「モノ派」とは、1970年代前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体(いか「モノ」と記す)を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやものの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たちを指す。

この作法は、1970年代前半に燎原の火のごとく広がって一般化し、通俗化していったとはいえ、初期のオリジナルな形態があらわれたのは、早い人の場合、1968年秋から1969年5月あたりまで、遅い人でも1970年の初めまでであったと限定することができる。またその担い手としては、(1)1968年秋-69年秋の間に出揃った「李+多摩美系」グループ(多摩美術大学を卒業しつつあった関根伸夫、吉田克朗、本田真吾、成田克彦、小清水 漸、菅 木志雄、及び関根、吉田らと親しかった李禹煥)、(2)1969年末に登場した「芸大系」グループ(東京芸術大学を卒業しつつあった榎倉康二、高山登、及び少し遅れて彼らとしばしば行動をともにするようになった藤井博、羽生真ら)、(3)1969年初には頭角をあらわしていた原口典之を中心とする「日大系」(日本大学美術学科)ないし「横須賀」グループが、突出していた。1956年に韓国から日本に移住し、日本大学で哲学を学んだ経歴を持つ李が30代半ばだったのを例外として、彼らは皆20代の若者だった。従って、1960年代末の学園紛争の直前あるいはそのさなかに、大学ないし大学院を卒業したわけであるが、彼らはそのことで精神的な痛手を負うというよりも、むしろ時代変革の予感でこうようすることのできた世代に属していたと言っていい。

「モノ派」の呼称は、作家たち自身の意思に沿って初めから存在していたわけではない。むしろ、1970年代の初めに、モノ派(とりわけ「李+多摩美系」)を批判的な目で見ていた人々―筆者もその一人だった―の間で半ば蔑称として通用していた言葉である。だから、この呼称はつい最近まで「李+多摩美系」の作家の大多数から不快視されていたし、いまなお、榎倉、高山、原口らからは、それが「李+多摩美系」を指す言葉であったからという理由もあって、疑問視されている。

しかし、「印象派」の呼称がいつまでも蔑称ではありえず、またそれが、ナダール画廊での第1回グループ展に参加した人々だけに限定されるわけにいかなかったのと同様に、「モノ派」の名も、「李+多摩美系」の枠を上回って存在していた歴史的事実としての芸術動向を、より包括的かつより本質的に指す言葉とならざるをえない。冒頭で述べたように、「モノ派」の名は、「1970年前後の日本で芸術表現の舞台にモノを素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやモノの働きから直かに芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たち」すべてを指すと考えてよいのである。

そのような意味での広義の「モノ派」の共通項は、おそらくその少し前のイタリアでアルテ・ポーヴェラという動向を出現せしめた背景と多くの部分で重なっていたように思う。すなわち、工業化社会の産物に対する魅惑と反発の入り混じったアンビヴァレントな感情、近代的秩序の崩壊の予感と二重写しになって見える絵画芸術の死滅の予感、60年代前半からの反芸術的・反形式主義的気風の遺産、アメリカのミニマル・アートからそれぞれの度合いで感じ取った表現の客体性(objecthoodness)への希求、芸術の力の回復を自然あるいは自然への感受性の回復によって達成しようと望む、当時の一般的な信条、などである。これら共通の背景をもっていたからこそ、モノ派は日本国内で数集団にまたがる共通現象となりえたのであり、また同時に、イタリアのアルテ・ポーヴェラ、イギリスのセント・マーティン美術学校周辺、西ドイツのヨーゼフ・ボイスの周辺、アメリカのプロセス・アートの世代と少なからぬ同時代性、同質性を示すことになったと考えられるのである。「芸大系」グループは「李+多摩美系」グループの影響下に仕事を始めたのではない。またその「李+多摩美系」はアルテ・ポーヴェラに倣って彼らの冒険を始めたわけではない。これら諸グループの近親性は、彼らの背景が少なからぬ共通性をもっていたことに由来するのである。

