赤塚祐二の画面がたたえる深い奥行きの感覚は、容易に見てとれるように幾重にも重なった層状の空間の構造によるものである。この“層”とは一義的には塗り重ねられた絵具の層のことであるが、もちろんそこには画家としての精妙なたくらみが潜んでいるのであって、単に塗られた順番に従って奥の層から手前の層へと並んでいるわけではない。層と層の相互の関係ははるかに複雑なものであり、その入り組んだ画面の構造が、絵画空間としての豊穣さを私たちの目に印象づけているのである。それは時には地と図の間に生み出された距離の感覚であり、また色彩遠近法的な効果としての手前と奥の感覚なのであって、当然ながら、絵具の層を物理的に重ねただけでは、このような“絵画的な富”としての三次元的なイリュ-ジョンは発生しえないのである。

もし画家が視覚的な矛盾を避けたいのなら、手前の層には進出色を奥の層には後退色を用いればよいはずである。それはまさに窓の比喩で語られるべき絵画であって、私たちの視線はつつがなく不透明なものの表面である画面の向こうへと延長されることになるだろう。しかし赤塚はこうした“開かれた窓”の空間の秩序に画面のイリュ-ジョンを従わせようとはしない。彼の関心はむしろ逆にスム-スな層状の構造に背反するような仕掛け、言うならば視覚的な葛藤の原理を導入することによって、絵画空間を活性化することに向けられているように思われる。

具体的に見てみよう。茫漠とした背景の上に黒い不定形の形象を浮かばせていたかつての作品に比べて、今回の個展の作品では前面に黒の強いストロ-クが現れ、その背後に暖色系や寒色系の色面が流動しているように見える。以前の黒い形象はそれ自体が後退色の色面であって、見方次第では背景の上にあるのではなく、その奥にのぞく闇の空間と思えなくもなかったが、今回の黒のストロ-クは明らかに一番手前にあり、流動的な色面の広がりを、その向こう側の空間で展開される現象として意識させていると言ってもよい。つまり黒はここでは空間の最前面を強固に規定することによって、背後へと色面を浮遊させる働きをしているのである。モンドリアンの黒いバ-と同様に、そこでは線(もしくは帯)というものが、自ずから空間の視覚的な檻として機能してしまう(透かし見せながら押さえ込む)のだ。

もちろんこのストロ-クの多くが奇妙な紡錘形をしている点にも注目すべきだろう。それは線的な要素でありながら、同時に固有の喚起力をもった形象でもあろうとしているのであり、その二重性が背後の色面との相互的な関係(どちらが主役か)を微妙に緊張させているのである。ある意味では今回の個展の画面は、背景と形象が、また面的な要素と線的な要素が同等の力をもって拮抗するフィ-ルドなのだ。

しかし背後のその色面もまた、単純なものではない。彼は油彩に蜜蝋を混ぜて使うが、それは独特のマチエ-ルの感触を生むばかりではなく、層としての不透明性を多少なりとも和らげる(光の浸透性を増す)効果をもたらしてもいる。つまり表面の層が宿す光のうちに、背後の層の存在の気配が感じられるのであり、それは色彩のニュアンスを深めると同時に、また重厚な空間の奥行きの感覚にも結びつくものと言えよう。

技法的にさらに重要なのは、彼が筆ではなくもっぱらペインティング・ナイフを用いているということである。絵具を薄く引き伸ばし、擦り付けるその作業は、一方では画面から絵具を拭い取るという作業でもある。その両義的な方法によって、塗り重ねられた層は半ば一体化し、混ざり合い、あるいはまた掠れた色面の下からもう一つの色面が歴然と浮かび上がって来るのだ。言うならば、複数の層が一つのフィ-ルドに流動的に共存しているのである。

もっともそれは色彩の饗宴の華麗さを誇るだけの世界ではない。単に即興的な混沌の華やぎに身をまかせただけであるならば、空間はたちどころに弛緩してしまったに違いない。彼の作品では、画面に水平方向の振動と画面に垂直方向の振動とが同時に同じ原理によって生み出されており、それは明晰な方法意識に貫かれた制作によってでなければありえない世界と言わなければなるまい。イリュ-ジョンの生成の装置としての層状の構造に対する透徹した思索を感じさせる作品群である。

1996年10月

(たてはた あきら 美術評論家)

Top » 赤塚祐二展