雑誌『美術批評』誌上で、針生一郎、東野芳明、中原佑介ら“御三家”と呼ばれた美術評論家が活躍をしはじめた頃、東京大学の大学院に籍を置く石子順造が、美術へのほとばしるような情熱を秘めて、転地療養のため静岡の清水に移り住んだのは、「幻触」誕生から10年前にさかのぼる1956年の事だった。石子が、先に清水で立ち上げたグループ「白」の経験を反省材料にして改めて組織した「幻触」は、石子の理想を具現化したような前衛集団だった。当時30歳代後半の石子は、死と隣り合わせの身体で、命を削るように批評の言葉を紡ぎだし、静岡の若い美術家たちをたきつけて制作に向かわせた。「幻触」のメンバーは、多摩美術大学出身の鈴木慶則や小池一誠のほか、静岡大学教育学部美術過程出身の丹羽勝次や長嶋泰典ら、四年制大学で美術を学んだ者がいる一方で、版画家の山口源に私淑した後、抽象木版画を制作していた前田守一、満州からの引き上げ者で、静岡に戻ってからは、地場産業として盛んだった下駄にミッキーマウス風の絵付けをして生計をたてていた飯田昭二、木工家具の職人の中森五三九などからなる、一見寄せ集めのような顔ぶれであったが、石子の期待に応えるだけの精鋭集団であった。1964年になると石子は、東京に仕事場を構え、執筆活動に邁進しながら第一線で活動する批評家や作家との交流を図り、静岡に戻っては、「幻触」のメンバーに、最新の批評言語をまくしたてる。禅問答のような石子の話を受けて、石子の帰京した後もメンバーは会合して、問いへの回答を求めて、実制作に向かうといった双方向の交わりが、繰り返されていった。中央と地方の格差が、情報とコミュニケーションの質と量であるとすれば、石子を介して情報と人脈を手にしていた「幻触」は、その点で、どの前衛グループよりも恵まれていた。[1]

1960年代は、美術批評が機能していた時代で、美術批評が、批評家や作家の間で共有され、作家は実作で、批評家は批評で応酬するというような、美術のコミュニティが存在していた。1968年に開催され中原佑介と石子順造が共同企画した「トリックス・アンド・ヴィジョン展」は、まさに批評家の言葉と、作家の実作が交錯する時代を象徴する展覧会だったといえる。現代美術を論じる美術評論家としての石子順造にとっては、石子自身の美術批評が頂点を極めた瞬間であり、次に到来する美術の新しい潮流との臨界点となった展覧会であった。これは石子一人で到達した地点ではなく、“御三家”の三人や、宮川淳、石子順造ら批評文の中で交わされた議論、ことさら宮川淳が「アンフォルメル以後」の中で提起した、「近代芸術のコンテクストからいかに脱却するか」という問いへのあがきであり、「表現における現代を定立する」という課題に答えようとした結果、現代美術が到達した地点だった。[2][3][4]

1966年から1968年にかけての「幻触」の作品、例えばキャンバスに、キャンバスの裏面や、よく知られる名画のイメージをだまし絵風に描いた鈴木慶則の《非在のタブロー》、遠近法と切り抜きによって、平面を立体に見せる丹羽勝次の箱シリーズ、遠近法の考え方を、ものさしの形をした立体物で表現した前田守一の《遠近のものさし》などは、西洋近代の産物である制度としての絵画の内構造を問い直そうとする思考の表れであった。絵画を制度に関する事柄であると捉える考え方は、宮川淳や石子順造の批評の中に度々現れている。

飯田昭二や小池一誠は、この頃、虚像を映し出す鏡の視覚的効果を利用した作品を生み出している。飯田の《Window》は、フランス式の格子窓をモチーフにしたマルセル・デュシャンが1920年に制作した《フレッシュ・ウィドウ》[5]へのオマージュとも取れる作品だ。デュシャンの作品は、閉じられた扉のガラス部分に黒い皮がはめられており窓の内側を覗き込もうする視線が遮られるように作られているのに対し、飯田の《Window》は、開かれた窓の内側が鏡になっていて、内側を覗き込もうとする人自身が、映り込む仕掛けになっている。外側から覗き込む自分を、鏡に映る自分が見返すという仕掛けは、作品の内部に作品の外側にいる鑑賞者をも含み込んだ設定になっている。この作品からは、作家の自我表出としての近代絵画(タブロー主義)を否定する態度を読み取ることができる。小池一誠は《自画像》で、キャンバスに自分の似姿を描きながらも、その姿は、作品を見る鑑賞者の視線と出会うように描かれる。これも飯田と同様、絵画の内側と外側の問題を扱っているといえよう。