ここで私たちは、モノ派が「モノを素材としてでなく主役として登場させた」とはどういうことか、考えてみなければならない。小清水を除けば、モノ派はすべて大学で絵画を専攻した人々であり、それでいながら絵画の死を予感してモノに走ったいきさつを持つ。しかも、その走り方をみると、たとえばドナルド・ジャッドが絵画的イリュージョンを理詰めの制作で縮減していった挙句に「特殊な物体」というつくりものとしての作品を積極的に制作することを放棄し、自然的条件で存在するモノを導入して、モノに依存する方向に踏み切ったのだった。この方向の選択自体を私は非難するつもりはない。ただ、このようないきさつで出てきたモノ派の芸術は、絵画的思考を消却しきっていたわけではなかったわけではなかったために、かえって、表向きの絵画否定にもかかわらず、絵画的視覚によって大幅に規定されていたこと、そして、モノ派の特異さの多くがこの絵画的視覚とモノとの不調和な関係に由来していたことを指摘したいのである。それは、絵画的視覚が絵画を否定してモノを選んだことの矛盾であった。この矛盾の中味は、しかし、けっして一様ではなく、「芸大系」と「李+多摩美系」とではまったく異なる文脈に沿って自己展開を遂げている。その結果、一見したところ、両グループは同じ「モノ派」の名のもとで扱うのが不当と思えるほど、別種の相貌を呈しているのである。

まず「芸大系」であるが、榎倉と高山に共通し、かつ彼らを他のモノ派から区別させている最大の要点は、彼らの作品ではモノがメディウム(媒体)であると同時に主題にもなっていることであろう。(後述するように、「李+多摩美系」モノ派では、モノは主題としての質をもったことはほとんどない。原口は1970年末あたりから数年間モノを主題化させる方向をたどったが、その場合のモノは、ほとんど概念化された感覚的な質としてのそれであった)。榎倉の油のしみ、皮、壁、地面のひび割れ等は、モノの表面とモノの性状において実現された絵画的表面なのであり、それらモノの質感や浸透作用は、記憶や予感を喚起するいわば働く主題(acting subject)となっている。絵画的主題でありながら、現実のモノの表面において作用する主題。この両義性こそ榎倉の特色であり、私たちにしばしばイタリアの「前アルテ・ポーヴェラ」作家アルベルト・ブッリを想起させるのである。

基本的に同じことが高山にも言える。高山は榎倉と違ってモノの表面には関わらず、むしろモノの背後、モノの下の暗部を凝視する。彼が偏愛する枕木は、それ自体がこうした視覚的心理的欲求によって選ばれた主題であると同時に、現実空間のなかで「背後」や「地下」を構成するメディウムともなるのである。

榎倉が平面的メディウムを好んだのに対して高山が枕木による多少とも構築的な側面を見せたという違いはあるが、むしろより大きいのは、モノが主題として用いられたという共通性の方であろう。高山が1968年の個展でネズミの入ったネズミ取りの篭を3個タブローに取りつけて発表したのは、アルテ・ポーヴェラのクネリスの影響かどうかということよりも、むしろ、彼にとっては生きたモノが絵画的主題の一部をなしていたという点で注目されるのである。主題たりうるモノとは、記憶や生活の匂いが染み込み、気配や予感をあたりに漂わせるモノである。事実、民俗学者柳田国男の愛読者だった彼らは、モノの表面やモノの背後に、近代以前のムラやマツリの構造を見ようとしていたのだった。だから、榎倉や高山のモノは取り替えがきかないのである。

これに対して、「李+多摩美系」モノ派はどんな特色をもっていたのだろうか。私はその特異さが、自然的状態で得られるモノをメディウムとしながら、主題は別のところに、すなわち「存在(との出会い)」ということに求めていた点にあると考える。人々は「モノ派」という言葉を他の誰に対してよりもこのグループに投げかけ、事実、彼らほど鉄板、角材、ロープ、神、石、板ガラス、綿、パラフィン、セメント、土といったモノを赤裸な形で多量に登場させた集団はなかったのであるが、その芸術の主題は、モノそのものにも、モノにまつわる記憶や想念にもなかった。ある意味では、彼らほどモノを軽視し、モノのかけがえのなさを疎んじた芸術集団はなかったとさえ言っていい。榎倉、高山と違って、「李+多摩美系」モノ派のモノはおおむね抽象的な原材料であり、同品質のモノと取り替えて何ら差し支えない場合が多かった。

だが、それでいて彼らのモノは素材ではなく、やはり主役だったのである。石やガラスを割っても、彼らはそこから形や他の物体を引き出すつもりはなかった。成田の《sumi》にしても、木という素材で炭をつくったのではなく、木が炭になったこと、すなわち同一事物の質的変容が問題だったのだった。

