峯村敏明「「モノ派」とは何であったか」

第二回


ここで私たちは、モノ派が「モノを素材としてでなく主役として登場させた」とはどういうことか、考えてみなければならない。小清水を除けば、モノ派はすべて大学で絵画を専攻した人々であり、それでいながら絵画の死を予感してモノに走ったいきさつを持つ。しかも、その走り方をみると、たとえばドナルド・ジャッドが絵画的イリュージョンを理詰めの制作で縮減していった挙句に「特殊な物体」というつくりものとしての作品を積極的に制作することを放棄し、自然的条件で存在するモノを導入して、モノに依存する方向に踏み切ったのだった。この方向の選択自体を私は非難するつもりはない。ただ、このようないきさつで出てきたモノ派の芸術は、絵画的思考を消却しきっていたわけではなかったわけではなかったために、かえって、表向きの絵画否定にもかかわらず、絵画的視覚によって大幅に規定されていたこと、そして、モノ派の特異さの多くがこの絵画的視覚とモノとの不調和な関係に由来していたことを指摘したいのである。それは、絵画的視覚が絵画を否定してモノを選んだことの矛盾であった。この矛盾の中味は、しかし、けっして一様ではなく、「芸大系」と「李+多摩美系」とではまったく異なる文脈に沿って自己展開を遂げている。その結果、一見したところ、両グループは同じ「モノ派」の名のもとで扱うのが不当と思えるほど、別種の相貌を呈しているのである。

まず「芸大系」であるが、榎倉と高山に共通し、かつ彼らを他のモノ派から区別させている最大の要点は、彼らの作品ではモノがメディウム(媒体)であると同時に主題にもなっていることであろう。(後述するように、「李+多摩美系」モノ派では、モノは主題としての質をもったことはほとんどない。原口は1970年末あたりから数年間モノを主題化させる方向をたどったが、その場合のモノは、ほとんど概念化された感覚的な質としてのそれであった)。榎倉の油のしみ、皮、壁、地面のひび割れ等は、モノの表面とモノの性状において実現された絵画的表面なのであり、それらモノの質感や浸透作用は、記憶や予感を喚起するいわば働く主題(acting subject)となっている。絵画的主題でありながら、現実のモノの表面において作用する主題。この両義性こそ榎倉の特色であり、私たちにしばしばイタリアの「前アルテ・ポーヴェラ」作家アルベルト・ブッリを想起させるのである。

基本的に同じことが高山にも言える。高山は榎倉と違ってモノの表面には関わらず、むしろモノの背後、モノの下の暗部を凝視する。彼が偏愛する枕木は、それ自体がこうした視覚的心理的欲求によって選ばれた主題であると同時に、現実空間のなかで「背後」や「地下」を構成するメディウムともなるのである。

榎倉が平面的メディウムを好んだのに対して高山が枕木による多少とも構築的な側面を見せたという違いはあるが、むしろより大きいのは、モノが主題として用いられたという共通性の方であろう。高山が1968年の個展でネズミの入ったネズミ取りの篭を3個タブローに取りつけて発表したのは、アルテ・ポーヴェラのクネリスの影響かどうかということよりも、むしろ、彼にとっては生きたモノが絵画的主題の一部をなしていたという点で注目されるのである。主題たりうるモノとは、記憶や生活の匂いが染み込み、気配や予感をあたりに漂わせるモノである。事実、民俗学者柳田国男の愛読者だった彼らは、モノの表面やモノの背後に、近代以前のムラやマツリの構造を見ようとしていたのだった。だから、榎倉や高山のモノは取り替えがきかないのである。

これに対して、「李+多摩美系」モノ派はどんな特色をもっていたのだろうか。私はその特異さが、自然的状態で得られるモノをメディウムとしながら、主題は別のところに、すなわち「存在(との出会い)」ということに求めていた点にあると考える。人々は「モノ派」という言葉を他の誰に対してよりもこのグループに投げかけ、事実、彼らほど鉄板、角材、ロープ、神、石、板ガラス、綿、パラフィン、セメント、土といったモノを赤裸な形で多量に登場させた集団はなかったのであるが、その芸術の主題は、モノそのものにも、モノにまつわる記憶や想念にもなかった。ある意味では、彼らほどモノを軽視し、モノのかけがえのなさを疎んじた芸術集団はなかったとさえ言っていい。榎倉、高山と違って、「李+多摩美系」モノ派のモノはおおむね抽象的な原材料であり、同品質のモノと取り替えて何ら差し支えない場合が多かった。

だが、それでいて彼らのモノは素材ではなく、やはり主役だったのである。石やガラスを割っても、彼らはそこから形や他の物体を引き出すつもりはなかった。成田の《sumi》にしても、木という素材で炭をつくったのではなく、木が炭になったこと、すなわち同一事物の質的変容が問題だったのだった。

モノを主役としながら一見モノを軽んじているかのごときこのパラドクスを招いたものこそ、「存在」という主題であった。モノではなく「存在」の開示をこそ望んだ彼らの芸術は、まさにこの主題のゆえにモノを前面に押し立て、モノの起居振舞に沿って彼らの芸術を組み立てなければならなかった。それでいて、窮極のところ、肝心なのはモノではなくてモノにおける、あるいはモノを突き抜けたところでの存在の開示であるという微妙さ・・・・・・。だが、モノと存在もめぐるこの微妙な問題を互いに諒解し会えたところから、世代も教育環境も異なる「李」と「多摩美系」モノ派との合流が可能となったのである。作品から判断するかぎり、李の理解が先行していたわけではない。両者はほとんど同時に、たぶん、関根の《位相−大地》が出現した1968年の秋ごろに、「モノから存在へ」の具体的な方途を掴んだと考えられる。