Solo Exhibition

May 17 - June 15, 1996

FOUR SPEAKERS
Hans Peter Kuhn “FOUR SPEAKERS” 4 speakers, colum

FOUR METALS
Hans Peter Kuhn “FOUR METALS” 4 metal plates (copper, blass, steel, lead)

3 by 2
Hans Peter Kuhn “3 by 2” 2 speakers, glass object

ハンス・ペーター・クーン 展

1996年5月17日 - 6月15日

音を感覚するということ。アコースティックな拡張から点在的振動まで、その多層な空間変容により視覚の想像性を刺激し、空間そのものを別の方法でたちあらわせ探求すること。ハンス・ペーター・クーンの作品においては、視覚と聴覚という要素が瞬間瞬間にまったく違う様相で関係を結んでいく。視覚は空間性においてシーケンシャルなものであるが、聴覚は聴取する多層な音の場やその移動を多方向的に同時に受けとめることができる。これら知覚を切断し再構成すること。それによって空間は、つねにあらたにたちあらわれる。

クーンを語るとき、音-そして聴くということにかかわるインスタレーションやパフォーマンスのみならず、シアターやダンス、映画、ラジオ作品など、他領域との実験的なコラボレーションにたえず自らを開いていることが挙げられる。78年にアドルフ・ヴィンケルマンの映画にサウンド・エンジニアとして関わって以来、79年のロバート・ウィルソン演出作品を皮切りにリュック・ボンディ、クラウス・ペイマン、ペーター・ザディックらのシアター作品の音を担当している。特にウィルソン作品とのコラボレーションは、注目すべきだろう。というのもウィルソンのシアター作品において音は、空間の全体性、視覚の全体性と対等にレゾナンスするきわめて重要な構成要素だからである。しかもそれらは、形象化される現在だけが重要なのではなく、全体との関係性につねにリファレンスすることで新たな意味を召喚していくことになる。90年代以降はウィルソンのインスタレーション作品においても音を担当、89年からはダーナ・ライツ、ローリー・ブース、花柳壽々紫らダンス作品の音を、また一昨年からの舞踊家、和田淳子とのコラボレーションではインスタレーションを担当するなど、その活動はここ数年より拡がりをみせている。クーンの個人での活動は、このようなトランスジャンル的活動に触発されつつ、展開されてきたといえるだろう。

クーンのインスタレーションでは、音の移動や微細なずれ、関係性を最大限に浮上させるため、建築・環境的特性を生かしつつ空間は極力ミニマルに構想される。たとえばベルリンの旧病院であったアートセンター、ベターニエンの吹き抜け部分でのインスタレーションでは、一階の床に蛍光管がそれぞれ斜めに規則的に配置され、観客はそれを二階部分から見下ろすことになるが、両フロアから発せられる対照的な音の展開によって、視覚と聴覚との間でゆるやかなコンポジションが発動する。また別の作品においては、四角柱などの幾何学的構造物、ラウドスピーカーもしくはスライドプロジェクター、そしてライトなどで構成される各ユニットが等間隔的にシステマティックに配列される。それらは建築と作品の狭間、つまり抽象的で意味をそぎおとされたニュートラルなプラットフォームとしてある。このようなユニットによって視覚的に分節化されたモダニズム的空間において、時には急速なピッチで、時には沈黙をいだきながら移動する音は、不安定で非物質的な存在としてさまざまな位相をみせうることになる。観客は、反復的なインスタレーションの空間性を自由に切断することによって、リアルタイムに生成する音の場を体験することになるのである。

空間に放たれる音の断片は、たとえば会話の断片や街の喧騒、機械・電子音など、日常の場から採取されたものである。それらは時には即物的に再生されるが、むしろオリジナルのコードを離脱し抽象化され、ずれをともない反復される。短いビットで複数のスピーカーを高速で移動したり、増幅され反復されるそれら音の多層とずれによる関係性にこそ注意が払われなければならない。

