峯村敏明「「モノ派」とは何であったか」

第一回


「モノ派」とは、1970年代前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体(いか「モノ」と記す)を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやものの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たちを指す。

この作法は、1970年代前半に燎原の火のごとく広がって一般化し、通俗化していったとはいえ、初期のオリジナルな形態があらわれたのは、早い人の場合、1968年秋から1969年5月あたりまで、遅い人でも1970年の初めまでであったと限定することができる。またその担い手としては、(1)1968年秋−69年秋の間に出揃った「李+多摩美系」グループ(多摩美術大学を卒業しつつあった関根伸夫、吉田克朗、本田真吾、成田克彦、小清水 漸、菅 木志雄、及び関根、吉田らと親しかった李禹煥)、(2)1969年末に登場した「芸大系」グループ(東京芸術大学を卒業しつつあった榎倉康二、高山登、及び少し遅れて彼らとしばしば行動をともにするようになった藤井博、羽生真ら)、(3)1969年初には頭角をあらわしていた原口典之を中心とする「日大系」(日本大学美術学科)ないし「横須賀」グループが、突出していた。1956年に韓国から日本に移住し、日本大学で哲学を学んだ経歴を持つ李が30代半ばだったのを例外として、彼らは皆20代の若者だった。従って、1960年代末の学園紛争の直前あるいはそのさなかに、大学ないし大学院を卒業したわけであるが、彼らはそのことで精神的な痛手を負うというよりも、むしろ時代変革の予感でこうようすることのできた世代に属していたと言っていい。

「モノ派」の呼称は、作家たち自身の意思に沿って初めから存在していたわけではない。むしろ、1970年代の初めに、モノ派(とりわけ「李+多摩美系」)を批判的な目で見ていた人々―筆者もその一人だった―の間で半ば蔑称として通用していた言葉である。だから、この呼称はつい最近まで「李+多摩美系」の作家の大多数から不快視されていたし、いまなお、榎倉、高山、原口らからは、それが「李+多摩美系」を指す言葉であったからという理由もあって、疑問視されている。

しかし、「印象派」の呼称がいつまでも蔑称ではありえず、またそれが、ナダール画廊での第1回グループ展に参加した人々だけに限定されるわけにいかなかったのと同様に、「モノ派」の名も、「李+多摩美系」の枠を上回って存在していた歴史的事実としての芸術動向を、より包括的かつより本質的に指す言葉とならざるをえない。冒頭で述べたように、「モノ派」の名は、「1970年前後の日本で芸術表現の舞台にモノを素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやモノの働きから直かに芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たち」すべてを指すと考えてよいのである。

そのような意味での広義の「モノ派」の共通項は、おそらくその少し前のイタリアでアルテ・ポーヴェラという動向を出現せしめた背景と多くの部分で重なっていたように思う。すなわち、工業化社会の産物に対する魅惑と反発の入り混じったアンビヴァレントな感情、近代的秩序の崩壊の予感と二重写しになって見える絵画芸術の死滅の予感、60年代前半からの反芸術的・反形式主義的気風の遺産、アメリカのミニマル・アートからそれぞれの度合いで感じ取った表現の客体性(objecthoodness)への希求、芸術の力の回復を自然あるいは自然への感受性の回復によって達成しようと望む、当時の一般的な信条、などである。これら共通の背景をもっていたからこそ、モノ派は日本国内で数集団にまたがる共通現象となりえたのであり、また同時に、イタリアのアルテ・ポーヴェラ、イギリスのセント・マーティン美術学校周辺、西ドイツのヨーゼフ・ボイスの周辺、アメリカのプロセス・アートの世代と少なからぬ同時代性、同質性を示すことになったと考えられるのである。「芸大系」グループは「李+多摩美系」グループの影響下に仕事を始めたのではない。またその「李+多摩美系」はアルテ・ポーヴェラに倣って彼らの冒険を始めたわけではない。これら諸グループの近親性は、彼らの背景が少なからぬ共通性をもっていたことに由来するのである。