Solo Exhibition

September 2 - October 22, 2000

standing obfects

ヘルベルト・バイヤー

2000年9月2日-10月22日

展覧会概要

1900年、オーストリアのオーバーエスターライヒ州ハーグに生れる。1919年から1920年にかけて、リンツのデザイナー、ゲオルグ・シュミットハマーの事務所で見習い、最初の印刷作品を製作。1921年、ダルムシュタットのデザイナー、エマヌエル・マルゴルトのアトリエに勤務。ヴァシリー・カンディンスキーの著書「芸術における精神的なるものについて」(‘concerning the spiritu-al in art’)に感銘を受け、カンディンスキーが教鞭をとるバウハウスのある地・ワイマールへ赴く。

1921年秋にウォルター・グロピウスと出会いバウハウスに入校、1921年10月から1923年7月まで、また1924年10月から1925年2月まで学生として在籍。オスカー・シュレンマーとカンディンスキーのもと壁紙工房で学び、職人資格を取る。1925年のワイマールからデッサウへの移転に伴い、バイヤーはバウハウスの指導者 ユング・マイスター(jung meister=若親方)に選任され、1925年4月から1928年4月までを勤務。新たに設立された印刷・広告工房の主任となった。1928年以降はヴォーグ・ドイツのアート・ディレクター、またベルリンの国際的な広告代理店スタジオ・ドルラントの責任者として、ポスターや広告、レターヘッドまで、幅広いデザインを手がける。

1930年にはパリで開かれた「装飾芸術家協会展」のドイツ部門を始めとする展示会の構成・運営に携わり、傍ら絵画・写真分野でも活躍。1938年合衆国へ亡命後、バイヤーは多数の展覧会をデザインし、グラフィック・デザイナーとしてニューヨークで活躍する。1946年、コロラド州アスペンに招かれ、アスペン発展の為のコンサルタント、またアスペン文化センターの設計者、コンテナー・オブ・アメリカの芸術顧問となる。

グラフィックデザイン、絵画、タイポグラフィー、フォトモンタージュ、彫刻や建築と、その生涯を通じジャンルを越えて創造的才能を開花させたバイヤーは、ここにきて幼少時代からの、野外活動・自然への興味を芸術へと昇華させるに至った。バイヤーの環境芸術‘Earthwork’は、1955年の‘Grass Mound’、‘Marble Garden、1973年から1974年の‘Anderson Park’として実現される。ウォルター・グロピウスによるスローガン‘ART AND TECHNOLOGY - A NEW UNITY (芸術と技術の新たな統一)’のもと、建築を総合芸術とし、あらゆる芸術の統一を目指した美術学校の生徒としては、バイヤーはあまりに理想的といえよう。まさしくバイヤーは、芸術と技術、自然の統合を体現したトータル・アティストなのである。

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