クーンの作品において扱われている音は、聴取可能な音やその振動のみではない。山積みにされた電球の破片の中に蛍光官や電球、スピーカーが埋めこまれ、ガラスの破片の音が流されるインスタレーション“Fassunglos”においては、電球-リサイクルされる電球の破片-ガラスの壊れる音というインターメディア的連関を読み取ることが可能だろう。またビルの各フロアで展開された作品“Five Floors”の最上階でのインスタレーション“Silent Museum of Sounds”では音はまったく流されず、死んだハエ、開けられたシャンパン・ボトルなど、かつて音をたてていたものが置かれたが、ここでは音の生成は、観客おのおのの記憶と想起にゆだねられている。実体ではなくヴァーチュアルな潜在的可能性としての音が、視覚の断片によってたちあがりうるのである。

今回のインスタレーションは、4つの部分からなるが、それぞれが自律的なものとしてあるとともに、空間においてそれらが凝縮し、異なった緊張で関係しあうことによって、ひとつの音環境を浮上させている。もちろん音は均質的に存在するのではなく、空間の位置や時間性によってまったく違ったものとしてあらわれるが、重要なのは空間における音のみではなく、それをそれぞれの観客が音としての空間を自らのうちにもたらすということだろう。

空間は、表現もしくは物としての作品が空間を支配するのではなく、ひじょうに細心かつさりげない幾何学的点在によって脱中心的に構成されている。入り口に立つと、白い台の上の4基のスピーカーが視線に対してちょうど斜めになるように配置され、側面を見せている。それらスピーカーに向かって立つと、ちょうど左右の壁面にそれぞれ作品がほぼ対称的な位置であらわれる。右に3D(三次元立体)映像と音による作品、左には2枚の写真。そして写真が設置されている壁面の裏側から音が時おりきこえてくる。

ひとつめの作品では、空間の隅へ向けられた台の上の4基のスピーカーの間を増幅され抽象化された打音のような音が移動することにより、空間が微細な動きをもちつづける。右側の壁の片隅の3Dを体験するための小さなスポットは、立つとほぼ顔がくる位置に左右に反転された映像があり、それらを写す中央の鏡を見ることになる。左右の耳もとに流される電子音とともに、映像と音による3D世界(実在せず、知覚の内側のみにあらわれる可能性としての存在)がささやかに、その定点にのみパーソナルに出現するのである。モノクロの2Dの風景写真の手前に3Dで浮きあがるコンピュータで合成された赤、黄、緑、紫、ピンクというヴィヴィッドな色の四角柱(インスタレーションで使用されるミニマルな造形としての構造体)。感覚されるこの映像は、2次元と3次元というずれをそれ自体に内包する。別の壁面にある2枚の写真は過去のインスタレーションからのもので、音がスピーカーの振動をともなって移動しつつ静かにたちあらわれる“Sprunge”(ポツダム)、そして前述したベターニエンでの“Untitled”、いずれも静謐な作品である。その壁の背後に設けられた狭く細長い空間には、壁面に比重の異なる4種類の金属板(銅、銀、真鍮、アルミニウム)が等間隔ではめこまれており、それぞれの上部(壁の上)に各1基ずつ設置されたスピーカーからそれら金属にまつわる音が時おり放たれる。この一見均質にみえる乏しい空間においては、それぞれの金属の持つ象徴的意味、視覚的な輝き・反射などによる相違におのずとコンセントレートさせられ、一人一人が空間および音を通してその環境を感覚する主体としての自分自身のずれと対峙することになるだろう。

それぞれの作品の中にずれをはらみ、また作品同士が互いにそれを増幅させつづけ、けっしてひとつのものへと収斂することのない、非均質的な音の場。ありふれた知覚の場を、音の空間のもつ多層性の聴取や不在性の読み取りへと細分化し、視覚の空間性へ抽象的に再構成あるいはアレンジメントすることによって、空間そのものの予想のできない断面や位相をわれわれにもたらすこと。聴覚と視覚の組み替えによるたえまないコンポジションへの衝動を、きかなければならない。

四方幸子

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