リアリズムの絵画から3次元造形へ転進するきっかけをつかんでいた原口は、芸大グループの情念的・民俗的なモノの主題化とも、多摩美グループの主知主義的視覚操作の伝統とも無縁な環境で、いち早く新しい工業的素材の造形的活用になじんでいた。しかし、1969年末、遅くとも1970年の半ばごろから、鋼鉄、テント布、油、水、粘土といった彼の好みの物質は、彫刻的造形のためにではなく、それ自体の感覚映発力のゆえに凝視され、ほとんど手を加えずに配置されるようになる。そのときのモノを見詰める作家の目は極めて感覚的、いや官能的とさえ評してよかったが、彼は、マイナーなモノ派追随者たちと違って、それら物質の感覚浸透力を空間的な出来事として概念化する力を持っていた。

第3段階(「場」の発生) ― モノではなくモノの存在へ、さらにモノとモノの関わりの様態へ、と認識を深めていったモノ派は、最後に、そのようなモノは「何において在るのか」(場所性)、あるいは「何によって在るのか」(縁起性)という設問に逢着し、ここに、「李+多摩美系」モノ派の理論的、思想的な土台が確立するのである。この設問がモノ派全体(榎倉、原口も含めて)に早くから内在していたことは言うまでもないが、それを自覚的に追求していってモノ派芸術の自律性と発展性を実証してみせたのは、李と菅だけだった。

もっとも、作品のうえから見れば、李の場所性への注目、モノよりも関係性の重視ということは、図式的に表現されていたきらいがあり、ようやく1970年代末の鉄板と石による彫刻(西欧型の彫像、物体彫刻の伝統には由来せず、むしろ東アジアの庭園芸術の凝縮的再開発と見ることができる)に至って、独自の開花を遂げたと言っていい。

他方、菅は≪パラフィン≫でいち早く空間と交わる術を会得し、加えて、1970年以降、モノの存在の決定因として状況、イベントなどを順次覚醒させてゆき、他に類例のない独特の芸術を一貫して開発しつづけて行った。とりわけ、モノと空間の両義的な接点として「面」ないし「界」に注目し、面の表と裏、界のこちらとあちらといった位相転換をばねとして空間の分節、存在の多元的発現を可能にした方法体系は、まったく独創的なものであった。菅の作品にはつねに「何によってモノは在るか」、「何によって私たちはそれを見るのか」という設問(縁起性)が伏在している。しかし、同じ設問を、ジャスパー・ジョーンズが主知主義的で晦渋なタブローやオブジェに閉じ込めていたのと違って、菅はそれを、モノと空間に沿って、それらとの戯れとともに、肉体的・精神的な快活さで演じていった。存在への問いの答えは、モノにも作品にも概念にもあるわけがなく、モノや空間を分節するヒトとそのヒトの振舞いを規定してくるモノの構造との依存し合う戯れ(それは関係という静的概念では捉えられない)のなかにしかないことを、菅は作品自体によって示すのである。菅において、モノ派は真に肉体を得たと評していい。

|