Solo Exhibition

September 14th - October 14th, 1989

 

 

CF 4.9.40

クロード・ヴィアラ 展

1989年9月14日-10月14日

無限またはクロード・ヴィアラ

李 禹煥

無限――。スピノザの言葉が想い浮かぶ。

このテーブルこの壁、あの樹木やそこの空気、人々家々、都市と空と星々のすベてが無限を呼吸している。世界が在るのではない、無限が広がっているのだ。無限、それはイメージではない、ここの空間がそのまま宇宙であることだ。そして空間の充満感こそが無限を換起する。まさに無限とは、生の感覚でありよろこびの泉である。私は、ベニス・ビエンナーレ(1988・夏)で、クロード・ヴィアラの作品在陳列しているフランス・パビリオンをうろつきながら、ふとこんなことを思った。

空豆のような、あるいは単純な細胞のようなパターンが、布一面に規則正しく(?)、無限に配列されている。同じパターンのくりかえしとはいえ、70年代初め頃までは、スポンジか何かで単純な色を含ませて押したような無機的なストイツクな形跡だったのが、次第に筆や複雑な色の手描きによる生気に充ちた絵画となってきた。特に最近は、空豆状のパターンの内部は多様な色の動めく筆の走りが目立ち、パターンの外部にも勢いよく色を塗りたくっている。支持体はといえば、いつからか真さらな布を避けるようにし、華やかなカーテンや汚れたシーツ、古ぼけたテントなど、そこの色や模様に構わず、それらを切ったり繋いだりして用いる。木枠に張らずひらひらのままの状態の布に、例の絵づらをびっしりと描き配ベるのである。

描くとはいっても、画面は展開しない。空豆模様の反覆に近いが、描く勢いのせいかパターンは微妙にズレつつの增殖だ。絵づらは布を蝕んで広がり、やがては布の外の空間を宇宙を浸蝕する。木枠に張られたキヤンバスとは違い、ひらひらの布は同形模様の反覆性と相俟って、世界との一層の連続感を呼び起す。このテーブルこの壁、あの家々やその空き間と空気、都市も山河も星々も、何処までも宇宙のすベてが一つの言葉によって濡れ溢れ、そして無化される。ヴィアラの作品は、それ自体としてよりも、より広々とした空間に飾るか、ひしめく事物の中に置くほうがはるかに素情らしい。

空豆のような細胞のようなパターン。この単純だが言い当てようのない不思議な曖昧さを持った形自体に、それほどの意味はあるまい。おそらく、どんなものにも成りそうな可能性を孕んだ無規定な形ならざる形の要請が、このようなパターンを選んだ。それからというものは、運命的にこのパターンを引き受けたと言っていい。すでに気が遠くなるほどの空豆(無限)を描いてきた上に、またこれからどれだけそれを描き足せば無限が尽きるというのか。無限とは、避けがたい誘惑であり生きることのこだわりに違いない。

表現は、絶対的な自由を夢みればみるほど、今を生きることヘのこだわり、つまり自己を限定づける作業となる。ヴィアラにとってはこれが時間の形なのだ。同形のパターンの果てしないくりかえし(ズラし)に自己在縛りっけることによって無限在指し示すこと自体が、表現のパラドックス。今日の無制限な欲望展開論による変化万能主義美学の蔓延するなかで、シジフォスの神話よろしくヴィアラの仕事は、ほとんど無謀にして壮絶な狂気にさえ映る。

イメージを出来るだけ最小限にすること、絵づらを展開せず同形反覆に限ること、表現を自己限定の行為に止めること。つまるところ、これは可能な限り何も描かぬように描くことである。それが無限からの教えだろう。その意味で彼は、カール・アンドレと共に、偉大なミニマル・アーティストだ。カール・アンドレの芸術もまた無限を命題にしたものだが、その概念性の徹底化に比ベ、ヴィアラのそれはより情念的で予感性に富んでいる。南仏の画家のせいかヴィアラの作品は、観念の透明度を増すほどに、ますます生命の躍動感が強まってゆく。

壁を街を覆うようなあの巨大な作品に出くわすと、何か途方もない視覚が、まるで得体の知れぬ生きもののように、見る者を鮮やかな未知の予感に駆り立てるのである。 (談)

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