モノを主役としながら一見モノを軽んじているかのごときこのパラドクスを招いたものこそ、「存在」という主題であった。モノではなく「存在」の開示をこそ望んだ彼らの芸術は、まさにこの主題のゆえにモノを前面に押し立て、モノの起居振舞に沿って彼らの芸術を組み立てなければならなかった。それでいて、窮極のところ、肝心なのはモノではなくてモノにおける、あるいはモノを突き抜けたところでの存在の開示であるという微妙さ・・・・・・。だが、モノと存在もめぐるこの微妙な問題を互いに諒解し会えたところから、世代も教育環境も異なる「李」と「多摩美系」モノ派との合流が可能となったのである。作品から判断するかぎり、李の理解が先行していたわけではない。両者はほとんど同時に、たぶん、関根の《位相-大地》が出現した1968年の秋ごろに、「モノから存在へ」の具体的な方途を掴んだと考えられる。

しかし、「存在」とは元来哲学と彫刻の専権事項であった。大学で哲学を専攻した李が、西欧近代の物体偏重を批判し、存在の透明さを希求する視点持つことができたのは当然として、絵画出身の「多摩美系」モノ派はどこからこの問題への足がかりを見付けてきたのだろうか。奇妙にも、そしてそれが「多摩美系」モノ派の一大特色となるのだが、それは、1960年代後半の日本美術界の最も知的な部分を蔽っていたある特殊な絵画的思考の運動に由来するのである。その特殊な絵画思考とは、1960年代前半から、高松次郎の影の絵、彼を含む3人グループ「ハイレッドセンター」による観念と実在の分離培養実験、ジャスパー・ジョーンズやポップ・アートにおけるイメージと実体の互換性への関心、などをとおして徐々に渦を巻くように形成され、ついに1968年4月にはジェフリー・ヘンドリックスというニ流画家の騙し絵店をジャーナリズムがこぞって歓迎するところまで通俗化しながら、それにつづく「Trichs and Vision」展でピークに達した、視覚の主知主義的操作への偏愛という奇妙な現象であった。影あるいは一般にイメージや形態のなかに「不在」(真の存在の隠蔽)の証しを見るという、しばしば形而上的ですらあるこの主知主義的視覚―事実、高松は若年期にデ・キリコニ深く傾倒していた―は、高松や高松周辺の批評活動を介して広く若い世代に浸透し、とりわけ、高松が一時教鞭をとっていた多摩美術大学の学生の間に「不在/存在」をテーマとする伝統を形成し、また静岡地方に「幻触」という名の集団を生んだ。当時、視覚操作的でトリッキーな表現がどんなに流行していたかは、のちに主知主義の対極に立つことになるはずの「李+多摩美系」モノ派の面々までが、1968年にはほぼ全員、まるで「高松ゼミナール」の課題でもこなしているみたいに、その種の作品をつくっていたことで分かるだろう。

しかし、この視覚操作の演習は、それ自体がいかに幼稚で軽薄なものであったとはいえ、当時学生だった「多摩美系」モノ派の人々にとっては、無くもがなの小児性はやり風邪だったのではない。なぜなら、この演習のなかからこそ、彼ら「李+多摩美系」モノ派の最も特徴的な「存在」への注視が育ってきたと考えられるからである。すでに述べたように、高松の視覚操作はもともと視覚と実在、「見えること」と「在ること」の食いちがいを問題にしていた。この食いちがいから実在に対する不信へ、体制的価値や諸制度に対する懐疑へと向かえば、それは視覚のあいまいさを逆手にとった視覚の詐術の積極的な活用という道を開くことになろうが(「幻触」グループが一時期歩んだのはこの道だった)、他方、「見えること」と「在ること」の食いちがいを問題にしていた。この食いちがいから実在に対する不信へ、体制的価値や諸制度に対する懐疑へと向かえば、それは視覚のあいまいさを逆手にとった視覚の詐術の積極的な活用という道を開くことになろうが(「幻触」グループが一時期歩んだのはこの道だった)、他方、「見えること」の偶然性と習慣性、すなわち、モノの外見、イメージ、虚像、表皮、属性等をホコリを払うように払いのけて、「在ること」を直視する方向へと向かうならば、それはまさしく、視覚操作を旨とする等の主知主義そのものを批判的に乗り越えて、モノの在りようと直に出会う新しい芸術行動への道を開くことになるはずである。そしてその方が、不在の様相をとおして存在を把握しようとした高松の本来の狙いに適い、方法的には飛躍的に前進するはずであった。実際、高松の影響や位相幾何学の知識などでだれよりも早く長くトリッキーな繪画や虚像立体をレリーフの形でつくっていた関根伸夫が、1968年10月、神戸須磨離宮公園の野外彫刻展で地面を円筒状に堀り、同形同量の巨大な土の円筒をその傍に立てた(≪位相-大地≫)とき、主知主義的視覚操作の伝統は、モノを導入することによって、「見ることのあいまいさ」から「在ることの発見」へと鮮やかな転換を遂げたのである。

