アジアのフェミニスト、尹 錫男のアート

巌 赫(美術評論家)

 

一般的に作家のスタイルとは以下の三つの要素によって決定されると言われている。作家個人の性格、仕事をしている地域、そして歴史的背景。1980年代までその要素の中に"男"や"女"であるということは含まれていなかった。「October Group」(1985年に韓国のKwanhoon Art Galleryにて作品を発表した)と呼ばれる女性作家達がいる。彼女達は「ある一人の作家が作品を創作するにあたって、男ではなく女であることは韓国人であることや、貧しいこと、アジアに生まれたことなどと同じように重要である」と考えた。

  

その女性作家達の運動により多くの作家達が"女性である"ということについて考えるようになった。それは性差別への自覚、女がする仕事が些細なものであるとの考え、性の対象にされているということなどについてである。主要なフェミニスト作家といえば1985年に韓国でフェミニストの作家グループを結成した尹 錫男、Kim DjinsookとKim Insoonの三人である。運動の"Epiphany"である「個人的であることは政治的である」の主張を実践しつつ彼女たちは女性として、また韓国の女性としての経験を作品に生かすために意識向上を目指す他の女性作家達のグループにも参加した。尹 錫男ははっきりしたイメージの組合せを「母親」や「姉妹」といったものを女性の特製として捉えながらフェミニストの意味をまとまりのあるイメージとして伝えてきた。尹 錫男が女性としての経験を美術で表現しようと考え出したのは四十歳の終りである。

 

尹 錫男のスタイルを何といったら言いだろうか?官能的であり、概念的でもある。Sukunamのフェミニストアートは性的なものと冷静にメディアを取り込んだ欧米の先駆的なフェミニスト作家達(Kruger、Holzer、Levine、他)の作品の中間にある。ただ単に「フェミニストアート」と表現するのは適当ではないだろう。

 

1970年からの尹 錫男の作品はフェミニズムの本質を明らかにしていく。フェミニズムが単独で一面的な哲学または思想ではなく、むしろ発展中で革命的な育成状態の存在であるということを成功した物も失敗した物も示している。成功したSuknamの作品は教訓的なものからは程遠い。作品は本質主義とデコンストラクショニズムの戦略的な立場の巨大な中間地点を想像させるもので、その結果両極端な二つのもの(時間を超越した女性の本質と性の違いによる言語や社会からのその他のストレス)を平坦化させていく。失敗した作品でもSukunamが直面する実践的なジレンマ、フェミニズムがただの計画だけでなく手順である証明をしている。

 

彼女のイメージと物の積み重なりは、それぞれの本来の背景を明らかにしつつも一つ一つが劇的に異なって見える。メディアへの関わりは、我々が習慣付けられ経験しているそれらのイメージと物とのあるがままに見られ作られている。男性の存在や声による束縛から逃避し、これらの女性達は自由に人生を過ごすだろう。そのイメージ自身が男の支配する文化から生まれて来たことは、欧米のデコンストラクショニスト達(Kruger、Holzer、他)が男性の声を破壊のために利用することと同様にもはや矛盾とは言えないだろう。

 

そしてSuknamは女性の立場での解決策を女性には限られた選択しかないという代表的で大袈裟に言われてきた考えを批判しつつ、女性の全面的な肯定の中に求めている。Suknamの最近の作品はデコンストラクショニスト作家達のアイディアを元に描き、彫刻を作りながらも彼女達の理論的感覚からは距離を置き身を避けながら彼女の歴史、家父長的制度と女性への期待に対する超越性とあるいは"手段を超越した生物"としていろいろな時代を通して強められて来た女性のイメージの強化を、あふれるばかりに記録し続けている。


return