李禹煥が1968年10月に著した論文「事物から存在へ」の中で、「トリックス・アンド・ヴィジョン展」を指すと思われる同時代の美術の在りように対し、痛烈な批判を浴びせながらも[6]、そこに「現代美術が到達した頂点の高さ」を認め、「新たな世界への飛躍をさえ約束している絶頂」を感知していた事は、確かな事実だった。

(かわたに しょうこ 静岡県立美術館 上席学芸員)

[1] 「幻触」が発足した1966年ごろには、全国の地方各地を拠点に活動する前衛グループが、多数存在した。当時の美術雑誌に収録されている、グラフィックデザイナー木村恒久デザインの「日本列島=前衛グループ・ガイドマップ」によると、1950年代後半から1960年代には、日本全国に、少なくとも58もの前衛グループがあったことが確認できる。「特集 地方の前衛」『美術手帖』第296号、美術出版社、1968年4月号

[2] 「ここで、対照的な軌跡を描きつづけてきたかに見えるこの二人の批評家が、ひとつの同じ壁に突き当たっていることは重要だろう。おそらく、そこに、アンフォルメル以後の数年間の美術批評の方法論が一つの決算期に差しかかりつつある事態を見ることは間違いではないのだ。」初出は、宮川淳「変貌の推移 モンタージュ風に」1963年10月 引用文は、宮川淳著、建畠晢編『絵画とその影』みすず書房 2007年、29頁

[3]「アンフォルメル以後の美術の問題はまたすぐれて批評の問題でもあったということだろう。なかで針生一郎の引用が多くなったのは、彼がアンフォルメルの必然性を認めて、それを主体的に受けとめ、以後、アンフォルメルによって引き起こされた日本の美術の「地すべり」に一貫した方法論で対した、ほとんど唯一人の批評家であったからだ。」前掲書、30頁

[4] 「そんな美術論壇(といえるものがあるとして)で、はじめて真向からこの動向を俎上にのせ、新たな表現の可能性をにないうるものと指摘したのが宮川淳だった。氏はいわゆる「アンフォルメル以後」が開始された時点で「変貌の推移」を回顧しながら、つぎのように結論した。(中略)ほかならず論者自身の、現代化への強い願望に支えられてあるこの適切な課題提起は、今日まで少数の人たちによって断片的に試論化されながらも、残念ながら充分答えられてきたとはいえないようだ。」初出は、石子順造「ハプニング以後」『美術ジャーナル』1967年、引用文は、『イメージ論?石子順造著作集Ⅱ』喇嘛舎1987年、232頁

[5] この作品の画像が、1967年2月に美術出版社より刊行された、宮川淳『鏡・空間・イマージュ』に参考図版の一つとして掲載されている。1967年6月に発行された「幻触」の機関紙には、「窓が気になる」のタイトルで、窓を話題にした会話のメモが掲載されており、飯田が、宮川の本に掲載された同作品の図版を参照していた可能性も考えられる。「幻触器」No.2 うらばなしとしての機関紙、1967年3月、1頁

[6] 「現代美術-、そこでは、虚像が自己実体性を主張し、事物のメディア・メッセージの合理化現象が行われていたのである。人間自ら招いた「運命的な悪循環」の中で、ますます自然な存在世界から遊離され、非実体化(虚像化)へと凍りづいていく現代美術の事物光景は、そのまま人間の事物化光景そのものといってしかるべきだろう。」李禹煥「事物から存在へ-現代美術の構造論的批判を通じて」1968年10月、引用文は、『グループ「幻触」と石子順造1966-1971』展図録、2014年3月、静岡県立美術館、332頁

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