関根の≪位相-大地≫は、制作を手伝った小清水、吉田はもとより、他のすべての「多摩美系」モノ派と李に決定的な覚醒作用を及ぼした。この時点で彼らの意識は「モノ派」になったとみていい。だが、もし彼らがそれ以前に関根と同様に主知主義的視覚操作の演習期をくぐっていなかったとしたら、すなわち、「見えること」と「在ること」の剥離を実験していなかったならば、1968年末以降あれほど一斉に、あれほど明瞭な形で「存在」へと赴くことはなかったろうと思う。「李+多摩美系」モノ派の苗床として、高松以来の視覚の主知主義的伝統はきわめて重要だったのである。

こういう背景から出てきた「李+多摩美系」モノ派であるから、初めのうち、あるいは人によっては後になって再び、その作品に何パーセントかの主知主義の名残りがつきまとっていたのは無理からぬことだった。とくに、関根、吉田、李、小清水の初期の作法は、しばしばシュルレアリスム、とりわけマグリットのデペーズマンの発想に似ているとさえ評されたものである。しかし、彼らは急速に成長し、短期間に認識を深め、その認識の度合いに応じて、ある者は行き詰まって脱落していった。ここでは脱落まで語る余裕はないが、関根の≪位相-大地≫以後語るに足る時点までのモノ派の集団的展開を大雑把に把握しておこう思う。それは、次の3段階に分けて考察することが可能である。

第1段階(異種物質の対照)――異質で対照的な性質をもつモノとモノの遭遇によって、モノの偶有的な様相、様態、属性を相対化し、無化せしめ、その衝撃から存在のリアリティーを感得させる手法。モノを登場させたので、視覚操作を行う必要はもう無くなっていたのだが、モノの概念化された特性(たとえば柔らかいものと固いもの、軽いものと重いもの)に着目しているため、どうしてもシュルレアリスムのデペーズマン、でないまでも、前時代の「見えること」と「在ること」の剥離ということを概念的に行なう形になりやすい。この手法で登場したことが、「李+多摩美系」モノ派が誤解される原因となった。具体例としては、関根におけるスポンジと鉄板、巨石と鏡柱、吉田における鉄管と綿、角材と電光、李における綿と鉄板、綿と石、ガラス板と石、小清水における紙と石、等の組み合わせが典型的である。成田と菅がこの手法と無縁だったのは注目に値する。最初期の成田はモノの可変構造から空間の可変構造へと関心を移行させ、一時的にせよモノから離れていた。また、視覚操作の時期から抜け出たばかりの1969年前半の菅は、無謀にも―なぜなら彼はまだ現実空間の扱い方を知らなかったからだが― 、柱の立ち方を見つめるという形で直接に「存在」の把握を試みていた。しかし、このやり方では存在は概念的にしか扱われておらず、彫刻のセンスを身につけつつあった原口典之が≪エアー・パイプ≫シリーズで自立しがたいものを直立させたあと、鉄管、鉄柱の直立へと進んだ展開の具体性には及ぶべくもなかった。

第2段階(単一物質ないし単一空間の異相化)――同種で均質なものだけと関わるとき、芸術家はモノを第三者の立場から概念的に操作する余地を失ってモノに積極的にインヴォルヴし、インヴォルヴの様式(モード)自体からモノの在りようを引き出してくることになる。「李+多摩美系」モノ派の最も特徴的な様式(スタイル)と目されたのがこれであった。ここでも先例を示したのは関根(≪空相≫(油土))だったが、しかしこの様式は多用・多産であり、一律には論じがたい。およそ次のように類別することが許されよう。(1)ヒトとモノとの身振りによる交渉の強調(油土をこねる関根、木をチョップする寺田武弘、巨石を割る小清水)、(2)モノの位置・姿勢の変容にかかわる仕事(李における角材や鉄板の布置、吉田の角材吊るし、4枚の鉄板の横臥、本田真吾の丸太割り。これらの作品はモノの位置にズレをもたらすことを眼目とした)。(3)モノの時間的変容にかかわる仕事(成田の炭焼き)、(4)モノの分岐と空間の分節(菅のパラフィンによる方陣、セメントによる囲み)。

