峯村敏明「「モノ派」とは何であったか」

第三回


しかし、「存在」とは元来哲学と彫刻の専権事項であった。大学で哲学を専攻した李が、西欧近代の物体偏重を批判し、存在の透明さを希求する視点持つことができたのは当然として、絵画出身の「多摩美系」モノ派はどこからこの問題への足がかりを見付けてきたのだろうか。奇妙にも、そしてそれが「多摩美系」モノ派の一大特色となるのだが、それは、1960年代後半の日本美術界の最も知的な部分を蔽っていたある特殊な絵画的思考の運動に由来するのである。その特殊な絵画思考とは、1960年代前半から、高松次郎の影の絵、彼を含む3人グループ「ハイレッドセンター」による観念と実在の分離培養実験、ジャスパー・ジョーンズやポップ・アートにおけるイメージと実体の互換性への関心、などをとおして徐々に渦を巻くように形成され、ついに1968年4月にはジェフリー・ヘンドリックスというニ流画家の騙し絵店をジャーナリズムがこぞって歓迎するところまで通俗化しながら、それにつづく「Trichs and Vision」展でピークに達した、視覚の主知主義的操作への偏愛という奇妙な現象であった。影あるいは一般にイメージや形態のなかに「不在」(真の存在の隠蔽)の証しを見るという、しばしば形而上的ですらあるこの主知主義的視覚―事実、高松は若年期にデ・キリコニ深く傾倒していた―は、高松や高松周辺の批評活動を介して広く若い世代に浸透し、とりわけ、高松が一時教鞭をとっていた多摩美術大学の学生の間に「不在/存在」をテーマとする伝統を形成し、また静岡地方に「幻触」という名の集団を生んだ。当時、視覚操作的でトリッキーな表現がどんなに流行していたかは、のちに主知主義の対極に立つことになるはずの「李+多摩美系」モノ派の面々までが、1968年にはほぼ全員、まるで「高松ゼミナール」の課題でもこなしているみたいに、その種の作品をつくっていたことで分かるだろう。

しかし、この視覚操作の演習は、それ自体がいかに幼稚で軽薄なものであったとはいえ、当時学生だった「多摩美系」モノ派の人々にとっては、無くもがなの小児性はやり風邪だったのではない。なぜなら、この演習のなかからこそ、彼ら「李+多摩美系」モノ派の最も特徴的な「存在」への注視が育ってきたと考えられるからである。すでに述べたように、高松の視覚操作はもともと視覚と実在、「見えること」と「在ること」の食いちがいを問題にしていた。この食いちがいから実在に対する不信へ、体制的価値や諸制度に対する懐疑へと向かえば、それは視覚のあいまいさを逆手にとった視覚の詐術の積極的な活用という道を開くことになろうが(「幻触」グループが一時期歩んだのはこの道だった)、他方、「見えること」と「在ること」の食いちがいを問題にしていた。この食いちがいから実在に対する不信へ、体制的価値や諸制度に対する懐疑へと向かえば、それは視覚のあいまいさを逆手にとった視覚の詐術の積極的な活用という道を開くことになろうが(「幻触」グループが一時期歩んだのはこの道だった)、他方、「見えること」の偶然性と習慣性、すなわち、モノの外見、イメージ、虚像、表皮、属性等をホコリを払うように払いのけて、「在ること」を直視する方向へと向かうならば、それはまさしく、視覚操作を旨とする等の主知主義そのものを批判的に乗り越えて、モノの在りようと直に出会う新しい芸術行動への道を開くことになるはずである。そしてその方が、不在の様相をとおして存在を把握しようとした高松の本来の狙いに適い、方法的には飛躍的に前進するはずであった。実際、高松の影響や位相幾何学の知識などでだれよりも早く長くトリッキーな繪画や虚像立体をレリーフの形でつくっていた関根伸夫が、1968年10月、神戸須磨離宮公園の野外彫刻展で地面を円筒状に堀り、同形同量の巨大な土の円筒をその傍に立てた(≪位相−大地≫)とき、主知主義的視覚操作の伝統は、モノを導入することによって、「見ることのあいまいさ」から「在ることの発見」へと鮮やかな転換を遂げたのである。

関根の≪位相−大地≫は、制作を手伝った小清水、吉田はもとより、他のすべての「多摩美系」モノ派と李に決定的な覚醒作用を及ぼした。この時点で彼らの意識は「モノ派」になったとみていい。だが、もし彼らがそれ以前に関根と同様に主知主義的視覚操作の演習期をくぐっていなかったとしたら、すなわち、「見えること」と「在ること」の剥離を実験していなかったならば、1968年末以降あれほど一斉に、あれほど明瞭な形で「存在」へと赴くことはなかったろうと思う。「李+多摩美系」モノ派の苗床として、高松以来の視覚の主知主義的伝統はきわめて重要だったのである。

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