興味深いのは、(1)のヒトとモノの交渉様式は、それ自体は持続的な構造を持ちがたい一種ハプニング的性格をもつものであったが、純正な物質と直かに交わるという点で彫刻の制作理念に最も近く、事実、関根も寺田も小清水も、遠からず「物体」「制作」という観念を許用することによって彫刻への道をたどったことである。これに対して菅は、物体、彫刻の観念を介さずに、モノ(単一物質)へのヒトの介入から直に空間の異相、空間の多義性を引き出すというきわめてユニークな作法を打ち出し、その時点ですえに、「李+多摩美系」モノ派がモノ派たりうる最も純粋で意味深い制作原理を突きつけたのだった。

この第2段階は、単一物質にのみ関わるというその表面的な特徴のゆえに、またそれがモノ派の最盛期をなしていたために、多くの模倣者・追随者を生んだ。その典型は、蝋、土、煤、鉛、タール、鉱滓といった特異な物質の固まりにひたすら魅せられ、それを多少ともミニマルな形で提示するというものである。

なお、原口がモノ派的な様相を呈するようになったのは、「李+多摩美系」モノ派の第2段階に相当するレベルにおいてである。それ以前、紛争中の日本大学在学中に即物的リアリズムの絵画から3次元造形へ転進するきっかけをつかんでいた原口は、芸大グループの情念的・民俗的なモノの主題化とも、多摩美グループの主知主義的視覚操作の伝統とも無縁な環境で、いち早く新しい工業的素材の造形的活用になじんでいた。しかし、1969年末、遅くとも1970年の半ばごろから、鋼鉄、テント布、油、水、粘土といった彼の好みの物質は、彫刻的造形のためにではなく、それ自体の感覚映発力のゆえに凝視され、ほとんど手を加えずに配置されるようになる。そのときのモノを見詰める作家の目は極めて感覚的、いや官能的とさえ評してよかったが、彼は、マイナーなモノ派追随者たちと違って、それら物質の感覚浸透力を空間的な出来事として概念化する力を持っていた。

第3段階(「場」の発生) ― モノではなくモノの存在へ、さらにモノとモノの関わりの様態へ、と認識を深めていったモノ派は、最後に、そのようなモノは「何において在るのか」(場所性)、あるいは「何によって在るのか」(縁起性)という設問に逢着し、ここに、「李+多摩美系」モノ派の理論的、思想的な土台が確立するのである。この設問がモノ派全体(榎倉、原口も含めて)に早くから内在していたことは言うまでもないが、それを自覚的に追求していってモノ派芸術の自律性と発展性を実証してみせたのは、李と菅だけだった。

もっとも、作品のうえから見れば、李の場所性への注目、モノよりも関係性の重視ということは、図式的に表現されていたきらいがあり、ようやく1970年代末の鉄板と石による彫刻(西欧型の彫像、物体彫刻の伝統には由来せず、むしろ東アジアの庭園芸術の凝縮的再開発と見ることができる)に至って、独自の開花を遂げたと言っていい。

他方、菅は≪パラフィン≫でいち早く空間と交わる術を会得し、加えて、1970年以降、モノの存在の決定因として状況、イベントなどを順次覚醒させてゆき、他に類例のない独特の芸術を一貫して開発しつづけて行った。とりわけ、モノと空間の両義的な接点として「面」ないし「界」に注目し、面の表と裏、界のこちらとあちらといった位相転換をばねとして空間の分節、存在の多元的発現を可能にした方法体系は、まったく独創的なものであった。菅の作品にはつねに「何によってモノは在るか」、「何によって私たちはそれを見るのか」という設問(縁起性)が伏在している。しかし、同じ設問を、ジャスパー・ジョーンズが主知主義的で晦渋なタブローやオブジェに閉じ込めていたのと違って、菅はそれを、モノと空間に沿って、それらとの戯れとともに、肉体的・精神的な快活さで演じていった。存在への問いの答えは、モノにも作品にも概念にもあるわけがなく、モノや空間を分節するヒトとそのヒトの振舞いを規定してくるモノの構造との依存し合う戯れ(それは関係という静的概念では捉えられない)のなかにしかないことを、菅は作品自体によって示すのである。菅において、モノ派は真に肉体を得たと評していい。

いちばん均質で輪郭明瞭と思われやすい「李+多摩美系」モノ派でさえ、少し近づいて見ればこのように多様かつ多段階的であった。広義のモノ派全体での多様性がいかに大きかったかは改めて強調するまでもあるまい。この多様性ゆえに、そしてそれにもかかわらず、モノ派は「主役とされたモノの在りようや働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たち」の集団現象であったと定義しうるのである。

この集団現象それ自体は過大評価されるべきではない。モノとの直接接触によって彼らが何らかのユニークで根源的に新しい「芸術言語」を、たんにパロールとしてでなく、ラングとして確立することに成功したのでなければ、しょせんそれは、一時的な反抗の身振り、あるいは芸術という困難な課題からの逸脱・逃避として終わるほかないからである。そのような青春の反抗芸術からの逸脱という現象は、近代日本の自称新興芸術・前衛芸術のお家芸ではあっても、日本の近現代美術のあるべき姿、代表しうる姿ではありえない。この国の批評界には、1960年前後の「グタイ」や1970年前後の「モノ派」における形式不問の芸術的無責任さないし無邪気さを、前衛であることの証明として、あるいは非西欧的感性の正統な表出として、過大に評価する傾向があるが、そのような見方は、日本の芸術を西欧のものさしで見るか、あるいは、日本の芸術を非西欧的な部分でしか評価しようとしない欧米人の好みに無意識のうちに迎合することにつながっているのである。モノ派における技術と形式への無関心、つくることと想像することへの消極的な姿勢、自然への過度の依存、それと表裏をなす概念的な処方、色彩の追放、といった全般的な徴候は、それ自体に何ら価値的、積極的なものを含んではいなかった。

モノ派は、もしこれを一時期の集団的現象として共時的な目でのみ見るならば、時間をかけて形成・成熟していかなければならない日本の近代美術の流れのなかにしばしば割り込んで、歴史的忘却効果をもたらしてきたいくつかのエアー・ポケット現象の一つに数えることが許されよう。その種のエアー・ポケットは、あたかも戦争の暴力に似て、歴史的に形成されたもの、されるべきものの多くを破壊しながら、それと引き換えに、事物の関係を一変し、意識の変革をもたらす。しかし、それに伴って芸術が必ず新しい形で生まれるか否かは、別問題なのである。

では、モノ派には積極的に評価しうる要素はないのだろうか。そんなことはあるまい。モノ派のメンバーであれ、後続世代の作家であれ、このエアー・ポケット現象をくぐり抜けようとした人々が、その体験のなかから持続性と継承力のある芸術言語を確立しようと努力するかぎり、モノ派による既存関係の破壊は、新しい関係の開発あるいは古い関係の再開発として、積極的な方向に転化しうる。純粋なモノ派時代に分離していた「存在」の主題と「存在者」としてのモノとを緊密に結びつけ、手わざの必然性を深く諒解する道を開いた。彼は古い彫刻形式に戻ったのではなく、モノ派時代の体験を自ら批判的に肉化し、日本の彫刻史に新しい意識水準をもたらしたのである。それから10年後、1980年代に入って、モノ派の反技術主義、自然への一元的傾斜、ヴィジョンの抹殺等を真っ向から批判しうる本格的な彫刻集団があらわれ始めたのも、「モノ派以後」という一種の「戦後」時代の成熟と見なすことができるだろう。これら批判者の方が、モノ派の垂れ流し的追随者であるインスタレーション作家たちよりもいっそう真正な継承者なのである。

このほか、個々の作家の歩みと日本の美術界全体の歩みを通時的な目(進化論的歴史主義の目でなく)で見るならば、モノ派の時代は、それを内面的に批判して生きようとした人々にとってのみ、きわめて意義深い出来事であったことが理解できる。それは、意識の噴出であると同時に切断であり、インスピレーションであると同時に災厄であり、超えるべき障壁、魔力、虚妄、そして何よりも、芸術の領域内で起きた芸術への暴力であった。だから、モノ派は、グタイのように間違って神話化されてはならない。それは、私たちにとって、いまなお克服していかなければならない戦争体験なのである。

1986年8月15日

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